編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏 / ロゴ:配野美矢子

                                   NO.634 2015.05.13 掲載


 
『とうよこ沿線』No.8…昭和56年(1981年)11月1日

 B5判 紙数:92ページ

 頒布:有料 定価200円
   
      参加して…

          

義理と人情の上州から

          
学生  小野関 裕一(菊名


 

「ぼくは君と同郷なんだよ」「あ、そぉなんですか……」これが我輩と編集長との初めての会話。以来、3カ月余りというもの義理と人情、からっ風≠フ上州人である我輩は、この人こそ真の上州人ではないか?≠ニ思いこんだ。(元来、我輩は思いこみが激しく、熱しやすくさめにくいという性格なのです)。

 当時、我輩は18歳。上州の田舎から出てきたばかりの紅顔の美少年であった。(と、いうことにしておきます)。この無垢な少年が、3分ごとに電車がくるような大都会に出てきて、右も左もわからない。「横浜さ、フラフラしとると異人さんに連れていかれてしまうぞ」……そんな話も聞いた。「上野の動物園にゃ、パンダっつう支那からきた黒白の熊がいるそうだ」等々……我輩にとってはまったく未知のところである。毎日、6畳一間のボロアパートで、ひざをかかえて過ごしていた。

ある日、我輩は部屋を飛び出し近所の本屋へ行った。そして、それが我輩の転機となった。『とうよこ沿線』を発見したのである。その時から我輩の転落(?)の人生が始まった。

 7月19日からの夏休み。田舎へ帰ったのはたったの5日。それも2回にわけて。お盆休みもなしだ。毎日毎日、編集室通い……。「僕はもしかして、横浜放送映画専門学院の学生じゃぁなかったかしら」と自分に言い聞かせながらの日々であった。

 この雑誌で、我輩の仕事は雑役である。とにかく何でも屋さんですから……ま、何でもまかせてやってください。



          
              ヒヨコは白鳥に?!

                  主婦  塚田 玲子
(奥沢)



 

 花形記者を夢見て出版社に就職したのが20歳のとき。4年間、先輩記者に手取り足取り育てていただいたおかげで、やっと卵からヒヨコになりかかった時、結婚してリタイア。

 それからは御多分にもれず、育児・家事等適当にだらけながら、反省のない日々を重ねること20数年。
 同時にスタートした方たちの華やかな活躍ぶりをテレビや雑誌で見るたびに、これではいけない、シャンとしなければと思いながらも、生活を変える勇気もなく、へんにあせっていた頃、『とうよこ沿線』に出合ったのです。

 「これだ」と飛びついてはみたものの、身についた怠けグセと、不勉強のおかげで「参加しています」なんておこがましく、まったくの役立たず。日吉から電話をいただく度に「これっきり、これっきり」と言い訳を考えながら、編集室のドアをおそるおそる開けるのです。
 開けたら最後、結果は、もう参加させられてしまうのです。根が乗り易い性質なので、帰り道は勇気リンリンとまではいかないまでも、「やってみるか」……。不思議ですね。

 『とうよこ沿線』との出会いがなければ、小さな社会に無理矢理自分をはめこんで、ますます落ちこんで行く自分の姿に、ゾッとしていたことでしょう。

 たまには、通い帳を持って「ご用はございませんか」と編集室のドアを開けてみようかな。



         縁かいな、マグロがとりもつ仲         

                  主婦  
内野 瑠美
(緑が丘)


 

我が家はかなりの大家族。台所こそ別ですが、家事に追われて、てんてこ舞いの毎日。
 こんな大家族にふさわしく、安売りのマグロ買いの行列に加わったのが春浅き3月のこと。そこでふと目についたのが店頭に積んであった『とうよこ沿線』でした。行列に並んでいる間、夢中になって沿線記事を読み、マグロも無事に手に入れましたが、もっと大きな収穫を持って我が家に帰った次第です。

 かなり内気な私がなぜ編集室に「一筆啓上…」と手紙なぞ書いたのでしょう。原稿書きに悪戦苦闘する時、いつも我が身をうらむのです。あの安売りのマグロ買いにさえ行かなかったら、一枚の原稿書くために油汗を流さなくてすんだのに……。

 しかし、まてよ、とも考えます。『沿線』に参加していなかったら、ただただ毎日安売りのチラシ広告に目を走らせているだけだったかもしれません。なにしろ最近、その種のチラシは脇におき、地域の情報や、ニュースにのみ目がいくようになったのです。

 取材で見知らぬ人々にお会いして、さまざまな人生、生き方にふれる時、自分の今までの世間の狭さにびっくりします。魅力的な男性にお会いして「わたし、オバンよ」と開き直っていた私も、少々お顔のことを気にしたりもいたします。一日中家にとじこもっているよりは、歩いた方が身体のためにもいいでしょう。

 と、いうわけで「美と建康と知性」のために、またまた編集室に出向くことでしょう。

参加で得た収穫と喜び

    
                 会社員  
山下 二三雄
(反町)

 

  朝日新聞を見て編集室を訪ね、まず岩田代表の熱意に感動した。以来創刊号から協力することとなり、駅での配布キャンペーンにも出た。

 最初の取材が、作詩家・石本美由起氏で、創刊号の有名人に登場した。同氏はそれから、『お宅訪問』『元住吉のちょっといっぱい』の誌面を飾り、氏と本誌とは切ることのできない深い縁となった。

 原稿を書いては編集室に郵送したが、掲載されず、お庫入り。広告募集にも挑戦してみたが、結実しない。私には、不向きであることを痛感した。しかし3号が散号にならず、第8号を重ねてまずは、目出度い次第である。

 私の配本範囲は反町を中心として広いので、毎号発刊直後の数日は多忙を極める。こんな労力は余程の物好きでないと出来ない。それは十数年前から、新聞投稿に非常な興味を持ったことによる。
 経理の実績を生かし、今も週3日の会社勤め、毎火曜の硬式テニス、月2回以上の登山参加、自由なのは山に行かない木曜と土曜と日曜しかない。その他、OB誌と諸新聞の投稿、庭木の手入れと、毎日日の出と共に起き、新聞を待ちかねて読むほか、朝夕明るい間は庭に立つ。平均寿命を過ぎて睡眠は4、5時間あれば充分であるが、何事も片寄らず広くやろうとする私は欲張り過ぎだろうか。

 ともあれ有能な編集スタッフや、多くの知名人を得たことは大きな収穫である。


       情報の“送り手”、延べ2333名から

   編集の音(抜粋)




萩号の表紙はすばらしい。七十何年見なれた多摩川だが、井崎先生の筆によりひとしおの風情がある。遥かに奥多摩の連山が見える。この次は川崎側から下流を見、電車の走る所を描いてほしい。
(武蔵小杉・郷土史家・小林英男)




ド素人の私がひょんなことからカット、イラストを描いた。それからは新聞・雑誌はもちろん、愛する家族の顔まで、カットのシルエットとしか浮かばなくなってしまった。この先どうなることやら。
(大倉山・主婦・素都満里子)




三崎のマグロの記事を「とうよこプラットホーム』に載せていただいたおかげで、この店の売上げが伸び、おじさんも私も喜んでいます。
(綱島・学生・海老塚 操)




配本のついでに販売協力店探し。車で日夜走りまわる編集長と私、家族は「本キチ親子」と呼ぶ。販売店も350カ所に増えた。おかげで編集室には7号の在庫はゼロ。会員の皆さん、1000軒達成までがんばろう! (日吉・主婦・鈴木善子)






見えぬ糸にたぐり寄せられし我等ここに集う。縁(えにし)の契りか、腐れ縁か。大海に乗り出でし帆船、波の間に間にただよいて、かなたの灯台のまたたきに喜び、ひとしお。勇気リンリン。オーイ、もう大丈夫だゾ――! 
(大倉山・主婦・佐藤保子)





「移動編集室」で色紙に似顔絵を描かせていただきました。沿線の人はみんなイイ顔をしてらっしゃいます。東横沿線に住んでいると顔つきまで豊かになる。「とうよこ沿線」を定期購読すると、より美しくなる。私がその証拠です。
(自由が丘・漫画家・畑田国男)



頭の中の考えや想い。そして取材先での談話など、どうしてもうまく書けません。己れの未熟さにがっくりきています。と同時に次号こそはと密かに闘志を燃やし『沿線』にのめりこんでいる私です。
(緑が丘・主婦・内野瑠美)




嗚呼、専門は雑貨。インタビューに始まり複写、料理、街角のスナップ、建物と。ここら辺りまでかと思ったら、原稿〆切間際にペット撮影の依頼。『とうよこ沿線』に関わってレパートリーは広がる一方です。
(日吉・カメラマン・森 邦夫)





今度、鼓笛隊ことについて「えんせんっ子」に書かせていただきました。しかし、原稿提出日に間に合いそうになく、心配。だけど、どうにか間に合いました。「あー、よかった」。守ろう原稿提出日! (田園調布・小学6年生・磯野 猛)





ぼくの田舎は、とうよこ沿線だ。海もあれば丘も川もある。かやぶき屋根もあれば、渋谷、新宿、横浜のビル連峰もある。次男坊のぼくだけど、ずっとここに住んでいたい。
(奥沢・小学6年生・千葉敏行)





前号「えんせんっ子」に、学校招介を書いた村田毅です。この記事も、とても大変でした。取材といえば緊張感があふれ、歯の根も合わなくて、いつもドジってしまいます。どうしようかな…。
(田園調布・小学6年生・村田 毅)





駄菓子屋さんで子供がアメ玉一つに小物を貰った。小さな手にじっとり温めた10円玉一つをおばさんに渡す。おばさんはその10円玉の温かさに感動したという。より多くの人々がこの感動を味わってもらいたい。
(日吉・カメラマン・川田英明)




本誌が日本の北から南まで発送されるのはなぜ? それは沿線を故郷とする愛読者が全国に居られるからだそうです。私、東横沿線必ずしも渋谷から桜木町までだけではないことに気付きました。
(大倉山・会社員・山室まさ)




むし熱い夏休みの一日、7号の配本を手伝いました。本を置いてもらう場合とお客としての場合との書店の態度のちがいにびっくり! 疲れたけれども良い勉強になりました。
(白楽・学生・中本英美)






東横沿線は、知的レベルの高い人達が多い。それだけに、本誌は沿線の自然や人間の美しい面、きれいな面を取り上げてほしい。最近の週刊誌は、青少年に毒するスキャンダル記事ばかり。まじめに生きる人には美談があるはず。人間の明るい面を強調されたい。
(渋谷・印刷業・加藤照雄)





約2週間の中国への旅。そして『とうよこ沿線』への参加。この秋はいつになく身辺があわただしい。やや遅咲きではあるけれど、いまが私の人生の開花の時だと思いたい。これが本誌への初登場、よろしく。
(反町・フリーライター・小山節子)




「移動編集室」はとても楽しかった。バックナンバーの販売、ソーセージ、火消しだるま、ねずみ取りなどをタタキ売りしたり楽しかった。なによりもよかったのは編集長やいろいろな人に会ったこと。
(田園調布・小学6年生・飯田浩二)




編集室には数カ月前からお邪魔していながら、いままで何も……。本号から『プラットホーム』担当で田園調布、多摩川園の情報を担当することになりました。檜原(ひのはら)ファイト村もよろしく。
(田園調布・会社員・上井 徹)





最近、東横沿線の「日の出と夕日」の写真ばっかりを撮りまくっています。今朝も5時起き。あと10日ほどで10月中旬、この頃の夕日は、ちょうど富士山の山の端に沈むのですね。このチャンスは、年に2回しかない。ご存知ですか、皆さん。
(菊名・会社員・佐立良広)




作詞家・石本美由起先生は「自己満足の仕事はいけない。相手に受け入れられなければ」という。私もそして『とうよこ沿線』も、と反省する。
(反町・主婦・室井絹子)





第7号(萩)でわが母校″P233枚の写真説明について訂正します。上段の解説は中段の、中段の解説は下段の、下段の解説は上段のものです。心からおわび申しあげます。
(元住吉・自営・渋谷威雄)






わが母校トキワ松を紹介するのには、やはリトキワ松学園65年の歴史を語らねばならない。しかし、「50年誌」「65年誌」「私のトキワ松」などが出版されている。いわば正史の抜き書きではつまらない。むしろ、側面央・裏面史を通して健学の精神が現在に花開いている実況を伝えたいと思った。その意味で、岩田編集長さんといろいろの角度から雑談を試みたものを骨子としてこのページができ上った。
(奥沢・トキワ松学園副校長・辻 忠二郎)














次号から会員すべてが、2組に別れて各組で1冊ずつ責任を持って発行することになりました。ただし、連載スタッフ、編集実務、広告編集委員は毎号の担当です。

 みんなが誌面づくりに参加できるように、そしてそのプロセスを体験し、創造の喜びと人との出会いのすばらしさを味わってもらえるように、との試みです。これからも、会員が増えるにつれて、3組、4組とチーム編成する予定です。
 「今頃入会したって」という諸君、ヒマな折、編集室へ来てみてください。あなたの“活動の場”が待っています。「ワタン(ボク)は何もできないから」という控え目の方、私と話す機会をもちませんか。
 次号『梅』は、佐藤保子デスクキャップを中心とした「梅組」の皆さんが新年号をつくります。読者の皆さんも地域情報提供やら投稿やらで、ぜひ協力してあげてください。『とうよこ沿線』は、沿線住民みんなでつくることを目指しています。
(本会代表・編集長・岩田忠利)

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