編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏 / ロゴ:配野美矢子
NO.632 2015.05.11 掲載

 
『とうよこ沿線』No.6…昭和56年(1981年)7月1日

 B5判 紙数:96ページ

 頒布:有料 定価200円
   
      参加して…

      
人に会って、声をかけて、話をして

             主婦  室井 絹子(反町)


 

早春とはいえ北風の冷たい午後、横浜東口の近くを急ぎ足で歩いていました。ふと前方を見ると、往年の名歌手・渡辺はま子さんが向かって来ます。私はためらわずに声をかけました。

 「渡辺先生でいらっしゃいますか?」「わたし、『とうよこ沿線』の編集の者ですが、捜真女学校の取材で先生のお写真をいただき、声をかけたくなりまして……」。「そうでしたか、よい雑誌ですね……」。
 しばし立ち話をして別れを告げました。すばらしい出会いでした。ためらわず進んで行った自分に驚き、これも取材に参加、『とうよこ沿線』というバックがあるからと、ひとしお感慨にふけりました。

 思えば8年前の娘の病気。1年間看病で病院での苦しい日々を送ったことがあります。この世に助けてくれる神も仏もないものと嘆き悲しみもしました。

 ある日、主人が私のために男手で作ったお弁当を持って来てくれたのです。嬉しさと悲しさとの涙でぐしょぐしょになりながら食べました。簡単には良くなる病気ではない。なんとしても頑張らなくては…、とみんなで力を合わせました。主人の深い愛情と家でひとり頑張っている息子、遠くで心配してくれる両親を考えた時、私は死ぬことはできないのだ、と……。あの時、生きることの大切さと有難さを痛感したのです。

 当時を考えた時、今の幸せはすばらしい。この雑誌を知り、そこから開ける線路が楽しみです。



          何かステキなものに…出合うため

                主婦  川崎 常子
(菊名)



 

 夏の強い陽差しの嫌いな私。夏の季節が似合う年頃を遠くに思い出し、ちょっと肩をすくめる。そんな夏の終わりに知り合った『とぅよこ沿線』。新しいことにすぐ好奇心をもつのは、毎度のことなり。さっそく編集室に行く。

すべて私の生活の中から、ほど遠い仕事の内容……。できなくて、もともと。まずやってみようと、開き直ってみた。編集長の言われるままに引き受けてみて、自分の勉強不足を嘆く。感じたことを文章で表現することに悪戦苦闘。知りたがり屋の私の公害″を娘も主人も、あきれてかぶってくれた。

 毎日の時の流れの中で、なんと無意識のうちに言葉を使っているのだろう……、と反省しきり。それでもめげず、編集室に出かける。そこで出会ういろんな人たち。何か、すてきなものをもっている人たちの、温かさや厳しさが私の栄養源になり、楽天家の自分にかえる。

 人生において、すてきな先輩たちに出会えることは、これまた宝物なり。物事を深く考え、書物もていねいに見ることを教えてくれた『とうよこ沿線』。どんな場所へでも自分を置き換え、自分の姿で立つことができる女性になれたら、どんなにすてきか。

 人とのふれ合いの中で、大切をものを、そっと心の風呂敷につつみたい。その風呂敷が色あせることなく、光の影からこぼれることのないよう、つくろう針をもちたい私。


 

     24時間営業みたいな私でも    

                  自営業  
大和 功一
(向河原)


 

去年の夏、息子といっしょにバイクで暑さを吹っ飛ばそう、と日吉の街に出た。と、おソバ屋さんの店内で『とうよこ沿線』が目にはいった。当時の私は、「講談社フェーマススクール」で絵を勉強中。規定より倍の6年をかけて無事(?)卒業したばかり。何かウデ試しはないかなぁ、と思っていた矢先だった。

 さっそく編集室あてにハガキを出した。「イラスト・マンガ・写真OK」。翌日、編集長と名乗る人から電話があり、その声から60過ぎの老人かとも。会ってびっくり、まだ30代(?)でバイタリティーあふれるお人、とお見受けしました。

 その人とお付き合いが始まって以来、何やらむずかしいイラスト・カットの注文がぞくぞく。てんてこ舞いの拙宅に、夜中にでもサッと車で飛んできて、郵便箱にもっとも難解な以顔絵の原稿をバサッ……。

 午前中は写真の仕事。午後はハクラクボウル勤務。家に帰ると絵の勉強と、まるで24時間営業の毎日です。編集室に立ち寄るのも分刻みで「いつも忙しい人だね」と皆さんに笑われています。それでも、たまの休みには、鎌倉の海を写生したり、近郊の東横沿線を歩き回り、せっせとスケッチを溜めています。

 そのうち、「とうよこ沿線スケッチ展」を、と計画しています。そのときには、皆様の酷評を楽しみにしています。

         感動は重い宝物    

                  主婦  
矢部 黎子
(日吉)
 

 ちょっと遊びに行ってみない? と友人の誘いに、気安く出かけた編集室。沿線誌を作るに至った動機や抱負、創刊号までの苦労話をいろいろお聞きしました。
 「うわぁ、大変だ」これが最初の感想です。しかし、いそいそと編集室に集まってくる人たちの表情がイキイキとしているのが印象的でした。

 問題が山積していながらも、考え・行動するダンプ編集長。編集室にみなぎる笑い声。いつのまにか自分もその中にのめりこんでいました。つい、何をお手伝いしましょうか? と言ってしまってから後悔する始末……。本当はお手伝いできる時間がなかったからです。ぐっと覚悟を決めて配布のお手伝いが始まりました。

 本誌の趣旨がスムーズに説明できず冷汗をかき、何事も“見るとする”、“言うとする”とでは大いに異なることを実習させていただきました。

伝統ある学校でも、あんがい内容を知らないでいる人が多い。「あなたのすぐそばにこんないい学校があるのよ、訪ねてごらんをさい」と沿線の人々に言ってあげられたら、とわが母校「捜真女学校」の取材・編集に取り組み、張り切りました。
 「ご苦労さん、いいものになるよ」こう言っていただけた時のうれしさ。でき上がったばかりの本誌を手にした時の感動は、ズシーと重い宝物になっています。
 ない知恵と時間をしぼって作りあげたものだからこそ、感激も深かったのかも知れません。


       情報の“送り手”、延べ2333名の声

   編集の音(抜粋)





みなさん、こんにちは! いつも楽しい文をはいけんさせていただいています。今回ぼくは、「記者志望」というタイトルで書かせていただきました。これからぼくも、がんばります。
(奥沢・小学生・千葉敏行)




母の日に、『とうよこ沿線』を通して知り合った少女からカーネーションをもらいました。「これ、お姉さんに!」って。独身のうちにこんな感動を経験するとは思ってもみませんでした。
(日吉・会社員・久保島紀子)






5月10日の母の日に、私の住む大倉山ヒルタウンで映画のロケがあった。東映の「獣たちの熱い眠り」で、ふだんは静かなヒルタウンも主演の三浦友和のサインをもらおうと、よそから駆けつけたフアンで騒然。
(大倉山・評論家・石川 輝)






皆さんお気づきですか、表紙右肩の漢字を。「夏・秋」に続いて「柊」の心憎さよ。4号「椿」は思い通り。橘号で再び感激。7月は予測できますが、九月発行は? とにかくページを開かぬうちから楽しいのが『沿線』です。
(大倉山・会社員・山室まさ)






先日クラス会が渋谷であった時、Mが本誌椿号を持ってきて、みんなに見せていた。「女房が捜真≠フ同窓会へ行って貰ってきたので…」と。あー、懐かしい。あの学校はフェリスと並んで私たち横工≠フ学生の若い血を湧かせた元凶でした。
(都立大学・郷土史家・前川正男)





好きで飛び込んだ道なれど、文章を書くなどという最もニガテな苦役を、現世で強いられてしまって……。地獄のエンマ大王さま、来世ではラクさせてチョーだい!
(都立大学・主婦・藤田聡子)






家族の前であまり愚痴を言ったことがなかった私でしたが、とうとう……。不惑の年齢になってますます迷い、あせる。「お母さん、老人の入り口だよ」と息子に肩をたたかれハッとしました。
まだまだ負けてはいられません。
(日吉・主婦・矢部黎子)




新緑の京都へ行ってまいりました。新幹線の中で、なんと『とうよこ沿線』を読んでいる初老の紳士に会いました。旅はやはり一つのロマンだなと、いい年をしてオトメチックな心になりました。
(緑が丘・主婦・内野瑠美)





大倉山梅林に関する案内書や市で発行する広報の「梅だより」等を読むと、いずれもここの梅林の梅の本数は申し合わせたように、千本とある。散歩の折、調べてみたら二百数十本しかない。千本はちょっとオーバーだ。
(大倉山・広告業・井上 幹)





創刊号からはや1年。国文科に在籍しているといっても、素人の私が取材をしたり原稿を書いたり。めまぐるしい1年でした。これから卒論・就職と忙しいですが、『とうよこ沿線』の方もがんばります。
(菊名・学生・浅野桂子)






ご縁があって『とうよこ沿線』4号を読み、5号はわざわざ伊勢佐木町の有隣堂まで買いに行きました。私にどれほどの協力ができるのか? 自ら励まして預かった100冊を有効に配り歩かねばと思っています。お仲間の皆さま、よろしく。
(白楽・主婦・田辺芳恵)






似顔絵を担当するようになってから改めて人相を考えてみるようになった。体の他の部分はとかく隠したがるが、顔は別である。その人のすべてが出ているようである。自分自身の顔に責任を持たなくてはと、思うこのごろである……。
(向河原・似顔絵担当・大和功一)






数カ月ぶりにセットに行きました。帰りぎわの私に「“とうよこ沿線”が発展するよう心を込めました。どうぞ」。小さな千羽鶴が色どり鮮やかにケースの中でゆれている。涙ぐむ私、近年これほど感激したことはない。ありがとう。
(日吉・主婦・鈴木善子)





大学のゼミ室に積んであった『とうよこ沿線』が、いつの間にか無くなっていました。学生ばかりじゃなく、先生まで持って行ったようで……。そんなに僕の顔って、魅力的かなぁ?
(大倉山・大学生・桑原芳哉)




茶道でよく耳にすることば「一期一会」、私の好きなことばです。一生に一度だと思って常にまことをつくせという意味。取材者の一人としてこのことばを肝に銘じながら飛び回っています。
(日吉・主婦・野崎昭子)





女の40代は充実の年代。でもそんな日ばかりが続くものではなく、毎日がイライラ、ソワソワ、ドキドキの連続。なんとなく落ち込んでいる日には、きれいな華やかな色を着てみます。
(奥沢・主婦・塚田玲子)




先日久々に覚悟を決めて、ヘルスメーターにのったところ……再起不能になりました。天高く豚こゆる春≠煢゚ぎ、これから素肌の季節、どなたかヤセル秘訣を教えて下さいませ、ませ。
(綱島・会社員・石井真由美)






「わが母校調布学園」…雑誌の中での紹介など初めてのことです。過去をなつかしみ、現在を誇り、未来への抱負と、あれもこれもと欲ばりすぎると活字の氾濫で興ざめだ、と生徒を始め一同てんてこまい。最後の投げこみが6月5日、奇しくも創立記念日でした。南無精進。
(田園調布・調布学園教頭・高瀬江三)





この雑誌づくりに参加してまだ日は浅いが、いろんな人との交流や数々の体験をした。おかげで、平面的な写真表現という二次元の世界から、もっと広い立体的な三次元の世界が徐々に見えてきたような気がする。
(元住吉・カメラマン・三戸田英文)






保育園でアルバイトして1カ月。わがままで、自由で、元気いっぱいの子供たちの姿に人間の原点を見ました。あそこから出発した現在の私、果たしてどれだけ成長したのかしら? 大人になるってどういうことなんだろう?
(綱島・イラストレーター・板山美枝子)






「ひとさじの塩″に一筆たのむ」と編集長から依頼された時は躊躇した。過去のこの欄は知名人が多いからだ。しかし沿線住民の手づくり≠ニいうタイトルを、もう一度かみしめて、恥をしのんで筆をとった次第です。
(新横浜・会社員・本間正志)




最近また一つ歳をとり、改めて体力の衰えにビックリ。アー、情けない。「沿線農園」で心身ともに鍛え直さなくては…。あなたも「えんせん農園」で心と体を耕し、すばらしい作物を収穫しませんか?
(尾山台・画家・斉藤善貴)





環境と人間の調和というものは、「緑」というものを媒体として保たれているのだと思った。犬を連れて散歩する婦人や公園で遊ぶ子供達、テニスをする若者達は、まさしく緑を通した生の躍動ではなかろうか。
(地下鉄上永谷・学生・山本美奈子)





5号より参加させてもらい、これから先の 『とうよこ沿線』がすごく楽しみ。私にとっては雑誌の隅々までがいい勉強になっています。今度は毎号に私の作品が載るように、もっと出しゃばろうと思っています。
(桜木町・団体職員・伊奈利夫)






ハードからソフトの時代! あるいは3漫時代(漫画・漫才・漫遊)とか、言葉の上だけでなく、生活のリズムまで時流に添わないと不安がともなうようだ。自分の健康にまでジョギング≠ネどとアチラの言葉に乗せられて、貴重な時間を費やしていないだろうか。
(代々木・漫画家・曽我二郎)













 先日、目黒区中根町の立源寺という寺の山門をくぐった。と、そこに、<魚の子は多ければ共(ども)、魚となるは少なく、菴羅樹(あんらじゅ)の花は多く咲け共(ども)、果になるは少なし。人も皆比の如し……>宗祖の御言葉≠ニ書いてある。
 「うむ、なるほど。子ども≠ニはそんな意味があったのか」。いいことを教えてもらって、トクした気分で山門をあとにした。
 昨年7月7日創刊の本誌も、この6号でやっと満1年を迎えることができたわけだが、その間、多くの皆様からご忠告やら励ましのお便りを頂戴した。その大半が(細く長く続けて欲しい)であった。これもまた、あの宗祖のお言葉に置きかえれば(雑誌の子は多ければ共、雑誌となるは少なし)。次号からさらに1年、これをみずからの戒めの言葉としたい。
(本会代表・編集長・岩田忠利)

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