編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
NO.620 2015.05..04 掲載
 激動の20世紀を残す写真集  第8巻
  ★画像はクリックすると拡大できます
『わが町の昔と今』第8巻「港北区続編」
サイズ A4判
頁数 132ページ
発行日
平成16年(2004年)4月25日 発行
頒布方法  定価2500円
表紙
題字:大山聖也(書家・港北区日吉本町在住)

掲載写真:(表紙左上から)
 1. 明治時代の民家、武蔵国橘樹郡小机村
       浅田治郎作家 屋号「出店」
 2. 大正13年、綱島桃のカラーポスター
 3. 昭和23年、綱島街道下を流れる新川で魚捕り

巻頭「はじめに」 港北区商店街連合会会長 福岡 實(港北区綱島西)
装丁
デザイン:品田みほ(三ッ沢下町)
目次と掲載画像点数
 
1. 日吉駅地区(写真87点)
2. 綱島駅地区(写真60点)
3. 大倉山駅地区(写真49点)
4. 菊名駅&妙蓮寺駅地区(写真56点)
5. 新横浜駅&城郷地区(写真60点)
6. 旧新田村地区(写真52点)
7. 明治時代の民家(写真16点)

 「港北区続編」の写真から・・・

     今昔、その変遷を見る


        昭和9年、日吉へ来たイチゴ狩り一行

 この写真の手前は右の写真のとおり現在サンロード入り口のアーチがあり、左の森は商店街の駐車場になっています。
  提供:加藤秀雄さん(日吉2丁目


写真左と同じ場所、平成25年のサンロード

森だった左手が現在商店街の駐車場です。
撮影:岩田忠利

















昭和29年、中央通りを人糞を入れた樽を積んだ牛車がゆく

 中央の二木書店の所は現在クリーニング店。昭和三十年代初めの頃までこうした荷物を運ぶ牛車や馬車が見られました。軽めの荷物は天秤棒、、重いものは大八車や牛車、馬車でした。
   撮影:佐相政雄さん(日吉本町)


写真左の場所、平成25年の中央通り
 撮影:岩田忠利








 昭和9年、日吉村の中心地に矢上橋が竣工

 矢上橋が完成し日吉村の村会議員が橋の上で記念写真。左手の建物は地理的に村の中心にあった当時の日吉村役場。後方丘の上にそびえるのが、川崎駅から見えた観音松
 提供:松井武夫さん(日吉)


    写真左の同じ場所、平成25年時

 現在の橋は昭和54年3月に架け替えました。右手後方、観音松があった辺りに矢上小学校校舎が建ちました
    撮影:岩田忠利




   昭和5年4月、「綱島ラヂューム温泉浴場」

 
「綱島ラヂューム温泉浴場」は東横電鉄鰍フ子会社、綱島温泉電鉄鰍ェ乗客獲得のため昭和2年にオープンしました。一般客は入浴料20銭、ただし東横線往復乗車券お持ちの方は無料です。
   提供:「とうよこ沿線」編集室


写真左の温泉は「綱島ラジウム温泉 東京園」に名称が変わっている現在
   撮影:岩田忠利








  大正13年(1924)、「綱島桃」のポスター

 このポスターは新宿・高野フルーツ、銀座・千疋屋など東京や横浜の有名果物店に貼られ、品格ある風貌の美人と甘くジューシーな風味とがあいまって綱島桃は一躍有名になりました。

 提供:池谷光朗さん(綱島東)


昭和13年6月30日鶴見川氾濫。左の本流から右の町内へ

 連日降り続いた豪雨で鶴見川は氾濫、堤防を乗り越えて綱島町内(右側)を激流が襲います。後方に手の施しようもなく、呆然と見守る人

  提供:松村写真館(綱島西1丁目)




       写真左の同じ場所、平成25年1月)

 東横線の鉄橋から50メートルほど上流の場所、綱島西2丁目4番地 
   撮影:岩田忠利









    昭和5年、大倉山の田んぼ、観音前

 写真は現在の大綱中の近く。中央丘の上には大倉精神文化研究所の建物が建設中、まだ足場が掛かっています。
 左手の畦道に黒い犬がいて、その畦道の先にコンクリート製の白い物が見えます。これは、「大排水」といって、当時大倉山地区の用水は、遠く2駅も先の妙蓮寺駅の菊名池から水を引いていました。その用水の堰です。現在この用水は、大綱中学校の南を走る道路の地下に埋没され暗渠排水路に。
   撮影:黒川太郎さん(太尾町)



 写真左と同じ方向の58年後、昭和63年の景色

 前方中央が大綱中学校。大倉山ハイム2号棟から撮影

 撮影:岩田忠利









昭和36年、大倉山駅から大曽根への線路沿いの道   

  撮影 :山本隆夫さん(太尾町)



写真左の平成25年時

撮影:岩田忠利




昭和31年、菊名の篠原北2丁目の高台から横浜線沿線

 左手が表谷戸踏切付近。左が菊名駅、右が新横浜駅方向。一面が田畑と林の田園風景の中に宅地が点在しています。右後方は篠原町

    提供:本田芳治さん(篠原北)



写真左から38年後、平成6年の同じ場所の風景

 丘の稜線まで建物、横浜線の線路も建物に埋まって見えません

  提供:本田芳治さん(篠原北)


  昭和25年、東横沿線の名所だった菊名池

 後方トラックが渡るのは菊名池の東西を結んでいた菊名橋
   提供:守屋定善さん(中区)



    写真左と同方向の平成25年時

 水道道から南の菊名池部分は、埋め立てられて横浜市営「菊名池プール」になりました。夏場2ヵ月間だけ開園です
  撮影:岩田忠利






  昭和15年綱島街道端、「氷問屋」の加藤商店

 
現在の旧綱島街道沿いの店は中央が氷屋・加藤商店、左に茅木屋酒店、右に青柳和菓子店。綱島街道はまだ泥道です。
   提供:加藤栄治さん(仲手原)
 


    写真左と同じ場所、平成25年時

 
加藤商店はセブンイレブン妙蓮寺駅前店、茅木屋酒店はオリジン弁当に変わりました。
  撮影:岩田忠利







  昭和36年6月、牛がいる新横浜駅篠原口付近

 
後方の母「早く、いらっしゃい!」。手前の男の子「でも……」。東京から菊名西口の篠原北に引っ越して来たばかりの本田家一家。生まれて初めて近くで牛を見る子は尻込み…

  撮影:本田芳治さん(篠原北


      写真左の同じ場所、平成25年

 
写真左に写る男の子の左手は、現在は篠原郵便局です。古道「坊海道」は拡張されましたが、道の後方が右に曲がる地形は昔のままです。
   撮影:岩田忠利







昭和43年6月、新横浜駅篠原口の陸橋から岸根を望む

 提供:本田芳治さん(篠原北


  写真左と同じ場所から見た平成25年

 
右上が新幹線ホームです。後方の丘が往時の面影を残すだけになりました。
   撮影:岩田忠利




 昭和58年5月、幹線道路が新横浜駅前に直結

 広い幹線道路は港北ニュータウンにつながる“新横浜・元石川線”。この新しい幹線道路の下に地下鉄の駅が新設。まだ高層ビルは無く、遠望できました。
 写真は奈良建設屋上から新横浜駅を望む。
 撮影:岩田忠利



 写真左と同じ方向、新横浜駅を望む平成25年時

  新横浜・元石川線の両側は高層ビルの林立です。
  撮影:岩田忠利








        昭和51年6月当時の小机駅

 写真の駅舎は大正12年9月の関東大震災で旧駅舎が倒壊し大正14年に新駅舎として建てられたものです。1番線のある単式ホームの脇、南口にあたる場所にありました。
   撮影:千原康夫さん(神奈川区神大寺







写真左の現在の小机駅。21世紀にふさわしいモダンな駅舎になりました
    
 撮影:石川佐智子さん(日吉)

    編集後記      岩田忠利(編集長) 



               前巻の印刷と製本のやり直し……

■のっけからご愛読者の皆様に謹んでお詫び申し上げなければなりません。前巻で第8巻は「中区&西区編」と予告いたしましたが、諸般の理由で急遽「港北区続編」に変更させていただきました。心待ちにされていた写真提供者の方々ならびにご愛読者の皆様には誠に申し訳なく、衷心よりお詫びいたします。

■昭和
55年(19807月創刊の沿線誌『とうよこ沿線』の時代から数え切れないほど多くの皆様方に支えられ地域出版と取り組んで24年になります。その間、沿線誌『とうよこ沿線』は通巻74号、そして本書が8巻を重ねましたが、それらは一冊たりとも「あぁ、うまくいった! 何の問題も起きなかった」と実感したことはありませんでした。

 “地獄の苦しみ”というのがあるのなら、まずその筆頭が資金繰りの苦しみ。特定の大スポンサーがいるわけでもなく、数多くの皆様方のご理解とご協力だけが頼り。市場も実際に取材や配本で飛び回ってみると広いとは思いますが、日本地図で見れば「点」に過ぎないほど狭い地域です。このテリトリー内で半年も時間と労力をかけて1冊の本を出すのですから固定経費が、編集室の台所を圧迫するのは当然なのですが…。


 次の苦しみは、意外な落とし穴に落ちるのではないかという心にへばりつく不安。
 念には念を入れての校正が済み、半月ほどで待望の新刊が納品される。「やれやれ、今回は何の問題もなかった」と安堵に浸る間もなく、首を長くして待つ皆様方の元へ配本です。問題は配本中によく発覚します。まさに青天の霹靂、信じられないことがしばしば起きます……。電話番号や名前、間柄表記の間違い。そのたび、私は大目玉を食らいます。

 それが前巻鶴見区編では配本開始2日後に「本を読んでいたら、ページが外れちゃった」との苦情が続々と。まさか、そんなことって?! さっそく配本を止め、検品してみたら、製本の糊付けが甘く、どの本も落丁する最悪の事態……。
 結局、納品の全冊を再度一軒一軒再訪して引き上げ印刷と製本のやり直しに。そして半月後、刷り直した本を持って配本先を一軒一軒お詫びしながら回ったのでした。

 「この第8巻こそは事無きように」と祈るような心境でいまパソコンに向かってこの原稿を書いています。

■ここに、昔の写真の提供や協賛広告ご提供の皆様方のご協力に厚く御礼を述べます。
 前巻同様、掲載写真の説明は写真提供者の記憶や推測をもとに記述いたしました。曖昧な点は事実に近づけるよう努めましたが、もし誤りがありましたらご容赦とご指摘を当編集室宛お寄せください。
  本書をご家族お揃いの話題として、また、地域資料としてお役立ていただけることが私を大いに勇気づけてくれるものです。郷土を愛する皆様の幸多かれと切に祈ります。

                                    平成16411日   編集発行人 岩田忠利

「とうよこ沿線」TOPに戻る 次ページへ
「目次」に戻る