編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
NO.619 2015.05..02 掲載
 激動の20世紀を残す写真集  第7巻
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『わが町の昔と今』第7巻「鶴見区編」
サイズ A4判
紙数 123ページ
発行日
平成15年(2003年)7月23日 発行
頒布方法  定価2500円
表紙
題字:満岡敬桑
  (本名・満岡恵美子 書家・鶴見区岸谷在住)

掲載写真:(表紙左上から)
 1. 大正12年、駒岡の美濃部弁次郎夫人と幼女
 2. 昭和初期、キリンビール横浜工場
 3. 昭和2年、神戸で買ったトラック
 4. 明治初期、旧東海道・生麦事件現場付近
 
巻頭「はじめに」 鶴見区自治会連合会長 横山正志(鶴見区下末吉)
装丁
デザイン:品田みほ(三ッ沢下町)
目次と掲載画像点数
 
1. 鶴見駅地区(写真76点)
2. 潮田地区(写真68点)
3. 市場・矢向・江ヶ崎地区(写真60点)
4. 駒岡・獅子ヶ谷地区(写真50点)
5. 寺尾地区(写真48点)
6. 旧生麦村地区(写真47点)
7. 風俗編(写真65点)

 「鶴見区編」の写真から・・・


 明治40年(1907)、総持寺の移転先、現鶴見2丁目一帯

 田んぼの左手に「曹洞宗大本山総持寺建設地」の大きな標柱が見えます。高台のこの地は「入道ケ原の名月」と呼ばれた夜空をわたる月を眺める名所でした。
 石川県・能登半島にあった創建600年の曹洞宗大本山総持寺は明治31年(1898)、火災に遭って焼失、その移転先に鶴見の成願寺の境内の一部を譲り受けることになりました。

 
                              提供:兼子清寿さん(馬場)



平成25年の
曹洞宗大本山 総持寺

撮影:石川佐智子さん(日吉)










明治37年(1904)、日露戦争へ出征した鴨志田茂吉さん

 軍人は鴨志田正晴さんの祖父。撮影は従軍が支那(現中国)の戦地に進軍したとき、支那の子供と。
   提供:江ケ崎町内有志



 大正5年(1916)冬、江ケ崎町の二ケ領用水の分水路「下の川」で魚を捕る兄弟

兄弟は矢向の永井喜代吉さんと永井円蔵さん。田んぼは冬でも水が溜まる湿田です。
   提供:永井康一さん(矢向)












大正3年(1914年)開園した東洋一の大遊園地、花月園

 提供:東台小学校


西の宝塚、東の花月と評された花月園少女歌劇団

現代ならAKB48なのでしょう。おとぎ歌劇場での彼女たちの歌と舞い、その華麗さに子供たちは見惚れ、憧れたものでした
  提供:林 正己さん(仲通)









   スワン池でボート遊び。後方の建物は絵馬堂

                                 
 7万坪(23.1万u)の広大な遊園地

 東京新橋の料亭「花月亭」の経営者、平岡広高氏が鶴見の台地にある子生山・東福寺の土地約21fを借りて、大正3年(1914)に開園した東京近郊の児童遊園地。
 園内には大グラウンド、おとぎ歌劇場、アイススケートリンク、ダンスホール、大滝の庭、観世音パノラマ、鯉の噴水、大山スべり、吊り橋、飛行船塔などあり、東洋一の大遊園地といわれました。



大正13年、旭村消防組がポンプ車を購入、末吉橋で放水テスト

旭村消防組は現在の末吉消防団。村人が見物するなか、橋の上の組員がホースを上流に向けて放水中。

    提供:荻原 昇さん(上末吉)


  写真左と同方向、平成25年の末吉橋

 撮影:石川佐智子さん(日吉)




  江戸時代慶長期(1604)築かれた市場一里塚

 徳川幕府は東海道に一里(4キロ)ごとに一里塚を造り、榎(後方の木)を植えました。市場の一里塚は日本橋から5里。旅人は木陰で休んだり、道程を知る目安としました。
 提供:萩原貞雄さん(熊野神社宮司。市場上町





写真左の平成25年の市場一里塚

撮影:石川佐智子さん(日吉


 江戸時代の江戸名所図会に登場の鶴見橋、大正10年時

 旧東海道筋の鶴見橋(現在の鶴見川橋)は江戸・日本橋から旅人が渡る最初の橋で安藤広重の浮世絵にも登場するなど多くの文人の作品に残っている名所でした。
  提供:金子元重さん(鶴見神社宮司)



平成8年完成のモダンなアーチ型の鶴見川橋

平成25年撮影:石川佐智子さん(日吉)









昭和2年、神戸でトラックを買って運転してきた小塚広吉さん
                         提供:小塚 勇さん(駒岡)

 トラックの車輪のフォークやドアー、荷台が木製であることにご注目!
このトラックを傷みやすい桃・イチゴなどの果物や野菜の市場への出荷に使って近隣農家の輸送に大きく貢献しました。



昭和初期、生麦のキリンビール横浜工場

和服で日本髪姿でビン詰め作業中の女性従業員

提供:林正己さん(仲通)







大正12年創業の中村屋酒店、昭和9年時

提供:中村政夫さん(向井町)




 写真左の中村屋酒店は昭和20年4月15日の川崎・鶴見大空襲で焼失しました。写真はその4カ月後、8月の情

 潮田地区はB29に総なめされ、一面の焼け野が原に。そこにたちまち店舗兼住宅の中村屋酒店が建ち、一枚の板に店名を記し営業を始めました。






    のれんを守る北村商店、その足跡
                       
 提供北村真規子さん(佃野町



          昭和11年8月当時

 店前の道路(現つくの商店街)は末吉を通って駒岡・獅子ヶ谷・綱島に抜ける街道筋。馬や牛が引く荷車の往来が多く、北村商店は乾物や海産物のほかに牛馬の飼料も商っていました。




           昭和21年4月当時

 店主は敗戦で復員、家族が長野県の疎開先から帰ると一面の焼け野原に……。焼けトタンで一坪ほどの小屋を建て、手書きの「北村食品店」の看板を掲げ、おから、煮豆、信州から持ち帰ったソバ粉などを私が、一人で売っていました。新しい店(右後方に建築中)に立つのが何よりも楽しみでした。


      昭和25年5月当時

 牛馬飼料の販売が定着し、看板は「エサヤ北村商店」。復興とともに昔の暖簾がものを言い、しだいに繁盛し始めました。
 左側の看板「かつを」は、静岡・蒲原から生節やイワシを仕入れて加工、「花かつを節」と「イワシ削り」の商品として小売店に卸売り。これがヒット!


        昭和36年7月当時

 店舗改装し買い物し易い店にしました。対面販売の店はいつもお客様で賑わいました。





         昭和36年8月、鶴見区最初の“セルフ販売”の店に

 店名を北村商店から「北村ストア」に替え、鶴見区最初の“セルフ販売”の店に。これが新聞に取り上げられるなどして話題の店となり、連日活況を呈しています。
    編集後記      岩田忠利(編集長) 



         外国人の方にもと、写真タイトルを英文併記に

 
 5月のある日、編集室へ行くと、取材で外出中の編集長からのメッセージが置いてありました。
  いつものように内容を確認すると、「私のメモと写真を見ながら京子さんなりの文章にして自由に書いてみて下さい」とありました。文章が苦手な私にとって一瞬とまどいを感じましたが、とにかくやってみようと決め、お貸しくださった方々の思い出がぎっしり詰まった大切な写真の奥底に秘められたものが、よみがえるようにとの思いで表現してみました。
 ご協力者あってこその写真集であり、岩田編集長あっての「とうよこ沿線」であると思います。微力ながら編集に携わらせていただき感謝いたします。 (糸井京子)

                   ◆◇◆

  とうとう鶴見区編の発行です。本づくり初心者の私にとっては激動の3か月でした。
 毎日がいろんな人、いろんな写真との出会い、驚きと感激の連続でした。鶴見区は温かい人柄の育つ所なのでしょうか。見ず知らずの私たちを迎え入れて、大切な写真を快く貸してくださいました。その皆様方が笑顔で新刊を見ている姿を想像しながら編集してきました。
  今回の取材で鶴見の多彩さを知りました。緑豊かで閑静な住宅地、エネルギッシュな工業地区、神社仏閣や学校が多い文教地区、磯の香り漂う海浜地区などに触れ、そこから得たことを私の中の栄養として、今後の本づくりに活かしていきたいと思います。この仕事に就けるチャンスをくださり、毎日ご指導くださった編集長に感謝しております。 (平田照子)

                              ◆◇◆

 本書で初めて表紙、タイトル、文中タイトルを英文併記にしました。これは国際化時代の21世紀、国内外の外国人の皆様にも掲載写真をご覧いただき、ニッポンを理解する手立てになれればとの願いからです。
  次巻は舶来文化の発祥地、港ヨコハマの「中区&西区編」の予定。英文併記をさらに増やしたいと思います。
  「編集は“織物”みたいなもの」と痛感した第7巻でした。タテ糸とヨコ糸で織るようにより良い誌面にしたい編集側の熱意と出合った皆様方のご好意とが織りなすもの。とくに7巻ほど多くの皆様方のご協力を得られたことは過去にありまえんでした。ここに、皆様方のご厚情に対し心から御礼申し上げます。

 掲載写真の説明文は写真の持ち主の記憶や推測をもとに記述いたしました。曖昧な点は事実に近づけるよう努めましたが、もし誤りがありましたらご容赦とご指摘を当編集室宛くださいますようお願いいたします。
 この一冊が思い出をひも解くアルバムとして、また、21世紀の町づくり資料としてお役立てできれば望外の喜びです。
                               平成1571日        編集発行人 岩田忠利

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