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明治40年(1907)、総持寺の移転先、現鶴見2丁目一帯
田んぼの左手に「曹洞宗大本山総持寺建設地」の大きな標柱が見えます。高台のこの地は「入道ケ原の名月」と呼ばれた夜空をわたる月を眺める名所でした。
石川県・能登半島にあった創建600年の曹洞宗大本山総持寺は明治31年(1898)、火災に遭って焼失、その移転先に鶴見の成願寺の境内の一部を譲り受けることになりました。 提供:兼子清寿さん(馬場)
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平成25年の曹洞宗大本山 総持寺
撮影:石川佐智子さん(日吉)
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明治37年(1904)、日露戦争へ出征した鴨志田茂吉さん
軍人は鴨志田正晴さんの祖父。撮影は従軍が支那(現中国)の戦地に進軍したとき、支那の子供と。
提供:江ケ崎町内有志
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大正5年(1916)冬、江ケ崎町の二ケ領用水の分水路「下の川」で魚を捕る兄弟
兄弟は矢向の永井喜代吉さんと永井円蔵さん。田んぼは冬でも水が溜まる湿田です。
提供:永井康一さん(矢向)
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大正3年(1914年)開園した東洋一の大遊園地、花月園
提供:東台小学校
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西の宝塚、東の花月と評された花月園少女歌劇団
現代ならAKB48なのでしょう。おとぎ歌劇場での彼女たちの歌と舞い、その華麗さに子供たちは見惚れ、憧れたものでした。
提供:林 正己さん(仲通)
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スワン池でボート遊び。後方の建物は絵馬堂
7万坪(23.1万u)の広大な遊園地
東京新橋の料亭「花月亭」の経営者、平岡広高氏が鶴見の台地にある子生山・東福寺の土地約21fを借りて、大正3年(1914)に開園した東京近郊の児童遊園地。
園内には大グラウンド、おとぎ歌劇場、アイススケートリンク、ダンスホール、大滝の庭、観世音パノラマ、鯉の噴水、大山スべり、吊り橋、飛行船塔などあり、東洋一の大遊園地といわれました。
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大正13年、旭村消防組がポンプ車を購入、末吉橋で放水テスト
旭村消防組は現在の末吉消防団。村人が見物するなか、橋の上の組員がホースを上流に向けて放水中。 提供:荻原 昇さん(上末吉)
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写真左と同方向、平成25年の末吉橋
撮影:石川佐智子さん(日吉)
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江戸時代慶長期(1604)築かれた市場一里塚
徳川幕府は東海道に一里(4キロ)ごとに一里塚を造り、榎(後方の木)を植えました。市場の一里塚は日本橋から5里。旅人は木陰で休んだり、道程を知る目安としました。
提供:萩原貞雄さん(熊野神社宮司。市場上町)
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写真左の平成25年の市場一里塚
撮影:石川佐智子さん(日吉) |
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江戸時代の江戸名所図会に登場の鶴見橋、大正10年時
旧東海道筋の鶴見橋(現在の鶴見川橋)は江戸・日本橋から旅人が渡る最初の橋で安藤広重の浮世絵にも登場するなど多くの文人の作品に残っている名所でした。
提供:金子元重さん(鶴見神社宮司)
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平成8年完成のモダンなアーチ型の鶴見川橋
平成25年撮影:石川佐智子さん(日吉)
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昭和2年、神戸でトラックを買って運転してきた小塚広吉さん
提供:小塚 勇さん(駒岡)
トラックの車輪のフォークやドアー、荷台が木製であることにご注目!
このトラックを傷みやすい桃・イチゴなどの果物や野菜の市場への出荷に使って近隣農家の輸送に大きく貢献しました。
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昭和初期、生麦のキリンビール横浜工場
和服で日本髪姿でビン詰め作業中の女性従業員
提供:林正己さん(仲通)
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大正12年創業の中村屋酒店、昭和9年時
提供:中村政夫さん(向井町)
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写真左の中村屋酒店は昭和20年4月15日の川崎・鶴見大空襲で焼失しました。写真はその4カ月後、8月の情景
潮田地区はB29に総なめされ、一面の焼け野が原に。そこにたちまち店舗兼住宅の中村屋酒店が建ち、一枚の板に店名を記し営業を始めました。
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のれんを守る北村商店、その足跡
提供:北村真規子さん(佃野町)
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昭和11年8月当時
店前の道路(現つくの商店街)は末吉を通って駒岡・獅子ヶ谷・綱島に抜ける街道筋。馬や牛が引く荷車の往来が多く、北村商店は乾物や海産物のほかに牛馬の飼料も商っていました。
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昭和21年4月当時
店主は敗戦で復員、家族が長野県の疎開先から帰ると一面の焼け野原に……。焼けトタンで一坪ほどの小屋を建て、手書きの「北村食品店」の看板を掲げ、おから、煮豆、信州から持ち帰ったソバ粉などを私が、一人で売っていました。新しい店(右後方に建築中)に立つのが何よりも楽しみでした。
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昭和25年5月当時
牛馬飼料の販売が定着し、看板は「エサヤ北村商店」。復興とともに昔の暖簾がものを言い、しだいに繁盛し始めました。 左側の看板「かつを」は、静岡・蒲原から生節やイワシを仕入れて加工、「花かつを節」と「イワシ削り」の商品として小売店に卸売り。これがヒット! |
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昭和36年7月当時
店舗改装し買い物し易い店にしました。対面販売の店はいつもお客様で賑わいました。
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昭和36年8月、鶴見区最初の“セルフ販売”の店に
店名を北村商店から「北村ストア」に替え、鶴見区最初の“セルフ販売”の店に。これが新聞に取り上げられるなどして話題の店となり、連日活況を呈しています。
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