編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
NO.615 2015.04..27 掲載
 激動の20世紀を残す写真集  第3巻
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『わが町の昔と今』第3巻「神奈川区編」
サイズ A4判
紙数 133ページ
発行日
平成13年(2001年)2月15日 発行
頒布方法  定価2500円
表紙
題字:桟敷東石(書家・神奈川区片倉町)

掲載写真:
 1.昭和38年操業中の帆かけ舟 
 2.昭和42年横浜市電
 3.昭和30年の横浜駅西口 
 4.昭和27年熊野神社の祭り。神輿の放り投げ
 5.昭和4年神奈川上空を飛ぶ飛行船チェッペリン号

装丁
デザイン:品田みほ(三ッ沢下町)
巻頭「はじめに」 社会評論家 赤塚行雄(神奈川区斎藤分町在住)
目次と掲載画像点数
 
1. 旧神奈川宿地区(写真57点・絵2点)
2. 子安駅地区(写真51点)
3. 反町駅地区(写真51点、
              /昔の町並復元1頁)
4. 東白楽駅地区(写真38点、
              /昔の町並復元1頁))
5. 白楽駅地区(写真55点
              /昔の町並復元5頁)
6. 大口駅地区(写真28点)
7. 片倉町駅地区(写真30点)
8  菅田・羽沢地区(写真36点)
9. .風俗編(写真53点)

   「神奈川区編」の写真から・・・


   江戸末期、東海道・神奈川宿の神奈川台関門

神奈川宿には関門が東西にあり、これは西側のもの。幕府は警備のため川崎宿〜神奈川宿〜保土ヶ谷宿間に20ヵ所の関門や見張り番所を設けました         提供:横浜市開港記念館



写真左の同じ場所、平成25年時

史跡が正面にあり、左の道が旧東海道、右の道は高島台へ
撮影:石川佐智子さん(日吉)





大正時代の新子安海水浴場  提供:池谷光朗さん(港北区綱島東

明治末期の埋め立てで生まれた新子安海水浴場は遠浅で干潮時には沖まで潮が引き、満潮時には大人の背が立たなくなるほどでした





       昭和初期、和服で運動会

 
神奈川高等女学校(現神奈川学園)の制服は当時、和服と洋服があり、運動会は写真のように和服で行われました。
                                    提供:神奈川学園




       昭和8年6月、洲崎大神大祭の行列

 
江戸時代から神奈川宿へ通ずるこの道は、二ツ谷通りといわれ、奥地の農家の人たちが引く荷車の音や牛馬の蹄の音が一日中絶えないほど往来がありました。
 写真は現在の区役所と神奈川体育館との間にある二ツ谷橋のところ

                                       提供:福田秀光さん(松本町)



写真左の同じ場所、平成25年時

左側は広台太田町の神奈川区総合庁舎、右側が二ッ谷


 撮影:石川佐智子さん(日吉)











       昭和10年、栗田谷の坂

 
周囲は畑と薮。急な坂道を女学生や男子学生が登って行く。峠を左折した林の向こうに捜真女学校の校舎が霞んで見えます。峠の先の六角橋に横浜専門学校(現神奈川大学)があります。坂下方向が反町駅方面。
   提供:神奈川大学




写真左の栗田谷の坂  昭和4610月撮影





昭和18年冬の朝、校長先生のお話を聞く朝礼

提供:白幡小学校


教室足りず、早番・遅番の2部授業。校庭の掲示板を使って地理の授業       提供:白幡小学校




昭和20年5月29日、横浜大空襲当日の青木橋付近

空襲の最中。徒歩の人、車の人、それぞれが命からがら避難します
市民グラフ「ヨコハマ」NO.2から



    横浜大空襲当日、横浜市電を牽引する兵士

 
神奈川通りの市電が架線が燃えて動かない。それを動かそうと兵士が懸命!
    
市民グラフ「ヨコハマ」NO.2から


昭和20年、青木小学校校庭から望む横浜大空襲後の惨状

神奈川〜子安方面が一面の焼け野原……です
                         提供:青木小学校











昭和21219日、昭和天皇は戦後初の巡幸に横浜市と川崎市を選ばれました。横浜市内では焼け跡からの復興が最も早かった大口商店街を視察されました
                                                                             提供:大口商店街協同組合

 「天皇は国の象徴」という新憲法公布は、この写真の8カ月後の113日。それまで天皇は「現人神」、御真影でしかお目にかかれない雲上人。
 大口通の両側に市民が幾重にも並び、陛下のお車を頭をさげ、迎えています。大口の人たちはどんな思いでお迎えされたのでしょうか。察するに余りあります




  昭和25年、戦災の傷跡が癒えない駅前通り

 
左手の「理髪」は中村理容店。手前が駅方向、後方は六角橋交差点方向です。
   提供:磯村あき江さん(泰平楽。六角橋1丁目)



        写真左と同じ駅前通り、平成25年時

 “神大の街”らしくカラフルな色彩にあふれ、左の街並みだったことが信じられません    撮影:岩田忠利












 昭和21年、“イモ泥棒”が頻発するサツマイモ畑

 
戦後の食糧難は深刻です。毎夜、イモ泥棒が出没するので、サツマイモ畑に見張りの番小屋(後方の小屋)があります。
     提供:関口 弘さん(六角橋5丁目)


昭和28年、平川町通りを走る乗合馬車

提供:高橋珪次さん(平川町)












   昭和40年代、おばあちゃんの貝殻むき

 徳川幕府お抱え漁場として「御菜7カ浦」の一つと呼ばれた伝統ある子安浜でした  
提供:東西興業梶i子安通)


子供もシャコの殻むきのお手伝い

提供:東西興業梶i子安通)
    編集後記      岩田忠利(編集長) 


 
 前巻「川崎中部編」の配本と並行させながらの第3巻「神奈川区編」の編集が、ようやく終わりました。

              わたしの編集方針

  本写真集シリーズの編集面で私が第一に心がけたことは「家庭や地域に埋もれている古びたセピア色の‘ナマ写真”を探しだし、真実の瞬間や姿を紹介すること」でした。
 第二に「掲載写真の点数は地域的にできるだけ公平に載せること」。
 第三に「写真説明は“いつ、どこで、だれが、何を”といった事実だけを具体的に書くこと」でした。

 果たして、この方針を私は貫けただろうか。現実に町に飛び出し、家庭訪問で古い写真を探すとなると、これがなかなか難しい。反省点は多々あります。
  例えば海沿いの旧神奈川宿地区のように神奈川の大火、関東大震災、横浜大空襲と3度もの大火災ですべてを焼失した地域があったり、脚を棒にして何軒回っても「探しましたが、ウチにはありません」という町内があるかと思えば、逆に「お宅に昔の写真、ない?」と隣近所に呼びかけてくれる町内もあったりしました。

 実行委員皆さま方の努力につぐ努力のおかげで収集した写真点数は、フイルムを含めると3000点を超え、そのうち450点を掲載しました。
  なかには数百点の地元の風景や行事を撮った写真とフイルムを拝見させてくださった方、素晴らしい昔のドキュメント写真がびっしり貼られた数冊のアルバムの持ち主、そんな“宝の山”を持つ人に今回、5名ほどと出会いました。
 こうした皆様の素晴らしい写真を前にして
地域的公平性をも考慮しなければならず、割愛するのは私自身たいへん残念であり、皆様に申し訳ない気持ちが先立ち、苦労しました。

 ともかく、こうした心に焼きついた思い出の写真を大切にする人や地域をこよなく愛する人、じつに数多くの皆様に支えられ、発行の運びとなりました。
 熱心に活動された実行委員の皆様や本書の企画段階からご協力賜りました横浜市神奈川区役所地域振興課の皆様方をはじめ、題字の桟敷東石先生、巻頭文の赤塚行雄先生、またデスクワークの編集スタッフの皆様や出版に親身のご協力をくださったフジプランズの緑川喜代次様に心から厚く御礼申し上げます。

            平成13年(2001年)1月           編集発行人 岩田忠利

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