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江戸末期、東海道・神奈川宿の神奈川台関門
神奈川宿には関門が東西にあり、これは西側のもの。幕府は警備のため川崎宿〜神奈川宿〜保土ヶ谷宿間に20ヵ所の関門や見張り番所を設けました 提供:横浜市開港記念館
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写真左の同じ場所、平成25年時
史跡が正面にあり、左の道が旧東海道、右の道は高島台へ
撮影:石川佐智子さん(日吉)
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大正時代の新子安海水浴場 提供:池谷光朗さん(港北区綱島東)
明治末期の埋め立てで生まれた新子安海水浴場は遠浅で干潮時には沖まで潮が引き、満潮時には大人の背が立たなくなるほどでした
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昭和初期、和服で運動会
神奈川高等女学校(現神奈川学園)の制服は当時、和服と洋服があり、運動会は写真のように和服で行われました。
提供:神奈川学園
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昭和8年6月、洲崎大神大祭の行列
江戸時代から神奈川宿へ通ずるこの道は、二ツ谷通りといわれ、奥地の農家の人たちが引く荷車の音や牛馬の蹄の音が一日中絶えないほど往来がありました。
写真は現在の区役所と神奈川体育館との間にある二ツ谷橋のところ
提供:福田秀光さん(松本町)
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写真左の同じ場所、平成25年時
左側は広台太田町の神奈川区総合庁舎、右側が二ッ谷
撮影:石川佐智子さん(日吉)
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昭和10年、栗田谷の坂
周囲は畑と薮。急な坂道を女学生や男子学生が登って行く。峠を左折した林の向こうに捜真女学校の校舎が霞んで見えます。峠の先の六角橋に横浜専門学校(現神奈川大学)があります。坂下方向が反町駅方面。
提供:神奈川大学
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写真左の栗田谷の坂 昭和46年10月撮影
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昭和18年冬の朝、校長先生のお話を聞く朝礼
提供:白幡小学校 |
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教室足りず、早番・遅番の2部授業。校庭の掲示板を使って地理の授業 提供:白幡小学校
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昭和20年5月29日、横浜大空襲当日の青木橋付近
空襲の最中。徒歩の人、車の人、それぞれが命からがら避難します
市民グラフ「ヨコハマ」NO.2から
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横浜大空襲当日、横浜市電を牽引する兵士
神奈川通りの市電が架線が燃えて動かない。それを動かそうと兵士が懸命!
市民グラフ「ヨコハマ」NO.2から
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昭和20年、青木小学校校庭から望む横浜大空襲後の惨状
神奈川〜子安方面が一面の焼け野原……です
提供:青木小学校
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昭和21年2月19日、昭和天皇は戦後初の巡幸に横浜市と川崎市を選ばれました。横浜市内では焼け跡からの復興が最も早かった大口商店街を視察されました
提供:大口商店街協同組合
「天皇は国の象徴」という新憲法公布は、この写真の8カ月後の11月3日。それまで天皇は「現人神」、御真影でしかお目にかかれない雲上人。
大口通の両側に市民が幾重にも並び、陛下のお車を頭をさげ、迎えています。大口の人たちはどんな思いでお迎えされたのでしょうか。察するに余りあります。
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昭和25年、戦災の傷跡が癒えない駅前通り
左手の「理髪」は中村理容店。手前が駅方向、後方は六角橋交差点方向です。
提供:磯村あき江さん(泰平楽。六角橋1丁目)
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写真左と同じ駅前通り、平成25年時
“神大の街”らしくカラフルな色彩にあふれ、左の街並みだったことが信じられません 撮影:岩田忠利
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昭和21年、“イモ泥棒”が頻発するサツマイモ畑
戦後の食糧難は深刻です。毎夜、イモ泥棒が出没するので、サツマイモ畑に見張りの番小屋(後方の小屋)があります。
提供:関口 弘さん(六角橋5丁目)
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昭和28年、平川町通りを走る乗合馬車
提供:高橋珪次さん(平川町)
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昭和40年代、おばあちゃんの貝殻むき
徳川幕府お抱え漁場として「御菜7カ浦」の一つと呼ばれた伝統ある子安浜でした 提供:東西興業梶i子安通)
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子供もシャコの殻むきのお手伝い
提供:東西興業梶i子安通)
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