編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
NO.591 2015.04.21 掲載
    第54号
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第54号「榛(はん)
号名  「榛」
サイズ B5判
紙数 76ページ+8ページ(厚紙の「百選会」店名」・本誌販売先イラストッマップ付き)
発行日 平成3年(1990年)8月1日
頒布方法  定価300円
表紙 イラスト
 「車行き交う目黒通りと柿食う少年の絵」
表紙作成者
イラスト・畑田国男(漫画家 緑が丘)
特集
 
特集 
.1 都立大学駅周辺(紙数45頁)
  
2. 第7回誌上座談会
 「都立大学跡地問題を考える」・・・各商店会代表6名

    
    表紙の裏ばなし       畑田国男(漫画家) 

 

   ♪春には柿の花が咲き

    秋には柄の実がうれる

     (石本美由起・作詞『柿ノ木坂の家』)

 表紙絵の坂、目黒通りを登りつめたところが、環七の「柿ノ木坂陸橋」だ。
   環七を右折すれば「馬込」、左折すれば「上馬」、と標示ボートに出ているが、この周りは「馬」に縁のある土地のようである。昔は馬、今は車。

 今年、春。都立大のキャンパスが八王子市に移転して、あとに「跡地利用」の大問題が残された。
   清掃工場か? 住宅か?
   ボクのふる里、都立大という街はこの目黒通りが駅近くを走っているので、車、車、車の街になってしまった。しかし、目黒通り自体は青山通りに似て、道幅も広く、街路樹も豊かで、東京では一、二をあらそう品格のあるストリートだと自負している。住民として願うこと。広大な跡地に欲しいのは、工場でも、住宅でもない。文化施設なんですね、本当は。

 
石本先生の『柿ノ木坂の家』、三番。

 ♪春くりや偲ぶ 馬の市
   秋くりや恋し 村祭り
   柿ノ木坂の あの娘(こ)の家よ

 大学なんてなくなって、「市」や祭りが甦り、人々が触れ合えれば、そして、あの娘が来てくれれば、それがボクたちの幸せなんてすね。
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 追伸 ここに登場の石本美由起先生作詞、歌手・青木光一が歌った『柿ノ木坂の家』は昭和32年に大ヒットしました。中高年の皆さんならどなたにも懐かしい歌でしょう。
 ところが、上記の畑田さんのように「柿の木坂」といえば当然、目黒区の都立大学駅近くの「柿の木坂」を指すと思うでしょう。じつは、歌詞の舞台は、広島県大竹市の“柿の木”がある石本美由起先生の実家なのです。

 本誌の企画にたびたびご協力くださった石本先生から私は、先生作詞の美空ひばりや島倉千代子などが歌うLP版レコードをサイン入りで頂戴しました。そのとき、私は歌『柿ノ木坂の家』誕生のいきさつを先生からうかがいました。
 先生は幼いころ喘息の持病に苦しみ、家に閉じこもりがちの日々だったそうです。
 広島の大竹市の家は高台にあり、宮島など瀬戸内海を見渡せる風光明媚な場所でした。庭には大きな柿の木があり、ひとたび喘息の発作が始まると、家から飛び出し、その柿の木にしがみつき、喘息と格闘、発作が鎮まるまでじっと耐えたということです。
 石本先生のふるさと観は、「大きな柿の木のある見晴らしの良い家」そして「喘息で苦しんだ幼少期」を過ごした広島県大竹市の実家がすべてを象徴される、ということでした。  (岩田忠利)

 号名「榛」とは…   

読者の中には「榛」という文字から上州の榛名湖を思い浮かべたり、榛沢クンという友だちを連想する人がいるかも……。

いずれにしてもこの木は、湖や沢、沼などの湿地帯に生え、水を好む。沿線では碑文谷池の端などに見られる落葉高木。

材は薪、建築用のほか、刈り取った稲を束にしてつるして干す稲架(「はさ、はぜ、はせ」とも呼ぶ)によく使われる。田んぼの畦道に植えられ、水田の風景のアクセントでもあった。昔から童謡にも歌われるたいへん庶民的な樹木だ。

水際に植えるなら榛の木を。さて、都立大学跡地には何を……。

なお、「榛」は一字では「はしばみ」とも読むが、ハンノキとハシバミは別種類の樹木だ。
                  (木村敦郎)








まだ肌寒い早春から花を咲かせる榛

碑文谷池畔で撮影:岩田忠利



秋、松かさ状の果穂がなり、種子は10月熟す

都筑区中川「くさぶえのみち」で
撮影:山田紀子さん
(北山田)
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