編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
NO.559 2015.04.08 掲載 
    第22号
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第22号「槇(まき)
号名 「槇」
サイズ B5判
紙数 76ページ
発行日 昭和59年(1984年)5月1日
頒布方法 定価200円
表紙 イラスト「中原街道・小杉御殿町の街道筋情景」
撮影者 漫画家・井崎一夫(都立大学)
デスクキャップ なし
特集
1. 
特集 わが街シリーズ 武蔵小杉編
  
2.  The Tama River 特集そのT
   沿線の溜り場
      表紙のことば     漫画家・井崎一夫

  今回は「武蔵小杉」 です。

本誌15号の表紙に描いた「等々力緑地」近くに小杉陣屋町、小杉御殿町があります。この町筋にそって「中原街道」が走っています。江戸から多摩川を「丸子の渡し」で渡り、川崎、横浜を抜けて平塚宿郊外の中原に至る道が「中原街道」です。

幕府ができ、徳川家康が江戸入りしたのはこの逆のコースです。当時「中原街道」は江戸への最短直線道路で、のちに「東海道」は宿駅制度が充実され、大名行列などが通る政治的道路になります。中原街道、厚木大山街道、津久井街道などは、江戸へ物資を急ぎ運ぶ産業道路の役割を果たすことになります。

小杉御殿は、将軍秀忠が父・家康のために鷹狩りの名目で街道ぞいに大御殿を建て、往来する将軍、大名の宿舎にあてたそうです。今はその面影は見られません。

丸子橋方面から一直線に御殿町方向に歩いてみます。街道の両側には、老樹、土蔵、ワラブキ屋根、長屋門などの名残が見られます。街道は西明寺(徳川家康ゆかりの寺院、本誌20号で紹介の川崎中原七福神めぐり″の大黒天のある名刹)に突きあたります。
  この辺に小杉御殿があったそうですが、街道はそこから直角にカギ型に折れ、50bほど進むと再び直角に折れて小杉十字路から横浜方面へ抜けています。

このカギ型道路は、城下町でよく見かけるように、小杉御殿が攻めにくいように造られた道路です。このあたりが街道の中心地で、西明寺境内の3つの石塔ほか、供養塔、庚申塔、道しるべなどが集中して見られます。興味深いのは、街道に並ぶ商店の中に、今でも足袋屋、わらじ屋、ローソク屋、醤油屋、附木(つけぎ)屋など昔ながらの屋号で呼ばれる店があることでした。

さて、街道を行き来するうち、私はいつの間にかシマのカッパに三度笠の旅人になっていました。そしてこんどの表紙は、不世出の浮世絵師「安藤広重」調で江戸時代をしのんでみたいと思いたちました。いたずらに広重画風の追従だけでは不本意です。広重先生もゼッタイに描けないはずのパトカーなどを配して、チョッピリいい気分にひたりたくなったのです。広重先生、ゴメンナサイ。

取材にあたり、地元の原平八氏(前小杉御殿町一丁目町会長。「平六大尽」と呼ばれた地元資産家の子孫、20代目)、本誌でおなじみの小林英男氏(郷土史家、日記を続けて69年余、ギネスブック日本版に載る)、学校教諭・羽田 猛氏の著書「中原街道」などのお世話になりました。
 共通していえることは、みなさんの燃えるような郷土愛の精神がここの史跡文化をしっかりと支えていることでした。敬服いたしました。









 号名「槇」とは…   

本号「武蔵小杉」特集の取材でうかがった旧家、小川慶一・原平八・伊藤文治・安藤十四秋家などどのお宅の庭園にも主(あるじ)然とした見上げるほどの高木の槇が……。濃緑の葉をつけた見事な枝ぶりの槇の姿は、旧家と共に永年の風雪に耐え、生き抜いてきたことを物語っていました。

槇はマキ科マキ属マキ種という111種の樹木、しかもわが国の本州と九州だけに自生する日本特産の木です。整った樹形で上記のように庭木によく使われます。葉は長さ1015a、松の葉とは違って触っても痛くありません。赤い花床は甘味があって食べられます。        (岩田忠利)



左の木が横浜市内で最長寿、樹齢1020年の犬槇

正面は戸塚区下倉田の永勝寺山門 

撮影:山田紀子さん
(地下鉄北山田)
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