編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
NO.552 2015.04.05 掲載
    第15号
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第15号「桜
号名 「桜」
サイズ B5判
紙数 76ページ
発行日 昭和58年(1983年)3月1日
頒布方法 定価200円
表紙 イラスト「等々力緑地の釣り堀情景」
撮影者 漫画家・井崎一夫(都立大学)
デスクキャップ 桑原芳哉(学生 大倉山)
特集
1. 
身近な病気、身近な病院 沿線病院ガイド

2.  われらコロンブス
  「等々力緑地を歩く」


      表紙のことば     漫画家・井崎一夫

今回は「等々力緑地」です。

武蔵小杉駅から北へバス5分、多摩川堤防沿いの川崎市営の総合公園です。多摩川をへだてた対岸には、田園調布、巨人軍グラウンドがすぐ目の前です。陸上競技場、野球場、サッカー、テニスコート、プール、ふるさとの森、日本庭園などを含む約8万坪(26万平方b)の大公園だが、この敷地は、多摩川の「ジャリ採取地」跡を埋めたてたところ。名残の5号池(約1万坪)は、フィッシングセンターとして、市民の憩いの場となっている。
  ちょうど休日で、釣り人がいっぱい。本日の入りこみは400人ほどという。入漁料600円也。釣れますサカナは、へラブナ、マブナ、コイ、ライギョ、ソウギョ、レンギョ、ナマズ、ウナギなど。池の向岸にポッカリ浮かぶ大島と呼ぶ小島は、人を入れぬ自然林で、白サギが羽を休めていた。ほかにヒヨドリ、ツグミ、カモなど。

  池のほとりの小さな石碑に、
  ――鯉鮒供養塔 昭和27年 東横水郷会建之――とある。

この碑を建てた人、5号池が川崎市に移管される以前の管理者、菊地音波(金治郎)氏(82)は、池を毎日眺められる家で悠々自適の日々を送っていた。

 「元来、私の職業は、ジャリ採取業″。東京横浜電鉄(東横線)の専属請負人として、昭和5年から26年まで、当時数百人の人を動かしてジャリ採りをやった。ご承知の通り、都市づくりに、「ジャリ」は基礎資材です。これなくして、道路もビルも作れない。多摩川のジャリは、江戸時代から掘られ、大正末期にはほとんど底をついた。昭和7年には採取全面禁止令が出たほどです。だが、このあたり、多摩川の新堤と旧堤間の地帯は、昭和10年ごろ“丘っ掘り(オカッポリ)”(出来の悪い耕地を掘る)が行われた。つまり、多摩川最後のジャリ採取場≠ニなったわけです。掘った跡には地下水がわき、7ツほどの池ができたが、戦後、最後に残された5号池に、私と東急開発課が共同経営で″釣り堀≠作った。古くから私は、釣りキチ≠フ一人だが、戦後荒廃しきった人たちのための健全娯楽、青少年の非行化防止、加えて沿線の旅客誘致を目的としたものでした」



昭和31年8月、5号池の釣り人  
提供:山田勇さん(田尻町)

釣りキチとご謙遜の菊地さん、じつは「ヘラブナ釣り」の師範格で、40歳以上の関東へラブナ釣り師で、この人の名を知らぬ者はいない。最近発行の釣り専門誌には、「釣り人達の陪審員」と書かれている。

 今も、毎日のように池を見廻って、若い人たちに「マナー」を説いたりする。「釣り師3年乞食」という言葉もある。釣りブーム大いに結構だが、ほどほどになさい、と忠告する。

 ゴルフ以外の道楽なら、ほとんど手がけてきたという菊地さん、「音波」という名は、俳号だそうだ。
 「多摩川沿線史を掘り起こす意味で、『ジャリ物語』というのを書き残しておきたい。掘り起こしは、私の得意中の得意だから…」
 とても八十爺とは見えぬ精力的な菊地さん、ユーモラスにしめくくってくれました。

 号名「桜」とは…   

春です。お花見の季節です。お花見と言えばやっぱり「桜」。
  というわけで『とうよこ沿線』も春らしく「桜」と名づけました。
  古くから「花」と言えば「桜」を指し、日本の国花であることもよく知られています。けれども、この桜の花がバラ科に属していることは、意外と知られていないのではないでしょうか。

 「桜」のつく地名についてはP60「地名一生きている沿線の歴史」、お花見ガイドならP65をごらんください。

  えっ、「花よりお酒」ですか。そういう人、多いんですよね。困ったものです、まったく…。    (大倉山・桑原芳哉)



菊名・カーボン山の八重桜

撮影:故池田はるみさん

   春だから、出会います

    13号“桜” デスクキャップ
               桑原芳哉(大倉山・学生)


 第15号桜=I 沿線のあちこちからも桜の便りが届く春の日に、この桜″号を手にした方も多いかと思います。

 毎年のように、出会いと別れがくり返される春。都会を離れて、故郷に帰る人。そして故郷を離れて、都会で暮らしはじめる人。

――『とうよこ沿線』に別れはありません――

 『とうよこ沿線』との出会いは、この本を手にしたとき。『とうよこ沿線』との別れは――ありません。なぜって、いつでもどこでも、『とうよこ沿線』を手にすることができるから。
 故郷に帰っても、『とうよこ沿線』とはお別れせずにすみます。この本をカバンのすみっこに入れて、故郷まで持って行ってくれれば。そして本棚のすみっこにでも、入れておいてくれれば。

 僕と『とうよこ沿線』編集室との出会いも、おととしの4月でした。あれから2年。いろいろな人に出会いました。学生、会社勤めの人、主婦、フリーで仕事をしている人……。みんな、大学に通っていただけでは出会うことのできない人ばかり。


 僕と『とうよこ沿線』編集室との出会いも、おととしの4月でした。あれから2年。いろいろな人に出会いました。学生、会社勤めの人、主婦、フリーで仕事をしている人……。みんな、大学に通っていただけでは出会うことのできない人ばかり。
 こんな出会いが4月から大学4年となる僕にとって、とてもプラスになっていることは言うまでもありません。

 この15号桜≠ナ、『とうよこ沿線』に初めて出会う人もいると思います。はがきを出して、編集長から誘いの電話をもらって、ちょっとドキドキしながら編集室にやってくる……編集室の仲間たちは、そんな人のノックを心待ちにしているのですよ。

最後になりましたが、編集長はじめ編集スタッフの皆さん、そして取材、執筆に快く応じてくださった皆さん、そのほかこの15号桜≠応援してくださった皆さん、今回は本当にご迷惑をおかけしました。この場を借りて、厚く御礼申し上げます。次号もみんなで力を合わせて。
 まだまだ、がんばらなくちゃ!!



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