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「私の家が大向橋の家へ越したのが大正7年」「当時はここはもう渋谷の北端で、練兵場はこの辺で最も広く、何もない空間だった。兵隊が掘りおこした赤土に雑草が疎らに生え、無尽蔵のバッタがいて春先には風で土埃が舞い上って空一面に黄色になることがあった」「この家で私は豊かな湧水と田園を見たのである」
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大岡昇平著「少年」からの一部抜粋である。これを読んで現在の渋谷を連想するのは困難なことである。
ちなみに作中の練兵場とは、NHK放送センターの建物を含む代々木公園一帯にあり、坂を国電渋谷駅の方向へ下ると西武パルコを中心として今、最もにぎわっている公園通りがある。 |
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大正6年、大向(おおむかい)小学校の朝礼
校庭の隣の丘は、現在の高級住宅地松涛町。左手の林が現在都知事公邸です。
写真のとおり一帯は「渋谷茶」を市場に出していた鍋島公爵家の茶畑でした。当時の松涛町は、鍋島家が明治維新の折、徳川家から15万坪の土地を譲りうけたものが殆ど。大向小学校の周囲は「大向田んぼ」と呼んで、田の畦で摘み草ができる、のどかな田園でした。 提供:富士屋酒店(道玄坂2丁目)
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多くの自伝が多くの人々によって書かれているが、この本ほど著者自身の育った場所を詳細に語っている本はないのではなかろうか。
著者自身の身体と精神の成長が語られると共に渋谷の町の変貌が読者の前にくりひろげられる。読み進むほどに戦後の渋谷しか知らない私は、若者の少年時代と共に、渋谷の移り変わりを身を持って感じるのである。
鉛メンコの遊びに興じる小学生の著者を読書へ導くのが従兄の洋吉さんであり、彼に勧められて「赤い鳥」に童話を投稿、最初の入選作が「赤い鳥」に掲載されたのが大正8年。文学への目覚めと共に著者は大正時代に華開く作家たちの文学作品に次々と出逢う。
自分が芸妓の子供であることを知って、キリスト教へ傾き、結局「神」が著者にとって幻にすぎないと考え始めた頃、関東大震災が起こる。大正12年9月、著者14歳、青山学院中等部に在学中のことである。
下町の災害は大きかったが、渋谷は焼け残る。渋谷という町が副都心的な町としての現在の姿に近づくのがこの大震災以降のことである。
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写真上の大向小学校跡地、現在(2013.5.24)
跡地は東急百貨店本店です。同小学校の正門あたりが同百貨店の正面入り口 撮影:石川佐智子さん(日吉)
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「私自身を渋谷という環境に埋没させて」自身を語ろうとした自伝の試みは、大震災が少年に与えた重大な精神的ショックと共に、また渋谷の町もこの震災をきっかけに大きく変貌していったことで終わっている。
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現在の渋谷からは想像もできない田園的であった場所で、好きな文学書を読み、多感な少年時代を送る著者の姿に、大正デモクラシーに一種の憧れを持つ私は、うらやましさをつくづくと感じたのである。
写真左は本書『少年』執筆前、東急百貨店本店近くのお好み焼き「こけし」店主・藤田佳世さんに現在の渋谷の街を案内してもらう大岡昇平先生
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作者のことば |
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作家 大岡昇平先生
世田谷区成城の自宅でインタビュー
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3歳から9歳の時まで住んていたのが、中渋谷180番地です。今の東横線渋谷駅の南側、稲橋の近くで、渋谷川にはまだ丸太橋がかかっていて、米騒動があった大正7年に大向橋の方に移りました。今の東急デパート本店の東側で、今はお好み焼きこけし屋″の近くです。
ここに月の湯″っていう風呂屋があって、今はサウナになっているんじゃないのかな。当時は内風呂のある家はまだ少なく、昼頃から風呂屋が開いていました。何キロに一軒という具合に風呂屋があって、風呂屋の数は多かったですね。
大向橋の家から松涛町に移ったのが大正11年で、昭和5年までいました。この辺一帯は、鍋島侯爵か地主で、約200坪単位の宅地に造成し、今でいう分譲地として売り出したものです。売るといっても鍋島家に縁のあるような人が、払い下げてもらうというような形でね。山田耕筰や御木本家なんかもあったように思うけれど‥…。
父が株の相場師としての絶頂期であったので買えたのでしょう。この家はその頃の通念で、「お屋敷」の部類に入る御影石の門を持った家で、大震災の時もビクともせず、家族はあの時、庭の一隅にあった東屋に逃げました。
息子がインテリア・デザイナーでファッションコミュニティー109の内装をしたのですが、あのあたりは昔、栄通りと言っていましたね。あの角から東急テパート本店に向かう左側には、今でもツルシの洋服やなんか売っている店が多いでしょう。関東大震災後、あの辺で、赤シャツ着てシャツやバナナのたたき売りをやっていたんです。ちょっと昔の雰囲気が今でもありますね。
家並みも店舗も木もすっかり昔とは変わってしまっているのに、道はその勾配も曲がり方まで昔のままに残っている所がありますね。道というものは、大規模な都市計画なんかに引っかからない限り、たいていは昔のままに残るんですね。渋谷を歩いていてもそんな風に変わらずにある道をみつけ、少し驚いたことがあります。
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転校仲間
語る人:巽(たつみ)憲二(巽古書店 大岡山)
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大岡昇平先生と竹馬の友、巽さん |
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うちは、もともと神田神保町の古い本屋だったのですが、事情があって大正8年の末、渋谷へ引越したんです。大向小学較に転校して、大岡さんも渋谷第一小学校からの転校生で、同じ転校生組として仲良くなったのかもしれませんね。
今の代々木公園、元の練兵場あたりによく野球しに行きました。ピンポンもやったし、彼も運動神経が発達していて、私も割合スポーツに強いほうだった。運動会でも互いに優勝争いをして、あっ、この話も『少年』に書いていらっしゃったようですね。
当時神田という盛り場から引越してみると、渋谷はさびしい所で、田圃があって、田圃なんて見たことがなかったからびっくりしました。
子供時代の遊び友達が、互いに身体に支障をきたす年齢になったんだから、渋谷も変わるのが当たり前かもしれませんねえ。
あの本は渋谷のことをじつに詳しく調べて書かれていますが、大岡さんも自分が育った町ということで、随分渋谷に愛着を感じているのでしょうね。
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