編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:伊奈利夫
NO.530  2015.03.22 掲載

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 武田繁太郎著『自由ヶ丘夫人』

          
   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載“復刻版”

   掲載記事:昭和56年11月1日発行本誌No.8 号名「楓」


 
東宝で映画化、自由が丘をイメージアップ。
 全国に「〇〇丘」の地名と芦屋夫人・銀座夫人など
「著名地
+夫人」という呼称の始まりとなる。

          文 内野 瑠美(主婦 目黒区緑が丘)


 「このよく気のあった6人の夫人たちのあいだで、ダンスのお稽古をはじめましょうよという動機がさいしょに持ちだされたのは、週2回の『T御料理学園』の講習をすませたあと、いつもお茶を飲みながらおしゃべりを愉しむことにしていた喫茶店『エトアール』へ、一行がぞろぞろと立ち寄ったときである。」

 


 
武田繁太郎著『自由ケ丘夫人』の書き出しである。物語は、「自由ケ丘――なんとなくしゃれた甘いムードのようなものを世のご婦人に感じさせる街」に住む、なに不自由なく生活する6人の夫人達の話である。その夫人達のいくつかの恋愛事件を軸にして話は進められる。

 この小説の時代背景は昭和3435年頃。当時の自由が丘は、東京オリンピックを頂点とする日本経済の成長を反映して、生き生きと躍動する街、と作者に捉えられている。それでいて、その活気の中にまだ戦前の、どこかおっとりとした雰囲気を持ち続けている街。
  それはつまり、「ひろびろとした大根畑の南傾斜の丘が気に入って」この町を文化的な町にしたいと舞踊研究所を建てた石井 漠らの持ち込んだ雰囲気が、当時はまだ残っていたからであろう。


小説の舞台となった時代より6年ほど前、昭和29年の自由が丘駅北口。“自由ヶ丘夫人”が買い物に出かける       撮影:石井 力さん
 この舞踊研究所は、ビルに建て替えたものの、今も、街から少しはずれてひっそりとある。無論、「T御料理学園」も「エトアール」も健在である。
 当時は存在しなかった大型スーパーが、今はいくつもこの街に進出した。深夜レストランや喫茶店も数しれない。休日には近辺から押し寄せる若者たち、その事で町中があふれる。そうした喧騒で背後の住宅街の住人は、夜遅くまで悩まされている、とか。

 しかし「まるで修道院から出てきたての女学生のように、どこかたわいなく、が、かなりのリアリストである」当時の自由ケ丘夫人達も、時代の波に押されながらも、戦前戦後を通じてここに生きる古い商店主達と、挨拶をかわしている姿も見受けられるのである。
 昔風なモダンさが奇妙に共存している街。それが自由が丘であろうか。

 

 ファッション化された料理講習



       話す人:「魚菜学園」副校長 田村宗文さん



作品に登場した昭和35年ごろの魚菜学園

 

小説の中の「T御料理学園」とは、自由ケ丘お料理学園、「魚菜学園」のことである。
 「素材をうまく生かすこと。そして何より料理とはそんなに難しいものではないのですよ」。これは今も続く料理ブームの火付け役となった校長・田村魚菜氏の言葉。

 小説当時の生徒はどちらかというと、近辺の奥様たちが多かったという。社交場としても、また家庭料理の技術をみがく場としても、この沿線随一の料理学校として名高かった。

 今もその盛況振りに変わりはないが、生徒は若い人々が圧倒的。一種のファッションとして料理を習うケースが多いという。
 が、講習の後、自由が丘の街にくりこんでお茶を飲み、おしゃべりするパターンは昔も今も変わらない、と魚菜氏の長男・宗文さんは話す。










  作者のことば
  「自由ヶ丘という街」



作家 武田繁太郎

(井ノ頭公園の自宅でインタビュー)

 自由が丘の街に住んだことはありません。が当時、つまり昭和34.35年頃、日本が昭和39年のオリンピックを頂点に、高度成長の波に乗り始めた時期に、それに合わせて栄えていった町ということで自由が丘に興味を持ちましてね。自由が丘に居たある洋装店のマダムを知人に紹介されて、その人から街の様子や住む人々のことについて話を聞いて、それをヒントに書き上げました。

 自由が丘は戦前、石井漠を中心として、文化的な町づくりがなされた所でしょう。そのモダンさに加えて、いわゆる戦前の中産階級とは、いささか趣を異にした「中間階級」が多数を占めていた街。
 私の言う「中間階級」と言うのは、大資本を背景にした有産階級でもなく、かといって貧乏人では実際に生活しにくい自由が丘あたりに住んでいる人々といった意味ですが…。

 つまり自由が丘という街は、戦後の日本の経済成長と共に栄えてきた、いわば、日本の戦後のある断面が象徴的にあらわれている街だという風に私はとらえているんですがね。

 小説中の夫人連にしても「よろめき」という言葉が流行しましたが、完全にはよろめいてはゆけなかった時代でね。もっともよろめく場所もまだ少なかったし。ラブホテルなんてほとんどなかった時代でしょう。

 それにしても、ここ4,5年でずい分、自由が丘も変わってきたんじゃないんですか。私もこの吉祥寺に長く住んでいますが、最近の吉祥寺の町の変化にはついていけない感じがしますよ。

 すっかり若者に独占されて、昔からの住民が、はじき出されそうな勢いです。同じような現象が、自由が丘にもあらわれているんじゃないかなあ。


 シュークリームの大きさも
 当時のまま


  話す人:潟c塔uラン社長 迫田定男さん



洋菓子店モンブラン、迫田社長夫妻

 作品中、何度も出てくる 『エトアール』という喫茶店は、うちの店「モンブラン」のことで、文中のシュークリームも、当店のシュークリームのことを指しているのですねえ。
 今でも、あの当時の大きさですよ。大人の握りこぶしくらい。あの当時、たっぷりクリームの入ったシュークリームということで、たくさんのケーキ党の人たちに大変喜ばれました。お客様はほとんどこの近くの高級住宅街のご夫人たちでしたね。でも、あの頃の常連のお客様も、今では随分この自由が丘の街を去って行きましたですよ。

 クリスマスケーキだけは、うちの ケーキが欲しい、といって予約してくださる。そういう人たちは、自由が丘からよそに移り住んだ人たちなんですね。
 今ではあの当時の2世たちも子供連れで来ます。あの小説が世に出た頃、先代の社長か雰囲気づくりにと東郷青児画伯の絵を店内に飾った。あれから、店を改築したが、あの絵だけは、そのままなんですよ。



店内に今も掲げてある東郷青児画伯の絵

     
インタビュー・文:内野瑠美

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