編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:伊奈利夫
NO.529 2015.03.21 掲載

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石坂洋次郎著『陽のあたる坂道』を
  
  中心に東横沿線が登場する作品

          
   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載“復刻版”

   掲載記事:昭和57年5月1日発行本誌No.11 号名「欅」

 石坂文学に緑が丘・九品仏・綱島、登場!
   
             文 
内野 瑠美(主婦 目黒区緑が丘)



 石坂洋次郎著『陽のあたる坂道』は、主人公である女子大生が、家庭教師として初めて、田代家を訪問するところから始まっている。

 

 「陽のあたる坂道」と緑が丘

 「○大学国文科の3年生である倉本たか子は、緑が丘の静かな住宅街を歩いていた。自由が丘の駅で下りていく道は、どこもゆるい上り坂の道になっており、南面しているので、その坂道にはいっぱい陽があたっていた」「両側には大きな邸宅が並び、垣根に植えられた樹々の緑が目にしみるように美しかった」。



上の情景にぴったりの「陽のあたる坂道」を散歩する歌手・松島トモ子さん。
 「私の町、緑が丘」から。

 この本の刊行は昭和32年。25年前のことである。東横線が走り始めてほとんど同時に宅地分譲された緑が丘一帯は、この本の冒頭に描写された通りあまり変わっていない。 世代は移っても、昔の人々がまだ多く住んでいるからかもしれない。狭い東京に住む者の知恵として一つの敷地に、親子が建物を別に住む場合が多くなって、少々家は建て混み、モダンな住宅も増えたが、四季折々の花々がまだ我々の目を充分に楽しませてくれる。

この作品は石原裕次郎主演で日活が映画化、ブルーリボン賞を受けている。

  「乳母車〝ある序章″」と九品仏

 この長編の一部として書かれたものであろうかと思われる作品に『乳母車〝ある序章〟』という小品がある。これもやはり映画化されたのをご記憶の方もいらっしゃるかもしれない。

「古びた山門をくぐると空気が急にひっそりと澱んでいるように感じる。あちこちの立樹で蝉が鳴きしきっている」
 九品仏が安置されている九品仏浄真寺(大井町線九品仏駅下車)の描写。
 この小品も若い人々の大きく揺れ動く心の葛藤が見事に描かれている。


 昭和30年、九品仏・浄真寺の参道
 そしてその心理描写と沿線各所の風景が微妙に重ね合わされていて私の好きな作品。この寺には都の天然記然物に指定されている大銀杏がある。私が訪れた冬の九品仏はこの銀杏もすっかり葉を落として美しい裸木になっていた。赤い帽子をかぶった幼児を若い母親が乳母車に乗せて境内を散歩している。

 
九品仏から大井町線で二子玉川園へ行く。やはり『乳母車』の一節に「水にもぐっていくと底の小石が一つ一つきれいに見分けられるほど水がすんでいる」と描写された多摩川は、今はすっかり汚れてしまった。ただ最近この多摩川にサケの稚魚を放流してサケが卵を産めるような元の美しい川にしようという自然回復運動が起きていると聞く。作者がかつて描いたような澄んだ多摩川になる日がまた来るかもしれない。

  「寒い朝」と綱島

 綱島が登場するのは『寒い朝』という作品。この作品が書かれた昭和34年頃の綱島は、ネオン華やかに温泉旅館が建ち並び「旅館から一歩出ると、霜柱がつぶれた堤道があり、下駄が泥の中にのめりこむ」ようだったとか。



桃と桜の花が同時に楽しめる沿線の“花の名所”として賑わう鶴見川沿いの堤道、昭和13年

都心から少し離れたひなびた温泉街風情だったという。現在の綱島は温泉街が影をひそめ、沿線の一つの大きな住宅街として生まれ変わろうとしている。街も整備され、団地が数多くでき、作品当時の郊外の田舎町の面影はない。

  以上に挙げた作品の他にも、いわゆる石坂文学には、東横沿線が数多く登場する。
  『丘は花ざかり』(昭和27年朝日新聞連載)には自由が丘が、『危険な年齢』には多摩川堤から眺めた田園調布の丘陵の住宅街が…、という具合いに。












   石坂作品のなかの若者たち

 石坂文学作品には、起伏の多い感情を持つ若者たちの精神の燃焼が暖かい目で書かれている作品が多い。そしてそれらの作品の重要な背景として沿線が数多く描写されている。
 理由の一つは作者が田園調布に住んでいたということもあるかもしれない。が、若者の青春をあますところなく描くには、モダンで明るく、どこか自由な雰囲気を持つ東横線風景と作者気質のようなものがよく似合っていたということもあるのではないだろうか。



田園調布に住んでいた
作家・石坂洋次郎

 ごく最近、若者たちを対象にしたある調査で、住みたい所の第1位が東横沿線であるという記事を目にした(ちなみに第2位は井ノ頭線)。ここに列挙した作品はみな、ふた昔も前のものである。
当時も沿線が若者達を登場させるに、ふさわしい所として描かれている。
 今も若者たちのあこがれの沿線である事実を、ここに住む私たちは、誇りとするだけでなく、その環境を大切に守っていきたいものである。

 役名「高木民夫」が芸名に



話す人:俳優・川地民夫

 「陽のあたる坂道」が日活で映画化されたのが昭和33年(田坂具隆監督)。原作に登場する人物の名前を、そのまま芸名にして、この映画でデビューしたのが川地民夫さんである。

「田代信次郎の役が石原裕次郎さん。その異母兄弟で、高木民夫の役をだれにしょぅかと石坂先生と田坂監督が探していた.


日活が主演・石原裕次郎、助演・北原三枝で映画化
 いろいろないきさつからお二人に会って「よし君でいこう」ということになった。

 
僕の本名は、河地猛。ちょっと芸名としてはカタイということで、石坂先生が、川地民夫にしたらどうかということで、芸名が決まった」という。〃民夫〟と同じ年頃で、学生であった
19歳の川地さんは、共感を持ってこの役を演じたという。

 「今の若い人達もあの当時の若者も若いゆえの、揺れ動く心に変わりはないと思うけれど、情報過多のせいかな。

 ものを深く考えるということが、最近の青年は余りないのではないかしら」

 日活に入って9年目にテレビで「乳母車」に出演。以後テレビ映画で石坂文学のいわゆる青春ものに数多く出演。「石坂先生もよく撮影所にいらっしゃった。先生は若い人がお好きなんじゃないかなあ。喫茶店にご一緒しておしゃべりをしました」

 「家は医者なので、お前も医者になれと言われた。が、僕は大学で専科として土木建築を選んだ。あの映画に出演しなかったら、今頃どこかのダム工事の現場で働いていたかもしれないなあ」
 「陽のあたる坂道」出演がきっかけで自分の人生が決まったようなものだ、と話す川地民夫さんである。

 半世紀もの、長いお付き合い

       話す人:藤原 正さん(藤原写真場)



    昭和26年、自由が丘文化人会の懇親会

 
前列左端が澤田政廣、その上に藤原正。花の左が石坂洋次郎、花の右は石井漠
 
                      提供:藤原正さん(自由が丘2丁目)


 自由が丘「藤原写真場」の藤原正さんは、石坂洋次郎の教師時代のかつての教え子。以来親しく往来が続いている。
 3月中旬、石坂先生の静養先、伊東の自宅を訪問されたと聞き、近況をインタビュー。藤原さんのスタジオには先生のポートレートが何枚か飾ってある。


――石坂先生はお元気でいらっしゃいますか。
 お元気ですよ。時々物忘れもなさるようですが。お手伝いさんと二人で静かに暮らしていらっしゃいます。

――先生とはずいぶん長い間のお付き合いと聞きますが……。
 石坂先生が秋田県横手中学校へ教師としていらっしゃった時、その教え子が僕らですから。昭和3、4年頃ですか。先生もその後東京に出ていらっしゃって、本格的な作家生活に。僕も自由が丘に写真館を開いた。みな戦前の話です。以後先生が田園調布に
22年居を構えてから家も近いし、ずーっとお付き合いが続いています。

――教師時代の先生はどんな人でしたか。
 「おとなしくて実直で、痩せていたので、僕らは「夜蛾(やが)」というあだ名を付けていた。当時三田文学に小説を書き始めていたから、僕らを自習させておいて、せっせと小説を書いていたこともある。

――石坂先生と今の若い人のことなどお話なさいますか。
  2,3年年前までは、散歩のついでにこの写真館に時折寄っては、「おい、コーヒー飲みに行こう」。喫茶店に入って周りを見回して、女の人が多いねえ。ねえキミ、今の若い人たちは僕らの知らないことをいっぱい知っているよ」って、よくおっしゃった。
  如才ない人で、若い人が先生に声をかけると、うれしそうに話をなさる。
 最近は、教師としての横手中学校時代の話をよく聞きます。この間お訪ねした時も、僕が先生のデッサンをしていると、その協に自分で名前を書かれた。実に気さくな方なんですよ。

        インタビュー・文:内野瑠美

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