編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:伊奈利夫
NO.528 2015.03.20 掲載

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 山口瞳著『江分利満氏の優雅な生活』

            
   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載“復刻版”

   掲載記事:昭和56年7月1日発行本誌No.6 号名「榎」

  江分利満氏と元住吉
   
    文 
布施 徳郎(医師 川崎市中原区井田)



『江分利満氏の優雅な生活』という山口瞳の作品、年配の方ならまだご記憶があろうかと思う。
 これは昭和37年度下半期の直木賞を受けて当時話題を呼んだ。「優雅な生活」という言葉もあの頃ちょっとした流行語となった。

  主人公の満氏は、東西電機の社員で妻夏子と一人息子の庄肋と元住吉にある社宅に住んでいる。21世帯で1棟のテラス・ハウスである。
 住所ははっきり分かってはいないけれど、渋谷から東横線で多摩川を渡って3駅目で、元住吉であることは間違いない。

 「カーテンの売れる街」という章では、あの頃のこの辺の情景が活き活きと叙述されていて、甚だ興味深い。
 「この界隈の買物時の賑わいといったらない。ひところの中央沿線、高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪の活況に近づきつつある」と商店街の繁昌ぶりが描かれている。
 この点、商店街の賑わいは、あれから20年近くたった今も変わりがない。正午から車輛は完全に通行止めとなる。自転車でも人の波を縫って走るのは難しい。

 この夥しい購買人口の半ば以上は、昭和30年代にぞくぞくと建った会社アパートによるものであろう。作者の山口氏も、かつてはサントリーの社員で元住吉の社宅に住んでいた。今も氏の住んでいたテラス・ハウス式の社宅は健在である。


作家山口瞳氏が住んでいたテラスハウス(サントリー社宅 中原区木月大町)   スケッチ:斎藤善貴

 それから、私は物価には疎くてよく分からないが、主婦たちの話によるとここは物価が他処に比べて安いという。それで、隣りの日吉辺りから買物にくる人もあるようだ。

 しかし商店の内容はということになると「店屋の底の浅いことは驚くべきものであって、どこの店もなにかヨロズ屋的であって、なんでも一通りは売っているが、その種類は実に乏しいのである」と描かれているが、いま江分利氏が元住吉を再訪したとしたら何というであろう。
 私にはやはり長い歳月のうちに商品の稚拙も随分豊かになったし、次第に専門店化も進んできているように見える。
 私が矢上川の近くの分譲住宅を手に入れて、この土地に移ってきたのは昭和32年のことであった。駅から遠いこの辺は、まだ一面の田圃で、商店街もまだそれほど賑わってはいなかった。

 
この作品を書かれたのは、街の状況から推すと、私の来た頃より何年か後に当たるのであろう。あの頃、江分利氏が「まるで西部の開拓地のようだ。勤め人がただ寝に帰るためだけの土地だ」と評していたこの辺も、あれから20年近く経った今は、それなりに随分落着きがでてきたと思う。



毎日が縁日のような賑わい、元住吉西口商店街

 こちらへ来てから生まれた子供さんが、もう立派に成人され結婚されて、最近では赤ちゃんを連れて我が小児科医院に見えられるようになった。こっちも歳をとるわけだなあ、と思わないわけにはゆかない。















 元住吉懐古



作家 山口 瞳氏
国立市の自宅でインタビュー

ぼくが元住吉に住んだのは、昭和36年から39年の2月まででしたか。
  あの頃のぼくは、サントリー本社の宣伝部に勤めていましてねえ、毎日東横線に乗って通ったもんです。それが当時東京駅まで行って、そこから先は地下鉄がまだなくて、本社のある茅場町までずーっと歩いたんです。
 当時の元住吉の社宅は、木月大町。隣の祇園町には古い社宅があったが、大町には新しい社宅か次々建っていましたねえ。カエルの声はうるさいほど。そんな田んぼの中にもバラックみたいな飲み屋があった。そしてときには飲みに行ったこともありました。
 とくにあの頃のぼくは、会社が忙しかったし、書き始めたばかりの頃でしたから、朝早く家を出て、夜中に帰ってくる生活の連続でした。
 それでもたまの休みには、社宅ですから隣近所の人たちとキャッチボールをしたり、お花見に行ったりしてけっこう楽しかったですねえ。

 井田堤のサクラは見事でしたね。で、サクラ見物に行くとあの辺のお百姓さんたちが、肥しをまいてあったりして木の下に入れないようにするんですよ。あの井田堤のサクラは、今はどうですか。



昭和32年、井田堤の桜  提供:橋本禎二さん

 そ、そう、近くに法政二高がありましてねえ、あの学校が甲子園で優勝したんですよ。いま巨人にいる柴田選手が中心で、優勝旗をもって元住吉駅からパレードしたのが強く印象に残っています。私も野球は好きですから……。



昭和35年、後方正面が時計台のある法政二高の校舎
提供:石野英夫さん

 もう、ぼくの知っている人は元住吉にはいないでしょう。あの頃、小学生だった息子がいまじゃ30歳ですから…。

   山口さんのこと



話す人:水島丈博さん夫妻(三恒堂書店主)

 山口さんのお父さんは、よくステッキついてウチの店へやってきましたよ。先生が『江分利満氏の優雅な生活』を初めて書いた頃でしたねえ。

 「本屋さん、セガレの本は売れてるかね? 地元だから、著者のサイン入りでも持ってくるかなあ」
 あのお父さんは、随分息子のことを心配していましたよ。数年前亡くなったそうてすね。先生は如才ない人でした。普通の人と全然かわらない。さいきん、先生の『血族』という本を読みましたけど、山口さんらしい、いい本を書いたなあ、と思いました。

 先生のお宅のことで思い出すのは、〃三味線の音=B私どもがお宅に本を配達に行くと、いつも風流な三味線の音が二階から聞こえてくるんです。先生と三味線の結びつき、意外でしたねえ――。あれは奥さんが弾いていたのでしょうか?
 あの奥さんは、いつもウチで『婦人公論』を買い、隣りの肉屋さんでは肉を買っていたようです。
         インタビュー・文・写真:岩田忠利

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