編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
NO.506 2015.03.04 掲載

       

   追跡! 地域問題
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  編集室が責任をもって取材し質問に答えます!           
                                               
 
 
   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載“復刻版”

   掲載記事:昭和59年3月1日発行本誌No.21  号名「檜」

 川崎市中原平和公園について


           福岡 昌美
(中学生 神奈川区白楽)


 
このあいだ、元住吉の中原平和公園に行ってきました。大きくてきれいな公園でした。ちょうど行った日には、まん中のところで彫刻家の人たちが彫刻をしていました。(でも何を彫っているのか、よくわからなかったけど)。

  私はそのあと、″はだしの広場≠ノ行きましたが、水が冷たそうだったので中には入らなかったです。まだ全部できていなかったけど、あそこは何になるのですか。今度は夏の暑いときに行きたいなと思っています。


    編集室から!

 そろそろ、暖かくなり外で遊ぶのもいい季節になりますね、昌美ちゃん。

 さて、中原平和公園についてですが、早速川崎市役所環境保全局公園緑地課の海野芳彦さんにお伺いしました。
 「中原平和公園は、昭和55年7月旧米軍出版センター跡地を川崎市が買い入れ、旧中原公園と旧木月住吉町公園とをあわせた大きさ4.1ヘクタールの公園です。この公園のテ−マは、しっとりとした潤いのある文化の香りのする公園で、そのためにオープンスペースの屋外文化の育成と市民参加とを最大の狙いにおいています」。
 「施設面では、まず川崎市で唯一の野外音楽堂があります。名前は音楽堂ですが、集会など音楽以外の目的にも利用していただきたいと思います。休場日は月曜、使用については川崎市中部公園事務所、044-733-5740へ電話してください」。


  


 他の施設としては、展示広場の屋外市民ギャラリーがあります。これは一般の方の使用ができるオープンスペースとして貴重なものです。ここで昨年、彫刻家が集まって石彫を創作する彫刻シンポジウムが開かれました。他には冒険広場、はだしの広場、キャッチボール広場があり、ただ今工事中の芝生広場もいくつかの彫刻を配し、3月に完成の予定です」。

 この公園は総工費21億、そのうち施設費だけで6億円と、まったくよく整備された公園です。
 この公園の名にある「平和」の2文字は戦争で多大な被害を受けた川崎市が米軍の施設を廃することで戦争の痕跡を消したことに由来します。なるほど、たそがれ時の公園の趣きは平和な時でしかありえない静寂につつまれていました。


イラスト:石橋富士子

 因みに他の地区での公園建設については目黒区では“すずめのお宿緑地公園”に緑が丘の栗山家の母屋を移設保存します。また目黒区南2丁目の富十見台児章遊園拡張も59年度中に行われます。また横浜市では、西神大寺団地脇に西神大寺公園、他に大倉山公園の整備などが予定されています。
      取材:西野裕久(奥沢 大学生)








 大倉山駅周辺の再開発の行方は?


渡辺 恒子(主婦 港北区太尾町)


  いつも楽しく拝見させていただいております。
  さて、私の家の最寄駅は大倉山なのですが、その大倉山が最近すっかり面目を一新いたしました。大倉山の駅はきれいになるし、駅と綱島街道とのあいだは歩道ができあがって買物がしやすくなりました。そもそも、この通りはバスが通りますし自動車の往来も多いところでございます。ところが以前はその通りに通行人や自転車があふれてしまい大変危険でした。しかし今度の変身で街のイメージも変わりました。


生まれ変わったレモンロード大倉山

 しかし、一つ気になることがあります。と申しますのは西口(新羽橋方面)はいっこうに昔のままでございます。せっかくの街づくり、西口の方も是非変身させてほしいと思いますが、今後どうなるのでしょうか。

 私も大倉山に住んで十年がたちます。この街がこれからどうなるのかと思いまして、編集室の皆様に調べていただきたいと存じ、敢えてペンをとった次第でございます。


  編集室から!

 大倉山駅の東口、正式には「レモンロード大倉山」と言いますが、とにかくすばらしい街ができあがっています。(上の写真参照)









 しかし、今日に至るまでには大変な道のりがあったようです。そこで大倉山商店街の再開発を中心で取り組んでこられた方々のお一人、大倉山東口商業協同組合の吉原昭彦さんにお伺いしました。
 「大倉山再開発の出発は昭和47年の再開発研究会にはじまりました。
 こうした動きは、時代の変化に従来のままでは乗り遅れてしまうということや、
41年の大型店サンコーの進出などによって生まれたものでした。そんな矢先、53年に港北区総合庁舎が大倉山に移転、港北区の行政の中心地商店街としての顔をも、持つようになったのです。
 これによって住民の期待に応え、かつ誇りに思われるような街づくりの責任を商店街自らが感じ、再開発への動きは本格的になりました。
 
53年5月に1.75メートル幅の歩道を作るために、商店が後ろへ引く、いわゆるセットバックすることが決まりました。しかし、セットバックするには既存の建物の建て替えが必要なので容易にはことは進みませんでした。幸いにも国・県・市の協力を得て56年度から3カ年の計画で再開発がすすめられました。
 まさに、大倉山駅改築の東急などを含め、商店街の投資額
14億円の官公民一体の大プロジェクトにまで発展したのです」。



歩行者、自転車、車、バスが混然一体で通る西口の通り

 さて、今後ですが西口も東口の隆盛をみるにつけ機運が高まっているようです。
 吉原さんのお話では、4月早々にも実地母体の組合の設立をし、3カ年くらいの準備期間の後に取り組みたいということでした。
 文字どおり、レモンロードのようにさわやかで新鮮な街並ができあがるのもそう遠くのことではないようです。
              
           取材:西野裕久(奥沢 大学生




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