騒音の中の小さな声
飛行機の中はエンジンの騒音に常に包まれています。
人の声はかなり聞き取りにくく、私たちはお客様に対しても乗務員同士でも、普段に比べ随分大きな声で話をしています。でも、お客様でそのことを心得て、同じように大声で接してくださる人は少なく、大抵は日常生活並みの声で何やらボゾボソとおっしゃるのです。
聞き取れない私たちが、
「はい? 恐れ入ります、もう一度」と少々力んで申しますと、益々小さな声でなにやらオズオズと。
こうした言葉のスレ違いで、フライト中にはちょっとした勘違いが至る所で繰り広げられるのです。
堂々たる体格の初老の紳士、お酒のほうもマティニなどをたしなみそう……。お飲物を伺うと、「ビール」というお答え。
「銘柄はどちらがよろしいでしょうか? 国産各銘柄のほかに今日は、アメリカ産もご用意いたしましたが…」。
その紳士、少々戸惑いながら恥ずかしそうに、
「いや、君、ボ、ボクは〇〇が欲しいんだが」「はい? あ、キリンですね」
乗務員は自信たっぷり、景気よくプシュッ! と缶ビールの栓を。そのときの紳士の困り果てた顔。
「お待たせいたしました、どうぞ!」
満面の笑みを浮かべて缶ビールを手渡しながら、彼女はようやく紳士の様子がおかしいことに気付くのです。
―――ありゃ、間違ったかな――と思いつつ、
「お客様、何か…?」
まことに恐縮しきった表情でその紳士は、
「いや、君、あの、ボクはミルクをお願いしたんだが……」
その返事に彼女、あぁ、やっぱり、と内心肩を落とします。ビールとミルク、普段なら似ても似つかぬこの二つが、なぜか機内ではしばしば取り違えられるのです。
|

イラスト:赤尾直香 |
|
|
|
|
「お茶」と頼まれたが、「紅茶」と聞こえて、「レモンとミルク、どちらをお付けしましょうか?」と確認する。 「マッチある?」と尋ねられて、
「申し訳ございません、煎茶でしたらございますが、
抹茶はあいにく……」とお断りする。
昨秋、私たちの職場から発行された『スチユワーデスの本』の中には、そうした失敗談が山ほど語られています。 「ビジネスでね…」とおっしゃったお客様の言葉を「美人ですね」と思い込み、心の底から「まあ、恐れ入ります」とお礼を述べた女性パーサーの告白など、じつに愛敬があると思いませんか?
機内でスチュワーデスがトンチンカンな応対をしても、お客様、どうぞ怒らないでくださいね。悪意のうえでのことではないのです。これらはあくまでも大真面目な勘違い。
お客様の勘違いでひと騒動というケースも頻発します。たとえば乗り継ぎ便の時間の勘違い。
「君、僕はパリからエールフランスの△△便に乗り換えるのだけどね、これじゃ間に合わないじゃないか、僕は着いてすぐ大事な会議だからね、どうしてくれるんだ?」
「ちょっと拝見…」。航空券を見ると、
「あら、大丈夫、お客様。ヨーロッパは昨日から冬時間です。1時間遅くなりますから…」。
これら真相が判明しだい一件落着といった類の騒動はともかく、私たちからみて一番困るのは飛行機イコール密室、イコール自分だけ、という勘違いをなさるお客様が居ることです。
ステテコ姿で機内を歩き回る日本人も
眠る前、客席で人目はばからずお化粧を落とし、髪にカーラーを巻きつける女性……。
かつて圧倒的に多かったシャツもズボンも脱ぎ捨ててステテコ姿でノコノコ歩き回る日本人男性……。
これを見てびっくりしている外国人客はどうかというと、体力差でしょうか、疲れ果てた日本人のビジネスマンなどおかまいなく、十数時間一睡もせず、お酒のグラス片手に通路を歩いて暢気に騒ぐ人……。
暗い片隅の乗務員席で濃密な二人のときを過ごす恋人たち……。
一体ここをどこだと思っているんですか! もう勘違いを通り越し、この、度の過ぎた人々を一喝できたら…と。
それにしても1万メートル上空にポッカリ浮かんだ地球の縮図、「あぁ、勘違い」は思いがけない悲喜劇をもたらす不思議な魔術師なのでしょうね。
|