編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
NO.450 2015.02.03  掲載 
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   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載“復刻版”

   掲載記事:昭和58年11月月1日発行本誌No.19 号名「柿」

 都市の緑化を考える

  本間 弘光

川崎市自然環境保全審査会会長
 早稲田大・東京理科大 講師
 川崎市中原区丸子通2丁目


    人間にとって緑とは…


  緑は人間にとって生得的に必要なものだという。
 たとえば人間の目の可視領域は、波長でいうと400750ミリミクロンの幅にある。いわゆる虹の七色といわれる赤・橙・黄・緑・青・藍・紫で表わされるが、緑はそのちょうど中間にあり、人間の目の感度はここで最大になっている。目の構造は緑色植物に適応するように作られているわけである。

 また、植物が炭酸ガスを吸って酸素を出していることはよく知られている。人間が一日に吸う酸素の量は約0.75キログラムであり、出している炭酸ガスの量は約1キログラムだといわれる。

  川崎市の場合、人口101万人として計算すると、約1万2600ヘクタールの常緑樹が必要になる。昭和50年現在での山林原野は1284ヘクタールであるが、これはひいき目に見ても、必要量の10分の1でしかない。
  それでも我々は不思議と感じないようになってしまっている。空気の移動により、生存をおびやかすまでには至らなかったからだろう。



 川崎市には、酸素必要量が10分の1しかないとは?!

     イラスト:石橋富士子(横浜)

街に緑の連鎖帯を



 同じ川崎市でも、北部は緑に囲まれた住宅地という感じがある。それにくらべて南部の街は、思いなしか街全体がうすねずみ色によどんでおり、空さえも寒寒と感じられる。

 川崎市内の東横沿線ではそれほどではないにしても、街並みの緑の広がりは面ではなく、線でもなく、もはや点でしかない。どちらを向いても庭木もない家並みであり、それが自動車の多い危険な道路に囲まれている。


  人々は自分の住むところを屋根で覆うだけでなく、そのまわりの土地をコンクリートやアスファルトで覆ってしまう。それらは水を通さないため、街に降った雨は土にしみこまず、ほとんど全部が下水溝に流れこむ。たまたま排水管の効率か悪かったりすると、たちまち一時的な水びたし地区ができあがってしまう。

  問題は、土地に水を与えないことである。土地は元来、微生物の働きなどで生きているはずなのに、それを殺すことになってしまう。
  中西悟道氏は、「人間は月へ行けても、木の葉一枚つくれない」といわれたが、人間のおごりを素直に反省し、自然を忘れた生活からすみやかに立ち直る必要があるだろう。

  そのためのひとつの方法として、歩道と車道の間は、少しでもいいから舗装をはがすようにし、若木を植えて緑の連鎖帯へとつながるようにしてはどうだろうか。

せせらぎのある道へ



  できれば車道の真中か、あるいは歩道の端にでも、きれいなせせらぎを作ってみたい。そこにはもちろん、下水は流れこまないようにする。
 たとえば、アムステルダムでは、片側3車線の道路に隣接して高さ数メートルの緑の緩衝緑地帯があり、その隣に自転車道、さらに芝生の分離帯、つづいて歩道がある。そして末端には小川が流れ、白鳥がスイスイ泳いでいるといった光景が見られるという。

 外国の例を出すまでもなく、昔の道路にはせせらぎがあり、家並みはせせらぎと対面していたのである。 今でも地方のお寺の塔中にはせせらぎが見られる。白鳥とまではいかなくても、せせらぎの存在はどんなにかドライバーの気持ちをやわらげることであろう。

 川崎市の場合、幸い多摩川に沿った細長い街である。南北に連なる道路にせせらぎを作れば、ひとりでに流れるはずなのだが。

 これまで人間は、環境を力ずくで変えてきた。しかし回復育成への道は、単なる緑化ではなく、生存環境の見直しを基礎とした持続的な創造作業なのである。

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