「女高生と男友達心中」という記事が6月15日の朝刊に掲載されていたことを、覚えている方もいらっしゃるかと思います。
「14日午後6時20分ごろ、横浜市磯子区磯子町、〇〇〇ハイツ△号室で、無職T君(17)とM商業高3年Hさん(17)の二人が、頭からビニール袋をかぶって、足元をしばり死んでいるのを……」
実は、このHさんは、いま私がM商業高で「商業法規」(4単位)を教えている生徒だったのです。
私も15日の朝、臨時職員会議で知らされ、さっそく自分の出席簿を確認すると、4月8日から6月13日まで1回の欠席も遅刻もなく、14日の無断欠席が死と直面していたのです。
現役の生徒の非業の死、私にとっても初めてのこと、校長以下われわれは大変なショックを受けました。
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イラスト:石橋富士子(横浜) |
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その日――教室を埋めた涙
その日、Hさんのクラスの1時間目の授業は、私の「商業法規」でした。教室に入ったとたん、全員のすすり泣く声で埋まりそうになりました。しばし間をおいてから、私は生徒に語りかけました。
「私もほんとうに驚いた。H君のご両親たちは、おそらく茫然としているに違いない。私などただの教科担当教師でしかないが、それでも、非常に残念というか、何かポカッと心に穴があいたようない気がする。
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それは、家庭も学校も友情も、こんなにも無力なんだ、ということをガツンと言われたことになるからかもしれない。
みんな、4月8日の新学期最初の授業のノートを開いてみてください。
『人生の目的はない。存在感があるだけ。長生きと長寿の違い。生きながら考えるのではなく、考えながら生きていく』と書いてあるね。
だから、あくまで学問や芸術、技術といったものは、人間が生きるための手段、武器の.一つにすぎないんだ。もし、かっこいい理屈、心を打つ美が人生の目的なら、アラスカの狩猟民エスキモーや、世界の未開民族なんかには、生きる喜びや生きがいがない、ということになる。でもそれは、文明人のおごりでしかないんだ。
人間が生きていく上で、いちばん大切なのは、自分の存在感を確かめながら生きる、ということなんだ。
いま、彼女ら二人が家出をし、ガスで心中したということは、考えに考えぬいた末のことだと思う。二人のご両親たちにとっては、道連れがいたことが、せめてもの慰めであったんではないか、と思う」
そんな話を、生徒とともに私も涙ぐみながら話したわけです。
信頼――今一度かみしめて
命というのは、はかないものです。不安定で、頼るものがなかった17歳の命――。
彼女ら二人も、生きることのはかなさを感じて、死を選んだのかもしれません。ナウいファッションを身につけ、ディスコの騒音の中で踊り狂う若者たちは、彼女ら二人が感じた心底の無常さを感じることがあるのでしょうか。それとも、彼らも、心底の無常さをまぎらわしたく、自己逃避を繰り返しているのでしょうか。
私たちは、共同社会である家庭、地域社会、学校のお互いの信頼を、もう一度かみしめて生きなければならないと改めて感じさせられたのです。
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