編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
NO.447 2015.02.02  掲載 

 
   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載“復刻版”

   掲載記事:昭和57年7月1日発行本誌No.12 号名「桂」
 
   沿線から消える“緑の風景”

  渕上 和彦

  横浜市財政局管財部長
   横浜市旭区若葉台在住

 

15年間で半分に減った
      横浜市の緑地″


 横浜線で通勤しているので、菊名でクロスするのが東横線とのおつきあいになる。つきあいといっても毎日立体交差しているだけでは能がないが、時たま大倉山、日吉、自由が丘などに足をのばし、コーヒーを飲みながら、東横沿線の特徴は何だろうと考えてみたりする。

 東横
沿線も多摩川から横浜にかけてはまだ緑豊かであるが、年々家がふえ、市街化が進んでいる。昭和40年代の大開発時代は去ったけれども、近頃では急斜面にもマンションが建つようになり、都市に残る最後の緑地といわれる傾斜地もなくなりつつある。
 横浜市の資料によれば、昭和40年から55年までの15年間に市内の山林は約半分に減ったという。


緑を残すのは日本ではムリなのか


 話はとぶが、約4分の1世紀前、首都圏整備法という法律による整備計画がつくられた。その中で東京圏の市街地をとりまくおよそ数キロほどの幅の緑地帯が構想され、わが東横沿線の一部もそれに含まれていた。大ロンドン計画のグリーンベルトをモデルにした壮大な構想であったが、本家とちがって実施手段を持ちえなかったため、文字通り画餅に帰してしまった。土地が商品として扱われる以上、経済法則の示すところ、緑地のような非生産的投資が行なわれるのはムリというものだった。ゲルマン的発想が日本の社会事情になじまなかった一例といえるかもしれない。

 その後、緑を残そうとする努力は住民や自治体によっていろいろと試みられ、成功もあり失敗もあった。 ある団地の隣の丘に高層マンションの計画があり、反対運動が起こった。いっそ丘を買ってしまったらという意見も出たが、20億の金額を調達することは5000世帯の大団地をもってしても不可能で、問題はいまだに解決していない。
 近い所では大倉精神文化研究所が横浜市の手で買いとられ、東急所有の梅林と並んで保存されることになったのはよかった方の例である。

 

 大きな緑地を保全するのは制度的な保証なり、公共機関や財団などの大型資金が動かないとむずかしい。ロンドンの緑地帯にしても19世紀以来の長い思想的・実践的努力の積み重ねの上に実現したものだった。それはそれで力を入れていかなければならないが、もう少し手近に何かできないだろうか。


みんなで増やそう、緑の風景


 街のデザインということがよく取りあげられ、商店街に美しい敷石や植樹がされたり、公共施設の前に広場や噴水が設けられたりする。また風景についてたくさんの提案や研究がされるようになり、内容的にも歴史、考古学、生態学、生活文化など多彩なものを含むようになってきた。能率に対する遊び、機能に対する存在の復権ということになるのかもしれない。

 こういう眼で緑の問題を見直してみたらと思う。それは橋のほとりに立つケヤキの木、草地に咲くタンポポの花、裏山の風さわぐ雑木林といったものである。この中には保存すべきものもあり、これからつくり出すことができるものもある。まず思い浮かぶのは丘陵地の斜面、鎮守の森、川原と堤防などを保存し、さらに育てることである。もっと小さくてもいい。どこの住宅地にもある未利用地、たいていそれはハンパ地であり、個人の所有地であるが、そこにたとえばハギ、ユニシダなどを植えてみる。


 それだけでどんなに風景に奥行を増し、季節の喜びを与えてくれることだろう。千里の道も一歩からということがある。こんな所から手をつけてみたらどうだろうか。

     イラスト:笠井希代子

「とうよこ沿線」TOPに戻る 次ページへ
「目次」に戻る