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真理をめざして
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学院長 フィリップ・キンレイ |
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「信・望・愛」をモットーに
玉川聖学院は、アメリカに本部を持つ「神の教会」のミッションスクールとして昭和25年に設立されました。
したがって、聖書を神のことばとするキリスト教精神に基づく人格の陶冶を本学院の教育の根幹としていますが、その実践として「信・望・愛」をモットーにし、礼儀正しく、責任感の強い、神と国と人と学を愛する円満な気高い婦人となり、将来世の光、地の塩たるべき社会人となるように、父母、教師が一致して、厳格な中にも愛をもって親しく指導することを目標としています。
一般に教育の目的は、真理を教えることですが、同時にすべての生徒が自分の力で真理を捜し求めることも重要であり、それで自分自身が励まされ、成長出来るものと思われます。 真理を知ることは、人生の正しい価値観を知ることでもあり、自分のために良い価値観を育て、人生にとって重要なことと、つまらないものの区別を知ることでもあります。
イエス様は、人生を自分のためだけに生きるよりも、他人を助け、また神に仕えて生きることに意味があり、人生の真理があると、教えてくださいました。この教えに従い、真理に生き、自由に生きることによって、初めて自らを育み、成長させ、愛と誠に満ちた生き生きとした豊かな心を持った社会人になることが出来るでしょう。このような人を育てていくことこそ、玉川聖学院の教育目標です。
私が玉聖と出会った頃
振り返ってみますと、私が初めて玉聖を訪れたのは今から26年前、昭和30年の秋のことです。
当時の玉聖は校舎もまだ木造、前の道も未舗装の泥んこ道で、大変汚ない見苦しい学校という印象でした。そのうえ、講堂も礼拝堂もなく、毎朝、生徒たちを連れて玉川教会へ通ったのも、今ではなつかしい思い出です。
日本の学校について全く何もわからない私に温かく指導をしてくださった谷口前院長先生、八代前教頭先生、そして見ず知らずの外国人である私に、誠意と熱意をもって接し、一生懸命勉強してくれた生徒たちのことも忘れられません。
谷口先生の後を引き継ぎ、私が学院長に就任してからは8年、最初にかかわってからは26年たちました。その間、玉川聖学院が成長し続けてきたことを強く感じます。小さな始まりの中からここまで育ってきた私たちの玉川聖学院。これからも、ますます立派な玉川聖学院を創っていかれるよう努力していきたいと思います。
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岸 貞子(家庭科教師)
快気を祝い心から御厚意を感謝して――在りし日の谷口先生のことを思い浮かべていたら、一冊の小冊子が目に留まりました。それは腸の手術を無事に終えられ、お元気を取り戻された時に贈られたものなのです。
その表紙に書かれているなつかしい筆跡を見ていると、亡くなられて9年目の今になっても、まだどこからかお声が聞こえるような気がしてなりません。
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卓球がお好きで、先生や生徒を相手に、底の抜けそうな卓球室でよく球をはじかれました。勢いづいて遠くに球を飛ばされると、そのたびにごめんください≠連発なさり、頭を下げられながらの球技でした。先生のお人柄が偲ばれるエピソードではないでしょうか。
ある時、遅い職員会議が終わり、その日に討議した事柄を、先生は熱心に神に願っておられました。
ところが連日の忙しさでお疲れだったのでしょうか、途中で先に討議した事柄をお忘れになられ、言葉につまられたのです。一同ハラハラしておりましたところ、同席の今は亡き藤平先生が同じ口調で一言ずつ口添えなさったのです。肋言を受けて無事祈り終えられた先生は、少し恥ずかしそうに「お先に」と言ってさっさとお帰りになられました。
お祈りのまっ最中の助言という思いがけない出来事に、こらえきれずみんなで大笑いしたことも、今となっては忘れられない思い出です。
クリスマスには、サンタクロースに扮し、おどけた口調でプレゼントを生徒たちに配られたこと、モンブランのシュークリームが大好物でいらしたこと、先生の思い出は本当に数え出したらキリがありません。
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朝の静かな礼拝のひと時
学院長の優しい声が響き渡る
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分かるのはオハヨウゴザイマス″だけ(?)
英語教育にとりわけ力を入れている玉聖には、現在アメリカ人の英会話の先生が3人いる。毎朝の礼拝を行うのは主に日本人の先生たちだが、月に1度くらい、この先生方が担当することもある。
「オハヨウゴザイマス。ニホンゴハ、ココマデ」
あとはもちろん正真正銘の英語。真剣に聞いてはいるけれど、正直いってわからないことも多い。しかし、英語で聴く聖書の言葉はいかにもミッションスクールの朝にふさわしい。時には讃美歌も英語で歌ったりする。
ミッションスクール多しといえども、英語で礼拝をしている学校はそんなに多くはないと思われるがどうだろう。
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元祖、週休2日制
「先生、大学って大変ですね〜」
「どうして?」
「だってえ、土曜日にも学校があるんですよお」
「あたりまえじゃないか」
「わかってたんですけど、3年間、土曜休みになれてしまうと、つらくって、つらくって……」
4月、5月になると、卒業生と教師との間で決まってこんな会話が交わされる。
玉聖は創立以来土曜日が完全に休みである(週休2日制の元祖?)。これは日曜日に、生徒がそれぞれ自宅近くの教会の礼拝に出席するため。その結果、先のような悲鳴があがることになるわけだ。
そんなわけで、日曜日には対外的公式戦以外は学校行事、クラブ活動は一切行われない。中学、高校の風景としてはちょっと珍しいのではないだろうか。
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ポプラの樹のこと
玉聖の校庭のまわりには、かつて大きなポプラの木があって、自由が丘駅のホームからもよい目印になっていた。
このポプラ、今は亡き用務員のおじさん(小松のおじさん)が20年ほど前に植えたもので、年を経るにしたがって立派に大きくなり、玉聖のシンボルツリーとなっていた。
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白亜の校舎とポプラの樹……今は懐かしい風景
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ところが一昨年10月の台風であえなくダウン……。荒れ狂う強風の中で次々倒れていくポプラを眼のあたりにしながらも、どうすることもできず、やり切れない淋しい思いがしたものである。
何も知らずに登校した生徒たちも「あっ、ポプラが……」と絶句。朝に夕に馴染み、そこにあるのが当り前のようになっていたものが、なくなってしまったのだから、驚くのも無理はない。
今、そのポプラの植わっていたあたりには別の苗木が植えられ、スクスクと育っている。
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母・私・娘――玉川聖学院3代記
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須山道子(昭和30年卒)
玉川聖学院は私と娘の母校であり、また私の母が華道の指導をしていた学校です。私が通っていたのは学校が創立して間もない、今から約30年前のことです。
現在はビッシリとお店が建ち並ぶ自由が丘の駅の周辺も、当時は静かなしっとりとした街でした。学校へ続く道は桜の並木で、その道の脇には小川が流れ、うす桃色の花びらが水に流れて往く様は、のどかな春そのものでした。
学校の庭先には沈丁花が咲き乱れ、ふくいくとした香りに登下校のたびに足を止めたものです。この沈丁花をはじめ、校庭には一年中花が絶えることなく、そのいかにも女子校らしい優しい雰囲気が自慢のひとつでした。
娘も私と同じ学校に学び、巣立った今、玉聖で学んだミッションの精神が同じように生きているのを感じ、嬉しく思っている毎日です。
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母・須山道子さん(左)と圭子さん(右)
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須山圭子(昭和54年卒)
私が玉川聖学院を受験したのは、特に母にすすめられた、というわけではありません。けれども、普段からよく玉聖のことを聞かされていて、他の学校に比べて親近感があったことは確かだと思います。
母が事あるごとに話してくれた自由が丘の駅や街並みは、私が通う頃にはすっかり変わっていたようですが、玉聖のおっとりとした雰囲気、温かな校風は聞いていたとおりのものでした。
振り返ってみても、特にこれといったこともなく過ぎてしまった学院生活でしたが、同じ高校に学んだ、という共通点は、母と私のコミュニケーションの場で、大きなプラスになっています。
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玉川聖学院高等部昭和30年卒業。米国インディアナ州アンダーソン大学で教育学専攻。
帰国後、国際キリスト教大学で言語学専攻。水野同時通訳研究所設立。国内外の各種国際会議の同時通訳として活躍するかたわら、プロ通訳の養成に力を注ぐ。専門の分野は、政治、経済、技術、医学
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玉聖時代にスタートした通訳への道
松本荘子(旧姓水野 昭和30年卒)
“Where
did
you learn English?” 国際会議などのお仕事をしていると、よくこのように尋ねられます。私はいつも “:In
the United States ”と単に答えてしまいますが、その都度、心に浮かぶのが玉川聖学院の厳しく、また楽しかった英語の勉強のことです。
むずかしい発音を熱心に教えてくださったアイキャンプ先生ご夫妻。私立中学英語弁論大会で1位のトロフィーをいただいたこと。讃美歌の響くチャペルで、アイキャンプ牧師のお説教を夢中になって通訳したこと。先生方のご指導のもとに神の教会本部アンダーソン大学に念願の留学がかなったことなど……。
これらのことを思い合わせれば、本当は、“From Rev. Eikamp
in my high school days”とお答えするべきでしよう。
玉聖の英語、そして温かいクリスチャンの人間性にもとづくコミュニケーションの精神は、今の私の仕事――同時通訳の中に生き続け、私を支えてくれています。
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忘れられぬアイスクリームの味
二宮裕子(昭和51年卒)
初めて訪れた時に見たロビーの大きなクリスマスツリー、そして白いフェンスの向こうの美しい花壇。その優しく暖かい雰囲気に魅かれて玉川聖学院に入学したのは、今から約9年前のこと。3年間よく学び、よく遊び、授業が予定より先に進んだ時など、先生ともども教科書をしまって学校を抜け出し、すぐ裏手にある九品仏へ遊びに行くなど、ということもありました。
そしてもう一つ、大掃除もよくやったものです。 毎年春になると掃除当番を悩ませたのがポプラの種。校庭のまわりにぐるりと植えられていたポプラから飛んでくる種は、白い綿毛に包まれていて、それらが無数風に舞う様は大変きれいなのですが、どこから入り込むのか、その時期は学校中が種だらけになるのでした。
その頃、すでに美術の道に進みたい、との希望を持っていた私は、学校が終ると研究所に直行して絵を描く、という毎日を送っていました。そのような中で、高3の夏休みに写生をしに行っていた日比谷公園まで、アイスクリームを持って励ましに来てくださった担任の先生のこと、そして美味しかったその味は、今も忘れることができません。
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昭和51年卒業。彫刻家。第27回創型展奨励賞受賞。第29回同展入選。第9回日彫展入選。第66回二科展入選。その力強い作風は新進彫刻家の中でも特に注目を集める
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筆者の入選作品
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歌手。ヒット曲は「赤いランプの終列車」「お富さん」「長崎の女」など多数。リサイタル「演歌とはなんだろう」で演歌初の昭和48年度芸術祭大賞を受賞 |
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日本女性としての美しさを
春日八郎(歌手)
玉川聖学院には私の3女、浩代がお世話になりました。
私の職業上、家も仕事場のようなもの、つねに人の出入りが多く大変賑やかなんですが、その中で浩代だけは、いつも控え目でおとなしく、黙りがちでした。芸能人の娘というと、派手好きで目立つ、と思われがちですが、私も妻も、むしろ普通の家庭のお嬢さんと同じように優しくしとやかに育ってほしいと願っていましたから、そんなあの子の性格をそのまま生かせる学校を、と考えていたんです。
玉聖はその点でピッタリでした。ミッションスクールでありながら、日本女性として必要な作法を教えてくださり、学校全体が静かで落ち着いた雰囲気でしたから、浩代も背のびすることなく楽しく過ごせたようです。
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編集を終えて
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一見何でもないかのように見える人にも、その人だけの歴史があり、ドラマがある。街でも、学校でもそれは同じはず。
今回初めて「わが母校」編集の任をおおせつかり、その隠れたドラマをどこまで伝えられるかを課題に取り組んではみたものの、いかにも力不足。お読みになる方々には、もの足りない6ページであったかと思いますがお許しください。
秋の行事シーズンのまっ只中、ご協力くださった先生、ご父兄、卒業生、在校生の皆様、ご協力ありがとうございました。
本誌編集室担当・小山節子(白楽)
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私の初めての仕事らしい仕事がこの「わが母校」のアシストでした。
私には、文字どおり、我が母校・玉川聖学院です。
恐らく読者の皆様はこの学校のことをご存知の方が少いと思います。ですから週休2日のミッションスクールというだけでなく、良い意味で玉聖の名が広がってくれれば本当に嬉しい限りです。
編集室担当・有田智子(田園調布)
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掲載記事:平成10年10月25日発行本誌No.71 号名「梔(くちなし)」 |
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キリストの教えを学校教育に生かし.情緒豊かな人間育成に励む玉川聖学院。その教えを受けた生徒たちは、各分野で活躍中。
後の宝塚女優も中学時代はここで讃美歌を歌っていたのだ。そしてミッションスクールなのに、なぜか隣が九品仏の浄真寺である。不思議だ……。 |
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School Profile |
●生徒数 中学…493名 高校…570名
●沿革
1950年(昭和25年)創立。創始者・谷口茂寿氏逝去後、フィリップ・キンレイ氏が学院長を務める。1994年には藍綬褒章受章。
●教育方針・校風
・聖書の人間観を教育の土台とし、「神に対しては信仰、事に対しては希望
、人に対しては愛」というモットーがある。
・ミッションスクールとして毎日の礼拝や、過1回聖書の授業がある。
・日曜日の教会出席のため、土曜日が休みとなる。
・福祉活動に力を入れ、高齢者施設のワークキャンプ等もある。
・英語教育が盛んなため帰国子女も多い。
●年間学費 (次年度以降)約60万円
●卒業生の主な進路
約80%が大学進学。キリスト教の大学に進む生徒も多い。
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学校自慢
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1. 4億円相当のパイプオルガンがある。
2. 先輩と後輩の仲か良い。
3. 校舎の建て替えがあり、今後は広<なる。
4.偏差値教育を強制されず、自由にクラブ活動に励める。 |

パイプオルガンの大きなパイブが |
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卒業生のヒトコト |
疲れる修学旅行
母校のことを思い出すたび、数学の三浦先生の呟きが聞えてくるから不思議です。
「うちの学校にはかわいい子か多いので、修学旅行はスゴく神経を使って疲れるよ」
私って男の子にひと声やふた声、掛けられたことあったかしらと過ぎ去った甘酸ぱい青春を懐かしんでいます。そういえば芸能活動禁止の学校でしたが、卒業後芸能界やファッション界に進んだ友人知人が何人かおりました。 <昭和54年卒 (元生徒会長・宇野久子(旧姓鶴田)>
倒れたポプラの木
玉川聖学院の名物は校舎3階まで高くそびえるポプラの木30本が校庭を取り囲んでいることでした。昭和54年の秋の台風のとき、それが一本残らず根元から折れ、倒れてしまったのです。その惨状を見た青波目(なばため)先生、
「あ〜助かった。ご近所に迷惑かけずホッとしました。きっとこれも神のご加護です!」。隣接の住宅や社宅側にではなく、すべて校庭側に倒れたのでした。その光景を見て生徒たちも「掃除の省エネになるわ」と大喜び。ポプラの綿毛が舞う秋の教室掃除は毎年大変でした。
<昭和57年卒。鈴木栄美>
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ウチの学校のここが
すごい! |
その1
毎年9月14日・15日行う学園祭「学院祭」は生徒会主宰。チケット制で、生徒の保護者およびOBのみ。模擬店あり、ブラスバンドの演奏もあり、普通の学園祭と思いきや、なんと、芸能人の講演がある。(小堺一機、福井謙二、志茂田景樹など)
その2
毎朝・毎夕、一日3回讃美歌を歌う。
その3
クリスマス礼拝には全校生徒がハレルヤ・コーラスを大合唱する。その迫力はすごい!
その4
夏休みには各人自宅近くの教会へ3回通うこととレポート提出が義務づけられる。
その5
ルーズソックス、茶髪、パーマは校則で厳禁。生徒の身だしなみにチヨーきびしい学校であるのだ。
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名物先生 |
★「キンちゃん」と呼ばれている学院長のキンレイ先生は、棒のように背が高く、卒業生全員の名前と顔を正確覚えているのにはタマげる。
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生徒に人気、キンレイ校長 |
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★「まめ」と呼ばれる行動もマメで、体格は小柄で豆粒のような先生。
★顔は手塚治虫そっくり。授業に熱中すると突然、なんオクターブも高い素っ頓狂な口調になる“声がひっくり返る”、英語のT先生。
★いつも喪中のような黒づくめの服装の音楽の先生。
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制服 |
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好きなところ
☆リボンかかわいい。 ☆冬服のスカートは好き。 ☆お嬢様っぽい。
☆受験生のあ母さんに人気があり、よく聞かれる。
嫌いなところ
☆丸エリがいやだ。 ☆冬のコートが長すぎる。
☆靴下のゴムが伸びる。
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有名先輩 |
◆二宮 裕子(彫刻家)
◆安西マリア(「涙の太陽」の歌手、女優。平成26年心筋梗塞で死去、享年60歳)
◆秋山 玲(宝塚女優)
◆紫 とも(玉聖2年修了時に宝塚音楽学校に入学、首席で卒業し元宝塚雪組トップ娘役に。現在女優)
◆中森 友香(モデル)
◆秋山かおり(モデル)
◆岸 久里(イラストレーター)
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連絡先:玉川聖学院中等部・高等部
〒158-0083束京都世田谷区奥沢7-11-22
TEL.03-3702-4141. FAX, 03-3702-8002.
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「とうよこ沿線」編集室 取材・編集スタッフ
品田みほ(反町)/高津利恵(中山) |
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