編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
NO.432 2015.01.12  掲載 

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  トキワ松学園 の巻



  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和56年11月1日発行本誌No.8 号名「楓」

   
  トキワ松学園

       ~~~最寄駅・都立大学~~~

校章


 大正5年(1916年)に創立されて65年。激動の戦後期に奇跡の再生を遂げ、その伝統をいま、碑文谷の地に花咲かせているトキワ松。
 手作りの人間教育を現代に残している学園の歴史と現状は……。


           校章と校歌の示す理想の光

 トキワ松学園の校章は円を3等分した形で、外車のベンツのマークに似ているといわれる。しかし、中心から出ている等分線の先がベンツと違って尖っておらず、安定感がある。
  元来、この3本の線は「人」という字の図案化で人を円で囲み、円満な人格の完成を表現したものなのである。
  したがって、この3本の線、あるいはそれによって分かれた3つの領域を、古く言い慣らされたように知・情・意とも、知育・徳育・体育とも、あるいはまた、優しく美しく品のよいトキワ松学園の理想の生徒像と解してもよい。それらの解釈は人によって自由である。
  とにかく創立者・三角錫子女史の「鋼鉄の強さとスミレの優しさ」を兼備した、21世紀に生き、これを背負う理想的現代女性の育成こそ、トキワ松教育の目的であることをこの校章は示している。

  校歌は創立渋谷期のものから、戦争中のもの、現代目黒期のものと3度変遷しており、それぞれに各時代を反映していておもしろい。
 しかしその実、よく読んでみると内容はちっとも変わっていないのである。一貫してのびのびと健やかに、円満な人柄を完成させた女性の理想像を、それぞれの世代の現実に即して歌いあげている。



女子学園らしい美しい鉄筋校舎。広い土の校庭、マロニエの並木とバラの垣根が映える


中・高校のお姉さんと一緒の小学生

  『♪真白き富士の嶺』と創立者三角錫子(みすみすずこ)女史


 逗子開成中学校の生徒十数名が相模灘で高波にさらわれ、全員帰らぬ人となった、有名なボート遭難事件が起きたのは明治43年(1910年)1月のことであった。

 この悲報を聞いて涙に頬をぬらしながら「♪真白き富士の嶺」の詩を一夜にして書きあげ、鎌倉高等女学校の生徒を引率して、開成中学校の学校葬に参列、これを若者たちへの鎮魂歌として奉納したのは、ほかならぬトキワ松学園創立者・三角錫子女史であった。
 この歌は今に歌いつがれて、この事件をつねに新鮮な感動と共に私たちの胸によみがえらせてくれる。


                出資者のいない私学

 終戦直前に校舎が全焼した。その後、創立以来の経営者の事情で、資金援助が絶たれ、それ以後の経営は多難であった。公立と違い、校地・校舎を失った一私立校が立ち直る苦労は並大低なものではない。

 それができたのは教師・生徒・父母の一致団結の力である。今になってみれば、この学園には出資者がいない。寄付は求めない。そのうえ、授業料その他はそのまま教育そのものに還元され、土地の有力者を主とする理事会の方々も、未だに無報酬だという。
  珍しい私学というべきであろう。


                     碑文谷の環境

 東横線都立大学駅から徒歩8分、学芸大学駅から13分。目黒通りと環七の交点が柿の木坂陸橋で、近代的な碑文谷警察がある。

 或る先生がタクシーに乗ったら「旦那、ちゃんと玄関に着けますから」と運転手が言って、いきなり警察署の構内に入ってポーチに横付けされたという。ニコニコしていて、しかも油断のないところ民主警察の刑事さんと間違えられたらしい。

 ところがこの警察署からトキワ松まで徒歩1分なのである。目黒駅や新宿方面からのバスもこの陸橋付近に停車するので、交通は至って便利。車の運転者には難所の一つとされる交通量なのに、交通係の方々がまことに熱心で、生徒の事故は1件も起きていない。また車の騒音もなく光化学スモッグに襲われたこともないという。
 目黒通りも環七もここが登りつめた頂上、つまり目黒一の高台の閑静な住宅地だからに違いない。



          なぜ〃トキワ〟松なの?

  創立当初は「常磐松」と書いていた校名を、府立第六高女(現都立三田高校)の初代校長で、戦後トキワ松の初代校長・丸山丈作先生が「常磐か常盤か迷うようでは困る」として〝トキワ〟と改めたのだという。
 片仮名と漢字を組合せた校名も珍しい。



          70年代から80年代に

トキワ松学園

理事長・校長 實方亀壽

 1973年(昭和48年)5月22日、私は請われてトキワ松学園の校長就任の辞令を受けるために、都立大学駅に下車して、学校へと歩いた。途中、多数の下校時の女子生徒と会った。
 この生徒たちがトキワ松学園の生徒なのかと、特別な関心を持って私は一人一人を見た。明るく、素直で、品のよい生徒、これが私の第一印象であった。

 私なりに、学園の伝統精神をしっかり把握して、全力を挙げて校長としてりっぱな学校経営をと夢みたが、就任1年半後、理事長を兼任するとは、夢想もしなかったことである。

 しかし、だんだん分かってきたことは、父母の方々の学園に対する愛情の深さである。さらに幸いにして本学園は、理事会といい、教職員といい、よき人々に恵まれている。これらのよき条件が、フル回転するのに欠けているヒューズの役割を果たすことが、私の理事長就任ということではないかと、愚考している。

 理事長の立場から70年代を考えると、それは「入るを図って出るを制する」財政再建の年代であったと言えそうである。その間にあって、4・3階に3教室の新設、地下1階に放送センターの設置、視聴覚教育設備の充実、短大用地の買いもどしなど、その発展の方向に一歩前進することができるようになったのは、うれしいことである。


 80年代は、これを受け、学園の将来をかけて、教育内容と条件整備に取り組むべき年代である。そして70年代に取り組んできた一つ一つが、ようやく実を結ぶ年代となるよう、新たな決意をもって対応していかなければならないと考えている。
 「21世紀に生きる人間教育は、20世紀に生きる者のなすべき使命である」を私は持論としている。過去を振り返ってみることの意味は、未来がいかにあるべきかを考えることにある。

 21世紀に生きる人間形成を考えるためにも、生徒理解を基本とした生活指導について、全校教師の協力、実践体制の強化に向かって努力してきた。
 最近、中学、高校生の生活行動が大きな社会問題となって両親、保護者を悩ましている時、本校は望ましい状態を保っているが、これは教職員の一致団結した協力によるもので、.校長として頭の下がる思いである。

 問題が発生するたびに、意志の統一指導体制の協力が新聞などで強調されているが、本学園においては先進的な指導体制をとり、更に進んで、学校と父母との連絡提携の緊密化をはかっている。本学園の歴史・伝統から見ても、家庭と学校が手を握り合って教育する建前を更に前進させたいものである。自ら進んで本学園を選ばれた父母、生徒、選ばれてこれを受け入れるわれわれの使命感、相応じてその相互の理解・発展を考える所に、私学があり、本学園があると私は考えている。


   美術科教師・室谷 早(むろたにはや)女史と實方現校長

  終戦時の危機を乗り越えることができたのは、当時の若い美術科教師.室谷 早(むろたに はや)教諭(後に理事長)の偉大な統率力と情熱とによるものであった。
 その結果、伝統は戦後期に引き継がれた。女史は学園〝中興の祖″として、中庭に胸像が建てられている。

 理事長・学長を兼任している實方亀壽現校長は、東京都教育庁に長く在職され、東京都教育界の生活指導の中心的人物であった。着任以来「一人一人の生徒を大切にする」本来の生活指導に学園教育の重点を置いているが、それはじつに、三角錫子初代校長以来の「手数を掛ける寺子屋式教育」の近代化にほかならない。

 伝統はつねにその時点の状況下で現実のものとして新しく花咲かせなければならない。65年守り続けた建学精神を偉大な伝統として、いわばその学校の個性として現代に花咲かせる、その点にこそ、私学トキワ松の真価がある。


      象のインディラと一通の手紙

 「象のインディラがやってきた!」それは終戦後としては明るい大ニュースだった。
 昭和24年のことである。トキワ松学園の中学生がインドのネール首相宛てに書いた手紙、それに答えた、日本の子たちへの心温まる贈りものであった。

贈呈式には、学園生徒ももちろん参列したが、その手紙を書いた生徒の一人・瀬川ヒサエさんは、現在母校トキワ松の国語科教師として活躍している。



手紙を書いた中学生、瀬川ヒサエさん(現国語科教師)が20年後、
来日のネール首相と握手、お礼の言葉を…


 その20年後、昭和44年にネール首相が来日された際も、瀬川教諭をはじめ校友会代表の生徒たちは、象のインディラと共にネール首相にお目にかかる光栄を得たし、一昨年も中学生たちがインディラとテレビ出演した。
 美しい国際交流にもー役買っている学園史の一コマである。



上野動物園象舎の前でテレビ出演する当学園中学生たち

          「山の家」とバザーの盛況

 トキワ松学園「山の家」は北軽井沢照月湖畔にあり、都会化した軽井沢と違って未だに自然のふところに抱かれている。生徒寮(10畳6室)や食堂など木造ながら近代的な施設であるが、職員室を含む管理棟は昔の茅葺き屋根の建物を補修したもので、現在では珍しい。
 これは昭和35年に落成し、以来毎年、多くの生徒の合宿などに使用される。とくに中学1年生全員の参加するオリエンテーションと自然観察、勉学グループ、中・高生の文化系クラブ合宿などに有効に使われている。



北軽井沢「山の家」の朝。朝もやの中からカッコウの声が……

 トキワ松名物のバザーは、来場者が一様に驚かれる。この「山の家」開設基金を得るために、当時の父母が自発的に始めたもので、以来今日まで毎年6月末頃に行なわれ、今年は第22回目のバザーを、小学校開設30周年記念として実施した。
 年にたった1日のこのバザーにかける父母の方々の情熱はたいへんなもので、その盛況は遠隔地の学校関係者も多数見学に見えるほどである。

 「山の家」の維持だけでなく、創立60周年を期して行なった、校舎の改修や塗装、他に例を見ない視聴覚設備の充実などはすべてこの盛大なバザー益金に学園経常費を加えて実現したもの。



全校者と校庭を使うトキワ松“名物”、大バザー。その盛況ぶりにご近所の方も駆けつける

しかしそのことよりも、こういう活動を通して、父母がトキワ松を愛し卒業生だけでなくその父母までが「母校トキワ松」のファンになっているところにこそ大きな意義があろう。
  現校長・賓方亀壽先生は、こういった父母と生徒と教師とが一体となった心のつながりを「トキワ松ファミリー」として賞賛している。

トキワ松のPTAは「学園会」と呼ばれ、生徒が一つの教育理念で導かれているのと同様、これも小・中・高一体で一つのPTAを作っている。そのうえ、卒業生やその父母もこれに加わって、本物のファミリーになっている。


  父母と卒業生たち――あの人・この人


       スポーツ禁止の病弱な私が…

           
前田悦智子
(元バレーボール選手)



世界一のジャンプ力とうたわれた前田選手のアタック
昭和45年、東京三洋電機㈱入社、49年アジア大会金メダル。同年メキシコ世界選手権大会金メダル。51年モントリオールオリンピック金メダル。52年ワールドカップ金メダル、キャプテン就任

  私のバレーボール生活10年は、本当に悔いのない生活でした。その頂点は世界のビックタイトルをレギュラーとして出場、3冠王を勝ち取ることができたのですから。

 トキワ松の高校に通っている頃はまだ9人制のバレーボールで、「少しでも多くの人がボールにさわるように」という学校の方針でした。当時、身体の弱い私でした。病院ではスポーツを禁じられ、普通の事務的な仕事すら無理だといわれたほどです。
 しかし私は周囲の反対を押し切って自分の意志でバレーボールをやる決心をしたのでした。ですから、三洋電機に入社した時は、アタック2、3本打つと、倒れるほど……。高校と三洋の練習では、まったく比べものにならないハードさ。立っているのが精一杯だったのです。

 「なぜ同じ
人間なのに私には出来ないのか」と思うと、惨めで毎日泣いてばかりいました。そんな時、トキワ松時代のコーチや先輩方の言葉をふっと思い出したのです。
 「ボール拾いだって、一生懸命やればトレーニングになる」と。私がバレーボールを選んだ時も先生は、本当に親身になって身体のことなどを、一緒に考えてくださったのです。

 いま思えば、私が社会人チームのキャプテンまで務められたということは、やはりトキワ松時代から学んだもの、人に対する心づかいの積み重ねだと思っています。そしてバレーボールから得たものは”成せば成る″ということです。

 バレーボールをやめた私はいま、渋谷で健康体操と美容を兼ねた新しい仕事に挑戦しています。最近『ダイコン足よ さようなら』というタイトルで本も出しました。これからもすべてに目を向けて挑戦してゆきたいと思います。


              ファミリアなトキワ松学園

    
           YM・Oメンバー 高橋幸宏



音楽グループ、 Y・M・O(イエロー・マジック・オーケストラ)のメンバー、右端が筆者
トキワ松小学校卒業。立教中学、立教高校・立教大学から武蔵美大デザイン科へ転学。音楽グループ・YMO(イエローマジックオーケストラ)を結成し、コンピュータを使うなど、新しい音楽領域を拡大した

兄弟5人のうち4人がトキワ松学園のお世話になり、僕はその一番最後の第9回卒業生であったわけです。小学校のみ共学、しかも6年間1クラス、ずっと同じクラスメイトという特別な状況もあり、本当に皆、家族兄弟のように仲良くやったものでした。

  トキワ松学園時代の思い出は、いわゆる遠足や林間学校、運動会にバザー、新年の餅つきといった、幼い頃だれもが経験しているようなことから春夏秋冬の学校の日常の風景、そして中学受験がさしせまってからの男子生徒のみの特別講習のような、当時はつらかったはずのことまで、とても楽しかった。随分昔のことであるのにハッキリと覚えているのです。

 小学生の頃から、兄弟などの影響で音楽、ファッションなどにはかなりませていたようです。受験をひかえていたわりには、自由にのんびりとやっていた記憶があり、思えばその頃にはもう今の自分の一部分がほぼ形成されていた感があります。要するに僕は、そのまま音楽とファッションを仕事とするようになったわけで、今となっては人が趣味とするような二つを職業としました。ミュージシャンとしては日本と外国を往ったり来たりや、毎日スタジオでレコーディング、その合間にデザインの仕事をやり、毎日神経過敏になってクタクタになっている自分が恨めしく思えることもあるのです。

 今でも同窓会の通知などを受け取ると、たまらなく懐かしく、なんとか時間をつくってクラスメイト、当時の先生方の顔を見たく思うのですが、なかなか難しいようです。

  トキワ松学園はとてもファミリアな学校です。兄弟、姉妹揃ってという人たちがとても多い。
 結婚して5年になる我が奥サンは同級生であった友人の姉であり、彼女もまた、トキワ松学園の卒業生であるのです……。



Y・M・Oのリーダー、高橋幸宏さん

          母校を去って  

            平部やよい
 (音楽家)



桐朋学園大学音楽部作曲科卒業。第12回エレクトーンインターナショナルコンクール大会でグランプリ受賞。昭和55年冬期オリンピック・フィギュアスケート日本代表・渡部絵美のために『クリスタル・ファンタジー』を作曲演奏。56年には東宝映画『漂流』の音楽を担当。ほかに自作曲を数多くのオーケストラと共演

トキワ松在学中いちばん印象に残っているのは、合唱コンクールです。毎年クラス対抗のこの行事になると、勉強も二の次になるくらい燃えたものです。とくに私たちのクラスは、2、3年で2連勝を狙い、3年の時には一丸となってがんばりました。お蔭で2連勝も達成でき、いまでは嬉しい思い出となっています。
 去年はまた、母校トキワ松で中3・高1・高2の教育実習をさせていただきました。この時、改めて「教える」ということの難しさが幾分わかったような気がします。母校を去って初めて知りました。
 「生徒それぞれの個性を尊重し、人間の和を大切にするトキワ松」、この学校に通って本当によかったなあ……」


    学校との邂逅もまた、人生の結節の宿縁

           井手宣通(芸術院会員・日展常務理事)



熊本城をスケッチする井手画伯


 私が東横線都立大学にアトリエを建てたのは昭和11年でした。まだ辺りは雑木林が多く郊外らしい、のどかな風景が続いていました。駅には下駄箱が備えつけてあり、雨の日など長靴にはきかえて舗装されてないぬかるみの道を歩いたものでした。
 東横沿線に住んで40余年、トキワ松学園に縁があって娘がお世話になり、学校との邂逅もまた人生の結節の縁、意味深いものがあると思います。西と東に学園荒廃の生々しい今日にあって、きめ細かな先生方のご指導に安心してお任せできる幸せを感謝しています。

 入学して4年、娘も高校1年生になりました。きびしく優しい良き先生方に恵まれ、学友との縁を大切に、かけがえのない青春時代の多感な学生生活を精一杯がんばって欲しいと願っています。


              我が息子     

        野村克也(プロ野球選手。同監督。野球評論家


 「勉強しなさい」と女房がいう。「そんなこと言うんなら、ボク、学校やめる」と我が息子。
 負けずに女房も言い返す。「よしわかった。それなら学校へ行って先生に、やめますって、言ってきなさい」

 普通なら、母と子のやりとりはここまでで、「いいよ、ボク勉強するよ」ぐらいの話になるのでしょうが、我が家の場合は、このあと第2幕に移るのです。
 「言ってきたよ」
 「それで。先生は、やめていいっておっしゃったの?」
 「ううん。先生がキミには、この学校が合っているのよ……っ、だってさ。だから、やめないよーだ……って言って帰ってきた」

 我が息子は、トキワ松学園の小学2年生。『窓際のトットちゃん』ふうに言えば「窓際からもはみだした腕白坊主」です。成績はと言えば、体育がAのほかBが2科目で、あとはオールC。世にいう落ちこぼれでしょうか。

 南海のテスト生からスタートして27年間というもの、野球に明け暮れる毎日で、父親らしいことはほとんどしてやれなかった。それが、まずかったのかな…などと反省しているしだいです。
 武田教頭先生にそうもらすと、おこられました。
 「落ちこぼれとはなんですか。ウチの学校は、そんな教育をしてはいません。カチくん(息子の名前は克則)には夢があります。お父さんのような立派な野球選手になるんだという。目標を持っている子に落ちこぼれなんてあり得ません」

 以来、妙に安心して、学校に甘えさせてもらっている。前学期の成績表で数学が「B」に上がった。「先生にほめられたよ。今度は、絶対にAをとるからね」。
 最近耳にした中で一番うれしかったことばです。成績があがったことより、息子の興味の対象をふやしてもらったことがうれしいのです。



     掲載記事:平成10年10月25日発行本誌No.71 号名「梔(くちなし)
 
 トキワ松学園中学・高校
 


正面入り口


 都立大学駅から目黒通り沿いにのぼった閑静な高台にある学園。

  校門をくぐると、生徒たちが外部の私に元気いっぱいの挨拶。
 これぞ女子校の、八十数年の歴史と伝統の上に培ったエチケット教育とみた。


  学校今昔話

 大正5年(1916年)、東京・渋谷常盤松一番地に「常盤松女学校」として創立。初代校長は、あの「♪真白き富士の嶺」の歌の作者、三角錫子。昭和20年の空襲で校舎、資料などすべてを焼失。
 昭和
23年現
在地に木造校舎を落成し移転。同26年に学校法人トキワ松学園となる。

 School  Profile

生徒数  1077名(中・高の合計) 
     今迄の総卒業生数約1万
3000名(現同窓会員数)

創立…大正5年7月3日

教育方針

1.鋼鉄(はがね)のような強い意志と知性を持ち、すみれの花のような気品と優しい心の全人教育

2.個性・能力を伸ばす自主創造、自立の健全な女性の育成

3.中高一貫教育で生徒の夢、多彩な能力を育て実現させます

年間学費 
(初年度)約
88万円(入学金/施設費/授業料/諸費用)

卒業生の主な進路… 約75%か短大・大学へ進学

   学校自慢
1.
特定の出資者がいない珍しい私学。みんなで経営、みんなで学園づくりに意欲的に取り組むトキワ松です。

2.阪神大震災以上の大地震でもビクともしない耐震構造の新校舎が来年(平成11年)7月完成すること。

 ウチの学校のここが            すごい!
その1.
 イジメガないことがまず一番。それは先生や先輩との距離がなく何でも話せるし、同級生同士でも気楽に話しかけ合うムードがあるから。

その2.

 図書室をみんなが「図書館」と呼ぶほどすべての面で充実。図書司書教諭という先生が2人もいて好きな本を読んでの授業があったり、自習机では全神経を集中できるし、ビデオも1000本もあり、雑誌はソファーにくつろいで、と。


図書館並みの図書室

その3.
  
ゲームを楽しむ中で自分を発見し他者との繋がリをきづく「ブロジェク卜・アドベンチャー」という体育の時間は非常に楽しく、協調性、信頼度の確認、自信・積極性などを養うタメになる授業。この授業、日本で最初に導入したのがうちの学校です。

その4
 小学1年から英語の授業があること。3名の外国人の先生による英語の授業は世界や日本のニュースを取り上げるので、みんな世界に眼を向けるようになった。

有名な先輩

森 瑶子(作家)
大石芳野(フォトジャーナリスト)

能村堆子(ウニの研究。理学博士。お茶の水女子大名誉教授)
西沢 佑(手話ダンス考案者)

前田美智子(五輪バレーボール選手。金メダリスト)
高部尚子(バレリーナ
平部やよい(音楽家)
宮田蝶子(マンドリン奏者
山本聖子(元レスリング選手・世界選手権王者)
香音有希(元宝塚歌劇団雪組の男役)
南雲(辻垣内)聖子(工芸美術家

         制服



スマートに見えるモスグリーンのハイソックス、シックで気に入っているスカートなど制服は別に文句なしです。

  名物先生


◆九州男児で「筑前守和之」を名乗る日本史の先生。フレンドリーな口調で熱血指導、感動して泣き出す生徒も。
 
90点以上を取ると賞状
授与、終了式後にクラス全生徒に徹夜で作った手づくり品をプレゼントする。

◆保健体育のSK先生。いつも太鼓を持ちリズムが狂うと「ドン、ドン、ドン」とチヨー怖い!


連絡先:〒152-0003 東京都目黒区碑文谷4−17−16
                  TEL.03-3713-8161

 ◆取材協力の生徒
   大浜麻里(高3) 榎本まき(高3) 石田香織(高3)
   東條麻衣(中3) 中野伊都子(中3)

 ◆編集室取材スタッフ
   品田みほ(三ッ沢下町) 高津利恵(中山)
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