編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
NO.431 2015.01.09  掲載

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 日本大学高等・中学校の巻
 


  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和56年9月1日発行本誌No.7 号名「萩」

     

   
日本大学高等学校

     日本大学中学校


          ~~~~日吉~~~



  全国に数字や地名のついた日大付属校は多いが、この学校は最古の歴史を誇る正付属校。
 校名がそれを示す「日大高校」「日大中学」なのだ。

 日吉駅東口を出て綱島街道を10数分、そこが伝統と秩序、若さと気力みなぎるキャンパスだ。



わが母校、日本大学高校・中学校
中学761名、高校1490名の在校生。総卒業生は5万415名


     85年の歩み

◆昭和5年 日本大学第四中学校、日本大学第四商業学校、商業学校第二本科(夜間部)として、横浜市神奈川区大口通り127番地(現、国鉄横浜線大口駅の地)に創立した。


神奈川区大口通にあった「日大四中・四商」時代の校舎全景。戦災で全焼、今は思い出の中に

◆昭和8年 第1回卒業式挙行、このとき、卒業生は中学校21名、商業学校20名、第二本科25名、合計66名であった。

◆昭和19年 商業学校は当局の指示に従い、日本大学第四工業学校と校名を改称、工業教育に転換した。

◆昭和20年5月29日の横浜大空襲のとき、金庫2個を残し、他はことごとく灰じんに帰したが、終戦の翌月、鶴見区の生麦国民学校(現、生麦小学校)の校舎を半分借用して、授業再開。工業学校第二本科は鶴見神社の社務所を借用し、授業を継続した。

◆昭和22年 現在の校地、横浜市港北区箕輪町に移転した。


昭和22年、日吉に移転。当時の正門付近
◆昭和23年 新学制により、日本大学高等学校(全日制・定時制・普通科・商業科)、日本大学中学校が発足した。

◆昭和38年 創立30年記念事業として総合運動場が完成した。


昭和30年代、一面の田んぼの中に校舎の増築が進み、校庭に沿って東京オリンピック開催に呼応し新幹線の線路も西へ西へと延伸、田園の中にその威容を誇った
◆昭和47年 創立40年記念事業として、屋内温水公認プール(25m8コース)が完成した。

◆昭和55年 創立50周年記念式典が挙行された。創立以来の卒業生総数は、旧制4,098名、
新制20,439名、合計24,537名である。

◆平成2年 高等学校商業科が男女共学化 

◆平成11年 中学校が男女共学化

◆平成14年 高等学校普通科に女子生徒を受け入れ男女共学となる



  自主創造の気風を

  


学校長 中山 吉正


 本校は、昭和5年に日本大学の付属校として、開校以来半世紀の歴史を刻み、昨年10月4日には創立50周年記念式典を挙行し、初代校長山岡万之助先生をはじめとする多くの先人の遺徳を顕彰するとともに、ゆるぎない50年の伝統を礎に今後の一層の飛躍を期して、今、新たな歩みを続けています。

 学祖・山田顕義先生の崇高な理念による日本大学の建学の精神は、日本精神に基づき、自主創造の気風を説き、国家社会に寄与する多くの人材を生み、激動する現代社会に脈々と生き続けています。

 私はそのような日本大学の教育を受けるにふさわしい人材を育成する教育の場が付属校であると考えています。

 本校は「情熱と真心」を校調とし、さらに「自覚と責任」を教育目標において、生徒に社会の要請にこたえ得る「自覚」を持たせ、学業にいそしみ、体力を養い、徳性をみがく「責任」を課し、右に偏せず左に走らず中道を歩むということとを教育の基本方針にしています。

 私はこの基本方針に従い、自主創造の気風を身につけ、いつも情熱を燃やして勉学に励み、それに耐え得る体力を備え、人とのふれあいに常に誠意を示すことができる人物を育成することを目標としています。

      日本大学付属高校、3種の校名…

 
「日本大学高等学校・日本大学中学校」(通称・日本大学横浜学園)が正式な名称である。日本大学の付属高校の中で、歴史の最も古いのが本校で、校名がそれを示している。だから、日大日吉高校とか日大横浜高校と呼ぶのは正しくない。

 日本大学の付属高校は大別して三種に分けられる。

  一つは「日本大学」と「高等学校」の文字の間に地名が入るもので、櫻丘、鶴ヶ丘、藤沢、豊山、豊山女子、三島、明誠、山形、習志野、東北の10校、これらは本校も含め、「正付属校」と呼ばれる。

  次は校名に数字のある3校で、「特別付属校」と呼ぶ。
 日本大学第一、日本大学第二、日本大学第三がそれである。

  最後は「日本大学」の文字の上に地名のあるもので、土浦、宮崎、北海道などの9校。これらを「準付属校」と呼んでいる。

 なお、付属中学校を併設しているのは本校と豊山高校の2校であり、他に単独で「幼稚園」が一つある。
  各界で活躍する同窓生   
 あの日あの頃

        母校今昔                                  
                         
浅生田 光司(画家)

                            独立展、兜屋画廊新作家展、ケニヤ画廊企画展等に出品後、
                   スイス、オーストリアに滞在、帰国後、紀ノ国屋画廊展、
                   アメリカマッキンレー展、カナディアンロッキ一展等に
                   作品を発表


  私が日大高校(当時の日大四中)を卒業したのは、太平洋戦争で日本軍が、まだ有利に戦っている時だった。その頃は、神奈川区大口通の、商店街のはずれに校舎があった。今の国鉄横浜線大口駅前の広場のあたりで、U字形に左手が中学、右手が商業に分かれていた。
 いつ頃からか、毎朝、配属将校が校庭の中央にいて、通学してくる生徒を横一列に並ばせ、敬礼ののち、カバンを小脇に昇降口に向かって早駆けしたことなど、昨日のように思い出す。

  軍事教練の野外訓練は、よく大倉山の梅林で行なった。その当時は、やっと梅の木が植林されたばかりで、広々とした丘だった。

 先日そのあたりを通ったが、昔日の面影を止どめるのは、火葬場の煙突だけだった。妙蓮寺駅から、山越えで通学する同級生が多くいた。

 いま日吉に母校が移ったのも、前述のように、さまざまな行事が東横沿線に集中していたので、当然のように思われる。
 まだ、日吉の母校に一度も足を運んだことはないが、日吉駅で見る後輩の制服姿を見るにつけ、戦争中の、粗悪な服で軍事教練の合間に勉強という状態にならねばと、ただ念じている。






                   


カナダのロッキーの山中でキャンパスに向かう筆者   


          懐かしい学園生活
                        
池田 錦重(かねしげ)

 新東建設工業株取締役。
 昭和53年4月28日に北極圏踏破の偉業を遂げた日本大学北極点遠征隊の隊長を務めた


 夏になると新聞をみながら今年のうちは、どこまでゆくかと考えるのは私だけではあるまい。高校野球の話である。毎年シード校に指名されながら決勝に残れない。当時もたびたび準決勝まではいくが、そこから先に進めない。まことに残念である。夏になるとこの今が終わるまで気になる毎日が続く。

 現在の生徒は立派な設備の整った校舎で学園生活を送っているようだが、私たちの頃は、田圃の中にポツンとある小さな木造の校舎で、当然施設も悪い。グラウンドは雨が降ると排水がきかず、野球部やラグビー部の連中は水かきをしながら泥だらけになり練習をしていた。授業中、彼らはボールのほころびを麻糸で縫ったり、居眠りをしていた。まぁ、私たちも同じようなもので、のんびりした楽しい時代であった。
 当時の私の毎日は、桜木町から東横線で木製のガタガタ電車に乗り、菊名まで行く。沿線の風景は一変、田園風景がひろがる。綱島と日吉の田圃の中の米軍のキャンプを背に建つ学校へ毎朝砂利道をかけおりるように登校した。学園内の生活は、勉強をしたという記憶よりも、先生に怒られたり、殴られた記憶のほうが多い。帰路がまた楽しみの一つ。田圃の畦道をエビや小魚を追いかけながら綱島まで歩いたものだった。

 高校に移ると同級生に登山の好きなのがいて、山岳部に入った。それから先輩に連れられ週末になると丹沢山塊に出かけ山や沢登りに夢中になった。これがすぎて、後年私自身、山の世界から足が洗えない人間になってしまった。私にとってこのクラブ活動を通して、本当に今日でもつき合える同僚や、先輩、後輩を得たことは幸せである。今日でも学校に用事があると、心の中にあのオンボロ校舎と田園風景がなつかしく浮んでくる。


       「見てろ、オレだって」のあの頃
                          
坂本 九(歌手)


 唇が赤く腫れ、ヒリヒリしてます。ブラスバンド部に入部して、やっとトランペットを持たせて貰ったときのことです。

 練習後の下校時、日吉駅に向かい、あの坂道を登って行くと暗くなりかけた坂の上から、後光のような光が射したかと思うと大きな自動車が現れ、横を走り抜ける。また、しばらくすると光がだんだんと大きくなり、一杯になって弾けると、自動車が現れる。私は当時あの光の美しさと、力強さに、練習の疲れを忘れ、「見てろ、俺だっていつかは、あんなスポットライトを、身体一杯に浴びてみせる」と胸を膨らませたものです。

 新幹線ひかり21号に乗るには、朝4時半起きです。車内でコーヒーを飲みかけると、多摩川を渡ります。
 突然、目に飛び込むように現れるわが母校、人影は見えないが、何か、自分の姿をみるような気がする。「諸君、情熱と真心だよ」といまは亡き斎藤寛校長のあのダミ声が聞こえて
ます。私は慌てて、背筋を伸ばし、コーヒーをいただきます。

 やっぱり母校の校長や先生というのは、懐かしく、優しく、そして何より恐くなくっちゃッ!

 日本歌手協会理事。「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」「幸せなら手を叩こう」等、多数のヒット曲がある。











          野球部で学んだもの
                            
飯田久彦(歌手)


 




     ピンクレディを指導する筆者

 昭和45年まで歌手として活躍、「ルイジアナママ」「悲しき街角」等がヒットした。
 その後、ビクター音楽産業㈱に転じ、プロデューサー、ディレクターとして、歌手の育成に当たり、岩崎宏美、ピンクレディ、松崎しげる、石野真子、桜田淳子、太川陽介、アンルイスなどを世に出した。現在、制作次長を務める。

 毎年各地の夏の高校野球の予選が始まると、必ずといっていいほど我が母校を思い出します。野球に明けくれた3年間、青春時代の真っただ中の3年間、わずか3年の間に私は日本大学高等学校でいろいろなことを学びました。

 あの頃はただ単に甲子園をめざすためだけの野球にしか思えなかった。だが、社会人になってみると甲子園をめざすのも目的の一つではあるが、野球はそれより人生においての精神教育の場だったと気づいた。私にとっては誰にも負けない強い精神力とよりよい人間修業の勉強をさせてくれたことに対して常に感謝をしています。

 懐古趣味ではありませんが、野球部の同窓生と会うと昔は良かったなあ……とよく口にします。授業が終わってから野球の練習に通った日吉から菊名間、あの頃は見渡すかぎり畑ばかりでした。ランニングをした田んぼの畦道。校舎の横のドブ川で友達に煽(おだ)てられて泳いで先生に怒られたこと。その怒られた担任の平川先生、今はもうオジン(失礼)で、ずいぶん優しくなったのだろうなあ……。
 人生半ばで一番思い出深いのは高校時代でした。日本大学高等学校を卒業したことに誇りをもっている一人です。


          ホンネで生きて、いい仕事を
                        
黒沢年男
(俳優・歌手)

 母校を離れて、20年近くになります。が、つい23年前まで「いけねえ、学校に遅れる」そんな夢をよく見たものです。私の人生において日大高校の時代が一番重要な位置をしめています。
 私たちの通っていた頃はユニークな生徒が多い学校でした。たあいもないことで、イキがって、悪ぶってはいても、みんな人のいい生徒ばかりでした。私の場合は中学から高校まで、野球部に在籍し、野球一筋の時代でしたから一般の生徒とはちょっと違う感じがします。
 わが母校には6年近く通ったことになります。6年近くというのは卒業する6カ月位前から学校に行ってないのです。


映画俳優、歌手。現在、テレビ朝日「ザ・ハングマン」に主演
 したがって未だに一つの区切りがないものですから、卒業したという気分が全然ないのです。今もって学校に私の卒業証書が置いてあるとのことです。
 本当に思い出の多い素晴らしい学校でした。諸先生にもよく殴られ、野球部の先生にはバットで殴られたことやソロバンで坊主頭を思い切り擦(こす)られたこと。なかでも一番の思い出は、未だに後遺症のある左の耳を殴られたこと……。しかしそれらをこれっぽっちも恨んでおりません。かえって感謝しています。

 社会に出てからいろいろなことがありました。それはもう書き切れないほどの経験、体験……。特に私の場合、ホンネでしか生きられない人間です。タテマエ社会でよく生きられるものだと自分自身でそう思います。しかし、この純粋な生き方も昨今では少しずつ変わってきて、ずるい大人社会の仲間に入ることも必要に思えてきた自分がとっても嫌いです。
  現在は私を愛してくれる家族と友人と支持してくれる人々のためにも、楽しい、いい仕事をして、ここまでに育ててくれた社会のためにも少しずつ恩を返してゆこうと思っています。そして高2の時この世を去った母のためにも……。 これからが私の男として芸人として本当の第二の人生が始まるのだと思っているから。


          遠かった校門

                          
市川 稔(会社経営)


 海老名市(当時は海老名町)の有馬中学校から日大高校に進学したのは、私が初めてであった。担任の中学の先生も無理ではないかと心配してくれた。学力ではなく、通学距離がである。

 さて、入学試験日。父と車で行ったが、試験開始のころから2月の大雪が降ってきた。帰宅途中の坂道でみな車がストップしている。父の車もどうしても動かない。仕方なくその場で夜を明かすことに。今度はガソリン切れである。車の中はシンシンと冷えてくる。さて、どうしようか……。父と私は思案にくれた。
 ちょうどその時、近くに中学校の校長先生の自宅があることを思いついた。雪の中を歩き、ワケを話し、その晩は校長先生宅にお世話になった。初めて日大高校の門をくぐったその日から、大変な経験をしたことが昨日のことのようである。

 いよいよ通学。朝6時過ぎ自宅から歩いて15分、相模線の門沢橋駅から電車に乗り、厚木で小田急線乗り換え、海老名駅で相鉄線、横浜駅で東横線に乗り換え、やっと日吉駅にたどり着くといった具合である。スムースに行って2時間、帰りは3時間かかる。
こんな長時間かけて教室に入るのだから、よほど勉強にも身が入ると思うだろう。



昭和43年卒、28歳。㈱いちかわ(米穀卸・スーパー経営、杜貝90人)常務取締役。
同社は従来の米穀商法である守りから攻めに転じ、急成長を遂げる。〝売上62億のお米屋さん〃としてマスコミ話題の企業。柔軟な発想と行動力でそのけん引車。本年9月、海老名青年会議所を創立。初代理事長に就任


 ところが、随分悪いことばかりやっていた。1年生の夏、先生に叱られ、油がべっとりついている職員室の床に正座させられ、あげくのはてに坊主頭にして来いとせっかく伸びたばかりの髪を帰宅途中の床屋で五分刈りに。思わず涙がポロリと落ちた。

 いろんなことがあったが、その後、日大芸術学部に3年間通ったのち、父の経営する米屋に就職。当時は社貝も10人ほど。それまで親に心配のかけどうしだったので、仕事の面で少しは恩返しを、とがんばって8年。
 28歳のいま、妻と子ども4人の6人家族。人間に与えられた時間、一日24時間のうち、毎日16時間を仕事と青年会議所運動に、そして勉強に、とがんばるこの頃である。

 掲載記事:平成10年5月30日発行本誌No.70 号名「椴(とどまつ)
 School Profile

●生徒数  
 中学…761名  高校…1490名 総卒業生数5415

●沿革

 昭和5年、横浜市神奈川区大口通127番地に創立。昭和20年の横浜大空襲で金庫2個だけを残し全焼、同22年現在地に移転。平成2 年から高等学校商業科が共学化。

●教育方針
 日本大学の建学の精神に基づき、「情熱と真心」を校訓に、「自覚と責任」のある生徒の育成を目標としている。

●年間学費

 約50万円ほか副教材費

●卒業生の進路
 日本大学へ66%、他大学へ19%が進学(平成9年度実績)

    学校自慢

.2000年に創立70周年を迎えた伝統ある学校であること。

.平成11年から中学校が共学化、3年後には高校の普通科も共学化。これは6カ年一貫教育の更なる充実を目指したものである。

.部活・生徒会活動も活発で、全国大会出場のクラブも多数ある。

.中3は修学旅行の一環で、3週間のうら2週間のホームスティしながら英語学校に通うニュージーランド海外旅行(希望者)がある。海外旅行に備え、6クラスに6人の外国人の先生が英会話を教える「英語特別講座」があり、現地で役立っている。



ホームスティ先の家族とお別れパーティー
ウチの学校のここが
       すごい!
その1
 9月、秋分の日前後に行う学園祭「桜苑祭」は、一日1000人~2000人の人出・社会福祉委員会のバザー(売上を寄付)や女装の「ミス日大コンテスト」などに黒山の人だ。

その2
 とにかく休みが多いこと。3回の試験休みは計1力月、夏休み2カ月など年間98日。その間の宿題の多さもハンパじゃない。

その3
 行事がめいっぱいある。マラソン大会、英語暗唱大会、力ルタ大会、スキー学校、林間学校、映画・演劇・音楽・古典芸能などの鑑賞教室。

その4
 ヨット、水泳、剣道、バドミントン、射撃、ゴルフなど全国優勝の実績のある部活が多いのだ。

その5
 8コース25メートルの公認屋内温水プールもある。

その6
  中3、全員参加の農村体験は都会では体験できない貴重なものだ。数人ずつ農家に分宿し、朝6時起床で草取り、イモ掘りなど農家の手伝い。夜はソバがきを初めて食べたり、お年寄りから昔の話を聞いたり……。


トラクターの運転を習う中3の農村実習
名物先生 ◇成田 寛先生
 倫理・社会科の授業はいつも爆笑の渦。おなかの底から張り上げる声は、隣の教室はおろか、階下の教室にも轟くのだ。

◇西川大輔先生
 オリンピックの体操でソウル大会、バルセロナ大会とも活躍、2個の銅メダルを持つ往年の名選手なのに、真面目で謙虚な保健体育の先生。

    制服


制帽は平成9年から廃止。ガクランは今しか着れない貴重なものだ



有名な先輩 坂本 九(歌手 昭和60年航空機事故死)   

神田 正輝(俳優)

引田 天功(初代引田天功 奇術師)

篠竹 幹夫(アメフト監督) 

金子 柱憲(プロゴルファー)

  学食と生徒御用達の店

 ◆学食おすすめメニュー

 麺類、ラーメン、スパゲテイ、丼物、日替わりランチなど。人気は大盛りカツカレー、大盛りラーメン

 ◆生徒御用達の店

  学校の前の店、「唐戸」でカップラーメンや弁当などをよく買う。
連絡先:日本大学高等学校・中学校

 〒223-0051 横浜市港北区箕輪町2−9−1
            電話
045-560-2600
 ホームページ
 http//www.cin.nihonu.au.jp/oegn:/yokohama/index-sj.html  
 ◆前半の誌面編集
 写真       高野 史朗

 カット・地図   高坂 睦
 取材・レイアウト 樋口政利
 編集協力     渋谷 威雄
 古い写真は本校「50年誌」から

 後半誌面取材協力
  山岡 剛・宮本雄太・小林義武・阿部高大(中3/ 山田恵二・熊谷彬・石川裕-・妻田一博(高1

 後半誌面編集・・・「とうよこ沿線」編集室
  
品田みほ高津利恵
 
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