編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
NO.430 2015.01.08  掲載

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  慶応義塾大学の巻



  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和55年9月30日発行本誌No.2 号名「秋」
   
   

 
慶応義塾大学

    〜〜日吉キャンパス〜〜


 東横沿線には数多くの学校がある。中には現在地に存在しないが「学芸大学」とか「都立大学」など駅名にまでなっている学校もある。しかし東横沿線の学校といえば、すぐに日吉の慶応義塾が浮かぶ。

 いちばん初めに沿線にできた学校であり、またキャンパスも最大、従って学生、生徒数も最多。

 ご承知のとおり、「慶応義塾」は幼稚舎から普通部、中等部、日吉高校、志木高校、女子校、そして大学は日吉大学、三田大学、四谷の医学などの総称である。
 このうち日吉にあるのは普通部、慶応高校、大学の日吉キャンパスの教養課程(2年)と理工学部の矢上キャンパスである。



イチョウ並木もあの激動の時代を乗り越えて春は新緑、秋は紅葉、いつも現役の諸君を温かく迎える
 慶応義塾 今昔物語   
 激動をくぐり抜けた日吉キャンパス

                                   
                    
石川 輝(ボクシング評論家・昭和4年卒)


 

 日吉に慶応が開校したのは昭和9年11月である。今から46年も昔のことだから、その変わりようは非常なものである。
 その間、日支事変から大東亜戦(太平洋戦争)という、日本の大激動期を経ている。
 事実、この日吉キャンパスくらい戦争の痛手を大きく受けた例は、他校にはないのではなかろうか。

 第一にここが、大日本帝国連合艦隊司令部になったことである。昭和19年9月、連合艦隊司令長官豊田副武大将は、この日吉台の慶大校舎に司令部を移した。原子爆弾でも壊れない地下壕を造ってその中で指揮をとった。
 といってもその頃は、すでに軍艦はほとんど米国に撃沈されて連合艦隊などといえるものではなかったが、いずれにしても海で戦争する海軍の首脳が、陸に上がってしまったのだから、情けないのを通り越して、これはナンセンスというべきであろう。

 第二は、終戦後間もなく、ここが進駐軍に接収されてしまったことである。校舎のほとんどは爆撃で焼失していたが、進駐軍は焼け残った校舎やずらりと建てられたカマボコ兵舎で生活していた。

 この接収が解除されたのは昭和2410月で、その間学生は、焼け残りの三田校舎やその付近で授業を受け、その苦労は大変だった。

 さて、筆者は昭和4年の卒業、もちろん日吉では学んでいないが、在学中に予科を三田から東京の郊外へ移す計画があることは噂で知っていた。
  その頃の大学は予科3年、本科3年の6年制であったが塾生の数は三田山上に溢れて

身動きもできない状況だったから、早晩予科を他に移さねばならなかったのだ。

 ところで塾当局(当時の塾長・林毅陸先生)がどうして予科を日吉に移すことに決めたのか。その最大の理由はやはり電鉄会社が土地を無償提供したからであろう。
 キャンパスの総面積は約43万平方b(約13万坪)で日比谷公園が16万平方bだからその2.7倍の広さ。
 今の東横線が渋谷から横浜まで全線開通したのが昭和2年8月。企業である私鉄が利用する乗客を人為的にふやす方法として、沿線住宅地の開発、遊園地の開設などのほか、学校、工場等の誘致を図ることは経営の常識である。
 なかでも学校を誘致するために敷地を無料で寄付してもそれは先行投資。
 いずれは乗車料金で回収できるもの、さらにその後は莫大な収益となる。

 さて、塾史によると、東京目蒲電鉄から全敷地の約半分の寄付を日吉台に受けたとなっている。当時は目蒲電鉄で東京急行になる前である。そして、約半分の矢上台は東京蒲田の武蔵新田にあった慶応の野球場を売って、その金で買ったものである。
 それは昭和15年のことで、将来を見通してこの決断をくだしたのは小泉信三塾長であった。当時、その地価は坪(3.3平方b)当たり5円で総額は65万円だった。今から考えれば想像もつかない値段である。

 ■慶応大学学部別学生数
   昭和55年8月1日現

20145月現在 
 慶応大学の学生数:33,681
    三田校舎 11,369
    日吉校舎 11,425
    矢上校舎  3,894
 日吉+矢上の学生数
         15,319人

        (慶大生の45.5%)









  慶応OBの思い出



「今では抱えきれないほどに…」とイチョウの木を抱える石川輝先輩。右は筆者・鎌田さん








    あれから37  

 鎌田清夫
(会社役員・大田区田園調布本町・54歳)



 私が日吉で学んだのはせいぜい1年半ぐらいだった。なにしろ、戦争の末期である。表面は「勝った、勝った」で景気はよかったが、昭和17年6月にはミッドウェー海戦で日本は大敗し、すでに敗戦は決定的だったのである。

 その頃、日吉駅西口には商店も十数軒はあった。喫茶店も2,3開店していた。中央通りの右側に3等郵便局があって、その局長さんはなんでも東京の蒲田駅付近の大地主で、菊作りの名人ということを不思議に記憶している。

 翌18年には戦局はいよいよ不利となり、10月には学徒出陣でクラスの半数は出征した。私は出陣には洩れたが、労徒勤労動員で江東区の軍需工場へ通った。
 このように暗い時代を送ったので、楽しい日吉の学生生活の思い出はない。
 終戦になって三田へ通うようになったが、その頃の何よりの思い出は、別れた級友と再会して生きていた喜びで手を握りあったことだ。

 つい最近、ボクシング部の石川輝先輩と日吉キャンパスを歩いた。私が、学生だったころは、せいぜい直径15センチぐらいだったイチョウの幹が、両手で抱えきれないほどに成長しているのには驚いた。何しろ37年の時が流れているのだから当然のことではあるが……。


 高さ2bのイチョウ並木    

             
大沢太郎(会社役員・目黒区東が丘・61歳)


  私が予科1年に入学して通い始めた頃の電車は2両編成。女の車掌さんが一人乗っていた。日吉駅のホームは1本、今のように階段を上がって改札を出て左へ。その頃から木造の陸橋があったが、下の綱島街道は今の約半分の幅だった。
 その当時は経済・法学・文学部の3学部の予科だけで学生の数、約3千人くらい。イチョウ並木は高さ2bぐらい。これは教職員の手で苗が植えられたと聞いている。

 なにしろ駅の付近は、人家も商店も何もない。塾の反対側、つまり西口の右側に本屋、今の中央通りのあたりに三田の洋服屋の支店が2軒、もちろん喫茶店も、麻雀屋、撞球場もない。西口に立つと、今の下田町のラグビー場あたりまで見通せた。
 私たちは、遊びには自由が丘や桜木町へ出かけた。それと、新丸子にあった東横ダンスホールにも.よく通った。

 校舎は、今高校になっている第1校舎だけ。たしか翌年、昭和11年に第2校舎ができた。立派だったのは寄宿舎。寄宿舎の風呂はまるで温泉旅館のそれのようだった。
 ある年の夏、米国から交換学生の男女がやってきて寄宿舎に泊っていたが、女子大生が風呂場でハシャギ過ぎて転倒し、後頭部をタイルで強打して人事不省になった。それを、寄宿舎に残っていた塾生が見たとか見ないとか、話題になったことをおぼえている。
 この間、久しぶりに日吉へやってきて、この町の繁栄、発展ぶりにはただただ驚いている。



校門前の陸橋にあがって、母校と町並みの変化を述壊する筆者・大沢先輩


上野一郎さん

      声が出ない教授  

  
上野一郎(産業能率大学理事長・大田区田園調布・56歳)

 昭和18年、慶応予科入学。満足に勉強したのはその1年だけ。翌年には勤労動員、続いて陸軍予備士官学校入隊。その間予科は2年に短縮され、入隊中に卒業したのだった。

 復員したのが学部の1年の終わり。三田の山は、復員する学生で立ち見席が出るほどの騒ぎ。予科、学部計6年の修業年限のハズが実質その半分で昭和23年大学を押し出された。

  戦後のことだが、大教室で教授の声が小さく、「聞こえない」と文句を言ったところ、「腹がへって声が出ない」と言う。我々はいたく同情した覚えがある。
 何はなくとも、戦後は我々の青春だった。今の学生は恵まれているが、本質的には昔も今も変わりはないと思う。



    在学中に30〜40の仕事 

  岡本愛彦
(映画監督・埼玉県川越市・55歳)


 敗戦直後のことですから、ひどい学生生活でした。
 私は終戦まで軍の学校にいました。そのため戦後編入した旧制大阪高校を「軍学徒1割制限」で追放され、昭和22年春、改めて旧制の慶応大学経済学部に入学しました。

 家族が全員、旧満洲(中国東北部)の大連にいたため、全く一人で生活費と学費を稼ぎ出しながら何とかやり抜きました。
 私のいた旧制の学部は東京の三田でした。予科の校舎は日吉にあったのですが、戦争中、連合艦隊の司令部になっていたためGHQに接収されており、予科生たちは東京・古川橋の工学院などの校舎を借りて授業を受けていました。

  私は作家の野坂昭如みたいに生活のために30から40ぐらいの仕事を転々としていました。大学に通う日は少なく、肉体労働の現場で教授の著書をむさぼるように読みふけったものです。
 え、今の学生との比較ですか? さぁ〜‥。

 


映画監督・岡本愛彦さん


佐藤信二衆議院議員



      出席不良の通知

  佐藤信二
(衆議院議員・目黒区平町・43歳)


  日吉には昭和28年4月から30年3月まで2年間通ったが、三田に移ってからは、卒業した今日までとんとご無沙汰している。

 今でも変っていないだろうが、当時渋谷駅から東横線に乗り、
日吉駅で降りて左側には学校、右側には麻雀屋、ビリヤード、食堂などが建ち並んでいた。駅に着いて左側に行かず、右側に行く学生がかなりおり、3月の学期末になると出席不良の通知がきて「毎日日吉に行っていたはずなのに…」と親を嘆かせたものです。

 私は余り出席率が良いほうではなかったが、右側に降りることはなく、日吉まで行けば左側の学校に顔を出した。それが幸いし、2年で三田に行け
たのではないだろうか。



             青春の思い出は野球″そして日吉″  

                             渡辺泰輔(会社々長・福岡県直方市溝堀・38歳)


 九州の空から青春に想いをはせれば慶応高校、慶応大学と、私の青春の思い出は慶応≠ノある。そして今となっては、そのすべてのように……。

 昭和30年代のあの頃、田んぼの中をグリーンの電車がまるでイモ虫のように走っていた。それが東横線だった。
  思い出す日吉は、当時のすばらしい自然。山あり、谷あり、樹林あり……。トレーニングに疲れた私の身体はその緑織りなす景観にどれほど癒してもらったことか。

 そんな自然の中の学園生活で強く印象に残ることは、慶応高校時代の甲子園出場、そして大学2年、私がピッチャーで6年ぶりに慶応が優勝したこと。また、早慶戦、いや慶早戦で幸運にもチームメイトのお蔭でパーフェクト・ゲーム≠達成できたこと……。
 いま、慶応を思うと、私の脳裏にはあの当時の光景が走馬燈のように走る。



     ドラムと法学 

  
フランキー堺
       (俳優・大阪芸大教授・目黒区上目黒・51歳)



 昭和21年から昭和26年の卒業まで、敗戦直後の大学生活を、そして青春時代後期を慶大で送った者の一人です。旧制予科は日吉が進駐軍に接収されていたので、一の橋の電気学校の校舎を借りていました。

 学生演劇の徒でしたので、昭和22年、三田の演劇研究会の部屋へ照会のあった舞台のアルバイトで初舞台(旧帝劇)。映画のバイトで1カットのクローズアップ(ドキュメンタリー・暗黒街の学生たち)、そしてドラムセットとの出合いからドラマーへ……。というように法学部の学生の私は、その頃から方角ちがいの道を歩み出しました。



フランキー堺さん

 慶応ボーイ気質


 50年前の慶応ボーイ――――その生態、体育会大先輩あばく

 

 「昔と今の慶応ボーイの比較」なんて、一体どこを基準にしてしゃべればいいんだね。勉強かね。遊びかね。それとも女にどれくらいモテるか、かね。

  
ケタ違いのお小遣い

そ、そ、いまの慶応には女性の学生もいたんだったねえ。ね、キミ、今と昔の金持ちじゃ、くらべものにならないよ。
 昔の慶応ボーイっていうのは大体、金持ちの子弟が多かったんだ。昔というのは、ボクが在学していた昭和2,3年の頃の話だけど……。

 当時の1円は、いまの4,5千円に相当したろう。お巡りさんの月給が27円の頃、月に100円の小遣いを使う慶応ボーイは大勢いたよ。
 こんなヤツもいた。某財閥のある重役の息子だったが、ドイツからライカという高級カメラが日本へ入ってきた頃、その値が千円。そいつは、私と一緒に三越本店のカメラ部に行って、そのライカのカメラ一式を指さし、
 「これ、もらっていくよ」
と伝票にサインした。三田通りの正門を下った右角に床屋、そこの細い路地に多田という質屋があ
った。あいつは三越本店から直っすぐそこへ直行するんだねえ。もちろん、新品のライカを質入れするためだよ。
 ぼくの目の前で、8百円の金に換えたんだ。キミ、今の金でいくらだと思う? 
ざっと4百万円だよ。それがみんな小遣いに消えるんだ。


ハ一夕ロー″狙う不良少年


 そういう連中だから、銀座へ行ってもモテるわけだよ。同時に不良少年に狙われるわけだ。そんな金持ちの坊ちゃんを「ハータロー」といって、不良少年のカモになりやすい。
 だから、彼らを守る、ボクのガードマンとしての役割はますます重要視され、大事にされたものだよ。お蔭でボクは、当時1円のランチを毎日平気で食べていたんだ。いまじゃ、4、5千円の昼食ということになるがねえ…‥。

  ノックス社の帽子


 当時流行していたものは、ソフト帽。銀座あたりを歩く紳士がかぶっていたのが、英国ステットソンのソフト。

 慶応ボーイはイタリヤのノックス社の帽子をかぶるのが粋だった。それは英国
製より高くて最低20円、上は30円から50円だった。

 当時プロスポーツといえば、プロ野球もなし、相撲ぐらい。だから、大学の運動部員といったらモテたんだよ。

 その頃、カフェーの一流のお姉さんは月の稼ぎ高千円、つまり4,5百万円というのはザラだった。
 そんな彼女たちの公休日には慶応ボーイのボクらがお付き合いするんだ。銀座を歩くと、彼女たちはプライドを感ずるわけだねえ。いまでいえば、プロ野球選手か歌手の有名人を連れて歩いているのと同じで……。

 当時銀座に最高級洋品店「田屋」で「帽子買ってよ」といえば、お姉さんが30円くらいの例のノックスを買ってくれたりもしたもんだ。いまじゃ、15万円の帽子をポーンと買ってくれる彼女を持ってる学生、そんなのいるかなあ〜?
        (記 岩田忠利)

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