編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
NO.427 2015.01.06  掲載

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 作詞家・石本美由起邸



  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和56年5月1日発行本誌No.5号名「橘」 

 
  取材・文:石川静恵 (武蔵小杉 主婦)  写真:岩田忠利

   

  ヒット曲は
作詞家・
石本美由起邸から


南傾斜の雛段のようなお庭は熱海伊豆山のよう。
一段目は純日本庭園、あちこちに小鳥の巣箱が…


 『憧れのハワイ航路、柿の木坂の家、長崎のザボン売り、悲しい酒、東京の人よさようなら、港町十三番地、ひばりのマドロスさん、逢いたかったぜ、逢いたいなァあの人に、ソーラン渡り鳥、渡り鳥いつ帰る、僕は流しの運転手、十代の恋よさようなら、哀愁波止場、浅草姉妹、矢切の渡し…‥…』。
 このような、戦後の歌謡史に残る数々のヒット曲を作詞した人、日本作詞家協会会長・石本美由起先生も東横沿線の住民である。

 反町駅と横浜駅西口の中間あたり、沢渡の交差点を登りつめた高台からはヨコハマのビル群やマリンタワーまで眼下に。

 応接間の飾り棚には金色のレコード形をしたおびただしい数のヒット賞が並ぶ。
 見惚れていると血色もかっぷくもいい先生が登場。和服姿でにこやかに。

  ハングリーの人へ贈る言葉


 
お馴染の歌を数々世に送り出した人だけに、お口から洩れる一言半句すべてが、これ詩と思える言葉である。
 
「人間、人の痛さがわかるには、あらゆるハングリーの体験が必要だと思います。歯を食いしばって耐える生きざま、それがその人を大きく成長させるのでしょう。創作の世界でも、自分と対する相手なり境遇なりに立ち向かう闘争心か己れを育て、その創作力を旺盛にさせるのですよ」

 
少年時代から持病のゼンソクに苦しみ、青年時代には病弱の身で兵役、ベッドの上で詩づくりに明け暮れた。その体験がいま、この言葉となり、詩情となって、人の心を打つ。これこそ、いまハングリーで悩み苦しむ人へ贈りたい言葉である。

 


作詞家・石本美由起先生






 


昭和42年5月、石本邸新築祝い。中央の石本先生の両側に作曲家の亡き古賀政男や美空ひばりの顔も
 

 かたわらの節子夫人は鎌倉彫と花づくりがご趣味。春の陽光がさしこめる応接間の隅々には丹精込めた観葉植物や鉢植え。 「先生もお花がお好きで?」と水を向けると、
 「え、好きですよ。私のは、夜の花々がねえ、銀座裏の……」
 といって明るく笑う先生を横目に、
  奥様が「そうなんです。主人は巷に材料ありと言いまして大きな顔して遊んでまいります。これが恩師・上原げんと直伝の作品づくりの秘法とあらば、やむなしですよね」
 ご理解ある奥様の弁。ご家族は、
 「娘は共立女子大の学生、息子はコロンビアレコードの社員でして……。日曜日には家族でゴルフを楽しんでいますよ」
 とこの時ばかりは、世の親なみに目を細められた。

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