編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
NO.411
2014.12.10 掲載
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東横沿線の
自然と生活
沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載“復刻版”
掲載記事:昭和55年7月7日発行本誌No.1 号名「夏」
失われゆく東横沿線の
緑
野上純與
横浜の緑と文化財を守る会・事務局長
日本国際地図学会会員 51歳
横浜市港北区篠原東1丁目
地震に弱い港北区
東横線の沿線は、多摩川をはさみ、東京都の側は武蔵野の台地であり、神奈川県の側は多摩川・鶴見川の沖積低地を入りくませた、いわゆる谷戸の多い多摩丘陵である。
武蔵野も多摩丘陵も、ともに関東ローム層に厚くおおわれ、おもにシルト層からなる多摩川・鶴見川の低地とともに、きわめて不安定な地層を特色とする地域である。深くにある安定した地盤の三浦層群も、とくに断層の発達する港北区など、地震には弱い。
富士・箱根火山などの、新生代第4紀洪積世、すなわち、1万年をこえる昔の火山活動で降下した火山灰を主とする関東ローム層はきわめてもろい。そのもろい.関東ローム層が数万年の年月を経て、ようやく安定してきたのが武蔵野であり、多摩丘陵である。そしてそれを安定させてきたのが、その表面をしっかりとしめつけて根を張ってきた緑濃い木や草であった。そして多摩丘陵の緑は、鶴見川水系治水の最大の要でもあった。
いまの東急東横線、かつての東京横浜電鉄の丸子多摩川駅〜新神奈川駅間の営業開始が大正
日であるが、以来、沿線の開発が進むにつれて、とりわけ第2次世界大戦後、
年代の高度経済成長にともなう都市化の進展とともに、沿線の緑は急速に失われ、多摩丘陵はその地形を人工的に大きく変えられた。その典型が、谷戸を埋めつくして丘陵を台地に変える港北ニュータウンの開発である。
緑地破壊の恐ろしさ
港北ニュータウンの開発は、多摩ニュータウン・多摩田園都市の開発とともに、多摩丘陵の緑地を大きく破壊した。ともない、そこに埋蔵されていた日本で最大の、しかも、最も密度の濃い縄文文化の遺跡群が、重積する弥生・古墳文化等の遺跡群ともども破壊されて、日本の原始・古代文化の解明に多大な損失を与えた。
昭和38年、港北ニュータウン開発前の北山田の重代谷戸
提供:男全富雄さん(北山田町
)
写真左の平成13年
日吉・元石川線の上り線(北山田5丁目)と下り線(北山田4丁目)の両側にバス停「重代」の名前が残る
2013.7.15 撮影:石川佐智子さん(日吉)
そればかりでなく、その緑地の大きな破壊は、港北ニュータウン地域を流域の一部とする鶴見川水系の水文環境をも大きく破壊し、遊水池の機能をはたしていた流域の水田地帯および菊名池等の池沼の埋め立てによる工場用地化・宅地化・公園化とともに、洪水河川として知られた鶴見川水系の治水に根本的な打撃を与えたのである。
鶴見川水系の治水の目標となるその本流の計画高水流量は、水文環境の破壊にともなっで、昭和
13
年に
トン毎秒、同
33
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トン毎秒の流量を配分する放水路もしくは遊水池の建設を計画するまでに建設省当局は追いこまれた。
自然破壊の代償は常に高価である。しかし最も高価な自然破壊や代償は、予測される安政東海地震の繰り返し、関東大地震の繰り返しのときにこそ、支払わねばならぬことになろう。自然破壊の恐しさを知るべきである。
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