編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
NO.408 2014.12.08  掲載

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 Come to beautifl Japan


  ――ローゼ・レッサーさん(ドイツ人)ーー



  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和55年12月7日発行本誌No.31 号名「柊」

   
取材・文:岩田忠利


    世界の端、遠いちっちゃい国、日本


 私が51年前、日本へ来た時、ヨーロッパ人にとって、日本の国はまったく話のタネにならなかった。一般の人は、日本がどこか遠い「世界の端、世界の終わり、ちっちゃい国に違いない」と思った。中国は大きな国で、みんながわかった。

 だから、道で日本人が歩いていると、うしろでヤンチャな男の子たちは、からかったものです。「ほら、見てご覧、チャイニーズよ」と叫びながらはやしたて、いたずらに石を投げることも、たびたびありました。

 第一次世界戦争のあとも、かれらは井戸の中のカエル≠ンたいに、世の中のことを知らないものでした。旅客機のない時代、日本を世界地図でながめると、中国のもっと東、いちばん速い船でも5週間もかかって、ようやく着く国でした。



22歳の夏、来日当時のローゼ・レッサー



 あの頃のヨ一ロッパ人はみな、日本人のことを「皮膚は黄色。眼は包丁で切られたように細く、言葉は直接には話さない国民」と噂していたものでした。

 そのような日本人観でしたから、ワタシももちろん、日本人をたいへん怖い人間であると恐れました。ワタシの友だちとは違って、ワタシはラフカディオハーン(小泉八雲)の本を一冊も読んだことがなかったのですから、なおさらのこと…。

 そして日本に来たとき、子供たちがうしろに走って来て、「ほー、外人だ、外人だ!」と叫んで、笑った。近くに寄って来た日本の子供たちは、ドイツの男の子たちみたいに石を投げるような真似だけは、一度もしなかった。

 しかし今は表題のようなポスターをロンドン、パリ、ローマなどどこでも見られます。みんな、日本のことをよく知っていますネ。



        好奇の的のワタシたち


 
ワタシが日本にきた年、1929年、そして翌年も、外国人はまだ日本には殆どいなかった。だから、ワタシが神戸の道を歩いていると、大人の日本人が立ち止まって、ワタシにこう聞くのです。

 「あなたの青い眼でも私の茶色の眼と同じょうに、なんでも見えるのですか?」、または、
 「あなたの国には、私の国と同じ汽車≠ェありますか?」

 町はずれ、漁師町などをワタシが通るとき、大人も子どもも驚いて寄って来る。やがて、村の全部の人たちが走って寄って来る。ますます近くに寄ってくる。大人でさえも手をのばして、ワタシと友だちの腕を強く指でなでるのです。
 皮膚の白さが不思議なのか、何か塗ってあると思っていたのでしょう。自分の指先でワタシたちの肌を触ってみては、
 「白いもん、付いている? 付いていない?」
 と大騒ぎしながら調べるのですネ。
 ワタシとワタシの友だちもまだ二十そこそこでしたから、大変きれいな金髪だった。


 また同じように髪の毛を遠慮なくなんべんも指でさわったり、強くなでたり、引っ張ったり……。そして自分たちの指先をじ一っと調べるのですネ。そしてみんなが大声で、
 「まー、まー、二人どっちも色が落ちないよッ」。

 ワタシたちの顔は赤くなり、身体全体が熱くなり、そしてこんなに責められると、逃げ出したくなりました。お腹が空いたので、何か買いに行こうと思っても、人びとはどこまでも付いて来るのです。


 この時の日本人の執拗な好奇心と群集心理には、ほとほと困ったものでした。



肌を触ったり、髪を引っ張ったり…

イラスト・板山美枝子


どこまでも付いて来る子供たちにローゼ・レッサーさんがカメラを向けると、蜂の巣を棒で突っついたようにあわてて逃げる子供たち……。魂を奪い取られるという迷信があったそうですネ




「これは、景色を良く見る特別なランプです」とワタシが説明すると、逃げ出した子供たちが安心して、また集まって来ました


       日本人とアイヌ人の違い


  
1932(昭和7)、北海道のアイヌ人の村に行ったとき、そのような体験は一度もありませんでした。アイヌ人は、大陸の人たちに似ていると感じました。

 話すときも、かれらはワタシに直接話しかけてきました。また自分の感情を隠さない人たちだった。2、3回アイヌ人に会っただけでしたが、最後の別れのときには、ワタシの肩の上で大粒の涙をこぼし遠慮なく泣いたのでした。

 アイヌ人が日本人と違うのは、その点です。アイヌ部落から部落へ馬に乗った一人旅でした。しかし赤面することは一度もなく、非常に気楽な旅でした。


        イザという時、頼りにならない日本人


 
主人タカハシケンジは、とても責任感のある人でした。でも、戦争のすぐあと病気で亡くなりました。ワタシ、何年も何年も看病したけれども……。

 その頃、娘もワタシも生きることがとってもむずかしかった。食べ物はないし、薬はないし、医者は呼んでも来ないし…‥・。助けてくれる人、だれーもいないんです。日本人は、悪い病気でもすると、仲良くしていた大学の先生たちまでもが‥…・。結局、主人は胸を悪くして
44歳で死にました。その時、私たち3人は、も少しで一緒に死ぬところだったですヨ。

 けれども幸いに3人の教え子の学生さん、韓国人、中国人、日本人がいたのです。そのうち日本人の学生は助ける意志があっても、第一のステップを行動する勇気なかったのネ。
 韓国人と中国人の学生さんが娘とワタシを救ってくれたのヨ。2人の若い学生さんが外国人であるワタシと娘を看病したりして面倒みてくれたの。その二人の学生さん、親戚の人たちからさんざん悪口言われたのに、それを構わず、1年間も面倒みてくれました。その二人いなかったら、ワタシと娘は、いまこの世にいなかったですヨ。

 このときワタシ、二つのことを勉強しましたネ。一つは、「人間って、他人の美しい善意を、汚く悪く解釈するものだ」って…‥。もう一つは、「日本人って、ふだんはとても心を合わせて助け合います。だけど、イザ災いのときになると、自分が本当に苦労して他人を助けないこと」、それ知りましたネ。

  中国人など大陸の人たち、その点、違いますネ。「自分は死んでも構わない」と最後まで助けますネ。

 日本人は、自分の家でも危くなれば、ただ自分のことだけを考えますネ。これじゃ、大きな地震でも来たとき、どうなるのかネー。



      在日51年、ローゼ・レッサーさんの足跡


 ローゼ・レッサーさんの会話の蔭に隠れた人間性と思想、そしてケタはずれの行動力、その一端を示す在日51年の足跡をいくつか拾って紹介してみよう。

 日本のスキーのメッカ・蔵王。往年の大スター原節子。新潟県瓢湖(ひょうこ)の白鳥。いずれも日本全土に、そして世界各地にその存在は知れ渡っている。美の極致といわれるほど美しい。その背後にはすべてこのローゼ・レッサーさんの愛とその活動があったのである。



樹氷の蔵王








絶世の美女と言われた原節子


白鳥の湖、瓢湖




 彼女は昭和5年21歳のとき来日。娘盛りの23歳でアイヌの伝説を調査するため未開の地、北海道に渡る。その帰路、のちに夫となる京都大学教授・高棟健治教授に青函連絡船上で出会い、恋愛、まだ外国人の姿が珍しい時代、二人は国際結婚。
 いまは亡き同教授は日本山岳界の権威者で当時からスキーや山岳に関する多くの著書がある。また山岳スキーの名人で、高松宮殿下と三笠宮殿下にスキーを教えた人でもある。


 昭和11年、世界的山岳映画の製作者アーノルド・ファンク博士が来日。まだ東北の寒村だった蔵王を舞台に女優原節子主演のラブロマンス映画を撮影、これが世界に広く紹介された。これをきっかけに樹氷の蔵王≠ニ美貌のセツコ・ハラ≠ヘ世界に知れ渡った。その時のローゼさんは山仲間だったファンク博士の秘書として、日本事情を世界に紹介するのに一人で何役も演じた。

 いまや瓢湖は白鳥の湖≠ニして有名だが、これも実は、ローゼさんが昭和
45年9月新潟県知事宛てと地元写実家宛てに手紙を出し、白鳥や野鳥の保護、瓢湖の自然環境保護を強く訴えたのがきっかけ。みずから「白鳥繁男」という振替口座を郵便局に設け募金運動に奔走、全国規模の「瓢湖の白鳥を守る会」を組織した。一方、彼女は海外にも瓢湖の白鳥を紹介、それが反響を呼び、イギリスの「国際白鳥会議」に招待されたことも。そのように、まさに日本の瓢湖を世界にはばたかせたのも、ローゼ・レッサーさんだった。

 
     戦後の苦難の時代に救ってくれた学生の恩を胸に

 
終戦後の昭和21年暮れ、ご主人高橋教授は亡くなった。戦後間もない動乱のなか、飢えと偏見、異国で女の細腕で生きるキビしさとわびしさ、そんな傷ついた心を癒し救ってくれたのは、中国と韓国の大陸の学生だった。

 その恩が忘れられず昭和35年5月、ローゼ・レッサーさんが創始者となってはじめた運動に「モア・ジョイ・センター」(心の赤十字会)がある。この運動は「生きることは、分かち合うことである――」という精神を広く世界に知らせ、人々が理解を深め合う中で調和のとれた平和な世界を建設しようというもの。

  インドに親善留学生を送り込んだり、日本各地の風景や文化財などのスライドを持って359日間の世界一周親善旅行をやったりもした。旅行中、日本の折り紙や伝説を世界の人々に教えて回り、世界の見知らぬ友人たちから多くの感謝の言葉をいただいた。彼女は、あの戦後の苦難の時代を胸に、戦争のない世界、調和のとれた世界の創造″をめざしてこの運動に熱意を燃やしている。



1960年(昭和36年)3月26日、日本の子供代表を連れてインド・ネール首相(右)を訪問したローゼ・レッサーさん(左)

  写真:インド政府提供


 51年前、日本の土を踏んだローゼ・レッサーさん。以来日本人以上に日本を愛し、国境と民族を越えた世界の人たちの心の交流を深めることを生涯の喜びとして、72歳のきょう(★この記事掲載時、1980)も日本紹介のタイプライターの音は鳴り響く。

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