編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
NO.401
2014.12.03 掲載
★
画像はクリックし拡大してご覧ください。
「ドキュメント少年の戦争体験」
5つの媒体
講座が縁でWeb「
ドキュメント
少年の戦争体験」が
http://touyoko-ensen.com/boysensou/boymokuji.html
をクリックしてご覧ください。
2011
年
(
平成
23
年)
3
月から始めた講座「アルバム編集講座」に栗原茂夫さんも参加し、来し方をまとめることになりました。
第一日目の
講座前、喫茶店で栗原さんから相談を受けました。
「戦時中、サイパン島にいた私は、写真はたった
1
枚、これしかありません」
と言いながら、A4用紙にワープロでびっしりしたためた文書を出されました。その枚数
33
枚…。
私はそれを一気に読み終え、少年の眼を通して見た戦争の残酷、非情、悲惨な体験を克明に綴った記事に私は痛く感動しました。そしてその場で考えました。
「社会的にも価値ある情報だ。手持ちの写真がたった一枚だが、関連の写真を私が集めてなんとかホームページを作れないものだろうか」
栗原家のたった一枚の写真
著者・栗原茂夫さんは右端
さっそくサイパン島玉砕の模様に詳しいサイトを検索……。運よく、格好のサイトがみつかりました!
東海大学の鳥飼教授という先生が玉砕時のサイパン島を研究していて当時の米軍から集めた画像で
「鳥飼行博研究室」ホームページを構築していたのです。そこには
生々しい戦時中の悲惨な写真が数々掲載されています。
私は鳥飼教授宛てに掲載写真を転載させてほしい旨の心情を率直に綴った手紙を投函しました。翌日には先生から快諾の旨のメールが届き、いよいよ栗原さんのホームページが現実味を帯びてきたのです。
戦中・戦後の日本国内の写真は私
の手持ちのものを載せ、栗原さんが二人の亡き弟の慰霊にサイパン島を訪れた際に撮った写真を合わせると、掲載画像は
115
点にも。そして、文中のイラストは沿線誌「とうよこ沿線」時代のイラスト・スタッフの阿部紀子さんに描いてもらいました。彼女の
13
枚がその時々の情景を視覚的にいっそう浮かび出させてくれます。
2011
年
(
平成
23
年
)6
月
8
日、「とうよこ沿線」ホームページに「ドキュメント 少年の戦争体験」第
1
章「プロローグ編」がスタートしたのでした。
2つめの媒体、CD版。次代に語り継ぐ資料に
2011
年
(
平成
23
年
)7
月
15
日、
CD
版
「ドキュメント 少年の戦争体験」が完成しました。
終戦記念日を1カ月後に控え、著者の栗原茂夫さんは「太平洋戦争を決して風化させてはならない…」 と、このCDを持って横浜市内の新聞各支局へ進呈しに歩きました。
3つめの媒体
、紙媒体の新聞に
8
月
6
日付の読売新聞神奈川県版のトップ記事
8
月
16
日神奈川新聞「終戦記念日」特集記事、カラー紙面
この記事を読んだ神奈川県内の方々が朝から「とうよこ沿線」ホームページにアクセス、「少年の戦争体験」をお読みいただきました。
なかには「わたしも栗原さんと同時期にサイパン島で悲惨な戦争体験をしました。栗原さんの自宅の電話番号を教えてください! 本人と直接お話しをしたいのです」。興奮気味に当編集室に電話を掛けてくる方もいました。
8
月
6
日、一日のヒット数は普段の約
10
倍でした。
この新聞紹介のおかげで、栗原さん自身、サイパン島のアスリート小学校の同級生だった女性と再会したり、同時期に同島で栗原さん以上に残酷な戦争体験をした人と出会ったり、サイパン島の戦争体験が取り持つ縁で人の輪が神奈川県内に広がりました。
4つめの媒体
、映写媒体のスライドショー
「戦争体験を聴く会」開催
大写ししたスクリーンを見ながら栗原さんがライブトーク。
皆さんは画面に釘づけです
スライドショー終了後、第2部「座談会」
中央右、栗原さんの前の“花”にご注目!
2011
年
(
平成
23
年
)8
月
12
日の猛暑の中、日吉駅前の画廊「ギャラリー日吉」に
25
名もご来場くださいました。
栗原さんの前の
“
花
”
について説明しておきましょう。
サイパン島で餓死した弟さん二人を埋葬した時、あたりに墓らしきものはなく、広い敷地に百日草だけが色とりどりに咲いている殺風景なところでした。
栗原家ではこの百日草を二人の霊が宿る
“
形見
”
として大事に育てています。この日は、亡き弟二人も栗原家から久しぶりに外に出て、栗原さんの前に飾られ、皆さんと一緒に参加しました。
5つめの媒体、
紙媒体の本、母の命日に発行
平成
24
年(
2012
)
12
月
3
日発行
B5
版、
118
ページ、カラー誌面
定価
1200
円 購読ご希望者は当編集室へ
本書は、「ホームページ掲載記事編」と読者の感想と投稿の「反響編」、この二本立てで構成されています。
記事編には著者と一緒にジャングルの中を逃避行し逃げ込んだ洞窟内で米兵に連れ去られた弟・利夫さんの手記と母方のいとこ、杉山 茂さんの逃避行体験記が追加されました。
反響編掲載の二人の記事もぜひお読みください。
その一つは、前掲の神奈川新聞掲載記事を読んで栗原さんと出会い、話すうちに同じ昭和
17
年にアスリート小学校の同級生で
1
年生のとき一緒に遊戯をした宮川てる子さん(横浜市南区在住)であることが分かりました。その彼女の投稿文は「死線を越えて」。
もう一人の安楽多寿子さん(横浜市瀬谷区在住)は上記の読売新聞掲載記事の読者で著者と相鉄線二俣川駅で会い、サイパン島での壮絶な体験談を栗原さんはうかがってきました。
喉の渇きに耐えかねて
3
度も自分の小水を飲んだこと、目の前で可愛い甥の絞殺を日本兵に頼む姉、そして息絶えた2歳の甥、その遺体を抱きしめ泣き崩れる姉……。
この残酷な体験の手記は「南洋の移民と戦争」。
本書プロローグに著者はこう記しています。
母・都は昭和
60
年
(1985
年
)
の初冬、
71
歳の生涯を閉じた。その母が、死の直前に「おろかな女の一生」と題する手記を残した。
「寝ていて書くのだから読めないかもしれないが、死を前にして書き残す」で始まり「これで
71
年の幕を閉じます。木の幹だけ書いたので、あとは茂夫が枝や葉を繁らせてください」で終わっていた。(中略)
前掲の手記に、さらに枝葉を繁らせたのが「ドキュメント 少年の戦争体験」である。今日まで多くを語ることはなかったが、いまでは一人でも多くの方々に読んでいただきたい気持ちでいっぱいである。
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