編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
            NO.360 2014.11.06  掲載 

画像はクリックし拡大してご覧ください。

樹木
     
民話作家 萩坂 昇(日本民話の会会員。川崎市中原区中丸子) 


 東横線大倉山駅下車、徒歩
10分で港北区師岡(もろおか)の熊野神社につく。
神社は、神亀元年(724年)金寿仙人がいまの社殿裏の「の」の池のところにあった椰樹(なぎ)の大木のほこらに住んでいたとき、ここに社(やしろ)をつくれというお告げによって小さな祠をつくったことに始まるという。千二百余年の歴史がある。

 熊野神社の前には、ひらがなの「い」の字の形をした『い』の池があり片目の鯉の伝説が語られている。



熊野神社の「い・の・ち池」所在地を示すマップ

 

 むかし、熊野神社の神、権現は、この地方の悪者と戦って片目になってしまった。

 ある日、権現が池の畔に立つと、池のぬしの鯉があらわれて、ジーッと権現さまを見つめていた。光った大きな目で見つめていた。

 権現は、目が欲しゅうなった。
 「のお、わしにその片方の目をゆずってくださらんか」
 権現の心がつうじたのか鯉は、片方の目をさしだした。

 この話は、師岡村はもとより神奈川宿にまで知れわたった。そんなある夜、池に忍びこんだ男が鯉をしゃくって逃げていった。

 つぎの日、男は、神奈川宿へその鯉を売りにいったが宿場のかみさんが鯉を見て、
「片目の鯉だ。ことによったら熊野神社の鯉かもしれん。食べたらたたりがある」
と、いうて誰も買おうとせんかった。

 男は、たたりときいて、まっ青になりその夜、池に鯉をかえした。それから『い』の池のさかなは、みんな片目になったそうな。

 『い』の池は、水たまりのようだが、水は神の水(禅定水)とされている。むかし、熊野神社が落雷をうけて火事になったとき、『の』の池の水でご神体を守ったという。また、どんな日照りがつづいても水の涸れるときがなかったという。

 また、『い』の池でも雨乞いの行事がおこなわれた。承安4年(1184年)日照りのつづいたとき、延郎上人が、12の竜頭をつくり、八大竜王を招くと、三日三晩、大雨が降り田畑の作物を生き返らせたという。

 『ち』の池は、いまは、埋められて大曽根第二公園になったが、伝説が語られていた。

 むかし、旅の六部(巡礼)が、この池の畔で子どもを産んだが、あやまって池に落としてしまった。すると、池の水は、血のように赤くなったという。

 それから村人は、池へ行く道を「産(うま)が坂」と呼んでおそれたという。この坂のところは、昔は、うっそうと樹木がしげり、昼なお暗く、里人は、おそれて近よらず、「盗っ人(ぬすっと)ケ谷戸」と呼んでいた。

 盗人たちがここを根城にしていたのだろうか。とにかく、こわいところだったという。

 熊野神社境内の森と、樽町の通称天神山の森へのコースは、熊野神社市民の森となっている。小径(こみち)には、「みくまの通り」「長命通り」「七曲り通り」があり、自然のふところのようなところである。



昭和31年の「ち」の池
提供:小林義明さん(大曽根)


 昭和42年4月、綱島街道端の「ちの池」

 「ちの池」は、大曽根の谷間の湧水を集めた溜め池でした。この水が大曽根と樽町の水田を潤すだけでなく桜の花見や魚釣りで人々の心を潤してくれる憩いの場所でした。
 提供:小林義昭さん(大曽根)



「ちの池」の現在は大曽根第2公園と住宅地に
 撮影:岩田忠利






「とうよこ沿線」TOPに戻る 次ページへ
「目次」に戻る