編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
NO.336
2014.10.31 掲載
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民話作家
萩坂 昇
(日本民話の会会員。川崎市中原区中丸子)
さぎ草は、8月頃、白さぎがはばたいていく姿の花を咲かせ、世田谷区の『花』とされ、九品仏の浄真寺には、さぎ草園がある。
さぎ草は、湿地帯の草木のしげみのかげにひっそりと咲き、ひっそりと散っていく。そのはかなさから、常盤姫伝説が語られている。
永正・大永のころというから5百年もむかしになろうか。戦国の世である。
世田谷城主、吉良(きら)頼康は、美ぼうで知られた奥沢城の大平出羽守の娘、常盤姫を妻にむかえた。
「さすがは、おらとこの頼康さまじゃ。しあわせになってくだされよ」
世田谷城下の村のしゅうは、自慢にし、遥かから世田谷御所をあおいでそういった。
ある年、頼康は、京のまつりごとの世話役を命ぜられ京にむかった。
月と日が流れた。まつりごとは、とおに終ったはずである。常盤姫は、頼康の帰りを今日か明日かと待っていたが、どうしたことか帰ってこなかった。なんの知らせもない。それどころかあらぬことを耳にした。
「なに? 小田原北条氏の娘、崎姫を妻に迎え、蒔田(まいた)に新居をかまえたとな。…… 嘘じゃ、頼康にそのようなことがあろうはずがない。だれかのつくり話じゃ」
姫は、身ごもっていた。いらだつ心をおさえて家老に調べさすと事実だという。
「小田原北条氏の謀略だ。それとも高い地位に目がくらんだか。……いや、頼康のことだ。騙されたのじゃ。きっと、それに気づいて帰ってくるにちがいない。わたしは、世田谷城を守らねばならない」
姫は、そう自分にいいきかせてこらえにこらえていたが、城内の秩序は乱れ、家臣は勝手なふるまいをしていた。家老は、それを見ながらとめようとしなかった。それどころかかきたてているようでもあった。
家老は、姫を無視し、このときに城をわがものにとたくらんでいた。それには、頼康の嫡嗣を身ごもっている常盤姫を消してしまわなければならない。
大永3年(
1523
年)4月
13
日という。
姫の座敷へ信頼できる家臣がしのびこんてきた。
「一大事でござる。ここにいては殺されてしまいます。早く逃げてください」
「よくぞ教えてくれた。わたしが案じていたことがついにきたか。なら、わたしはひととき奥沢の父のもとへ身を寄せますが、日ならずして帰ってきます。あとは頼むぞ」
姫は、身仕度をととのえると、朝もやに身を隠すようにしてまだ夜が明けぬ城外へと出ていった。
これを家老が見逃すわけがない。姫の後を
10
人の刺客がつけてきた。
いまの松陰神社の森にさしかかったとき、
「姫! 世田谷城のために生命をいただきたい。お覚悟を!」
と、武士が立ちはだかった。
姫は、懐剣で自ら生命をたって倒れた。
姫の悲しい最期を知った頼康もあとを追うようになくなった。
そのときからどのくらいの年月がたっただろうか。姫のなくなった森から一輪の花が咲くようになった。その花びらは、姫が頼康を迎えにいくように大空にむかってはばたいていく白さぎの姿にそっくりだった。
村人は、これは常盤姫の化身だとし、さぎ草と名づけた。
また、世田谷区上馬二丁目の「常盤塚」は、姫を葬ったところとされている。
絵:石野英夫
(元住吉)
常盤姫の実家、奥沢城。その跡に4代将軍家綱から拝領、創建した九品仏・浄真寺
撮影:岩田忠利
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