編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏 / ロゴ:配野美矢子
NO.329 2014.10.28  掲載 

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 「第8回誌上座談会」
      
<わが東横沿線を語る>
   
  出席者:東横沿線7区の代表8名
  会場:「とうよこ沿線」編集室
 


   心に焼きつく震災と戦災
         

   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”


   掲載記事:昭和62年7月20日発行本誌No.39 創刊7周年記念号 号名「槿
(むくげ)」

   文:岩田忠利
(本誌編集長)    
   

出席者の顔ぶれ(各区代表)

藤田佳世さん 渋谷区代表。渋谷区桜丘在住。鶴見区に生まれ、3歳から渋谷育ち、。最近まで陶器店・お好み焼店の経営者。著書『大正・渋谷道玄坂』ほか2冊。76
前川正男さん

目黒区代表。目黒区八雲在住。代官山に生まれ。陸軍中尉を経て中島飛行機へ。戦後日本IBM設立に参画。本誌連載「とうよこ沿線物語」執筆。71

小林英男さん 中原区代表。中原区小杉御殿町在住。旧中原町助役、元川崎市議、昭和59年度川崎文化賞、本年藍綬褒章受章。73年間書き続ける記録歴は日本一。85
鈴木 宗さん

世田谷区代表。世田谷区奥沢在住の奥沢っ子。戦時中は近衛連隊兵役。戦後は信用金庫に20年勤務。区文化財指導員。奥沢の縄文展等を主催。68

山口知明さん
大田区代表。大田区田園調布在住。東京生まれ、北海道で新聞記者を経て、昭和9年から社団法人の町会「田園調布会」に勤め、現在同会副会長。87
池谷光朗さん 港北区代表。港北区綱島東在住。武蔵工大卒。終戦直後の農地解放から500年の旧家を守るため農業に従事。現在はゴルフ練習場経営。61
照本 力さん

神奈川区代表。神奈川区東神奈川在住。東京外語大に進学後、終戦で中退。昭和23年から神奈川熊野神社ほか11社の宮司を務める。59

山室まささん

港北区・神奈川区代表。港北区新羽町在住。宿場町神奈川に生まれ、女学校出のタイピストの草分け。戦災後現在地に移り、今は明治生命現役。75

司会岩田忠利 「東横沿線を語る会」代表。本誌編集長 



  関東大震災体験ーー小林英男さん


   “安政の大地震”を経験している祖父の機転


司会 ご出席の皆さんの中には、あの関東大震災の模様をよく覚えていらっしゃる方もおられると思います。そこで、昭和生まれの読者の皆さまに大正1291日の大地震の体験談を……。
 73年間も日記を書き続けてこられた小林さん、あの日の模様も当然記されているのでしょうねぇ?

小林 突然グラグラッときて、これが「天地の終わりか」と思ったというような印象が日記には書いてありますよ。
 当時嘉永4年(1851年)生まれの祖父が生存中に“安政の大地震”を経験しているんですね。うちは平屋で瓦のひさしが出ているのです。
 その祖父がまず庭に降りて「外に出てくるんじゃない。家の中に居ろっ!」って大声で制止したのです。ひとり女中がいましてね、彼女がグラッときた瞬間、私の脚にしがみついちゃった。慌てて柱かなんかと間違えてねえ。
 ひとしきり静まるのを待って、外の空き地に蚊帳(かや)を吊って縁台を出し、その中で2晩くらい夜を明かしましたねえ。



 
関東大震災体験ーー
藤田佳世さん


    街がコマの上に乗って回っているよう…


司会 藤田さん、渋谷の方はいかがでしたか。


藤田 私は当時12歳。91日は始業式の日で学校から帰って弟を連れてお友達と受け持ちの先生の家へ行く途中でした。
 最初「ゴオーッ」という音がしてから、私は友達に「あら、風が出てきたのね」と言った途端に、揺れが始まったのです。と、今の道玄坂上にあった用水の水がピチャピチャと高くあがり、前を歩いていた学生さんが「座れ、座れ〜!」と叫ぶ。
 坂上で地面に座って目黒の街の方向を見ると、街が独楽(こま)の上に乗って回っているように見えましたね。
 静まってから5歳の弟をおぶって今の道玄坂のイワキの眼鏡屋の所まで帰ってくると、落ちた屋根瓦で道は埋まっている。近くのおばさんが私の姿をみつけると、「よく帰ってきた、よく帰ってきた」と涙をボロボロこぼして…。
 それから2回目の地震……。梅の木につかまっていましたが、家の屋根が地面に届くんじゃないか、そしてこの世の終わりかなというような気がしました。 




 
   不安をあおるデマと流言飛語


 その晩はもちろん家にも入れません、野宿でした。そして2日目の晩にあの「朝鮮人が襲ってくるから逃げろ」って言われ、今の百軒店(ひゃっけんだな)がまだ赤土の山でしたから、みんなそこに逃げたんです。

 だれがあんな非常時にデマを流すんですかねえ。
 「それっ、朝鮮人が来たぞ〜」なんて叫ぶ人がいるから、一部の人が将棋倒しになりましてねえ。で、母が「こんな大勢いる場所で死ねば、誰の死
体だかわからなくなっちゃう。自分の家へ帰って死のう!」と言って真っ暗闇の道を自宅へ向かいましたが、下町の空はまっ赤でした。その道中には検問所があるんですね。「どこの誰々だ」と、いちいち調べるのです。

司会 川崎にくらべ東京の被害は大きかったようですね。静まってからの生活はいかがでしたか。

藤田 私どもの家は貸家でしっかりした家じゃないですから、20日間ほど大家さんの家に泊めてもらい、傾いた家を直しました。食べ物は、鯨やサバの缶詰・何束かのカンピョウなどの救援物資の配給が学校の庭で行われ、なんとか生活できたわけです。


藤田佳世著『大正・渋谷道玄坂』の「関東大震災と道玄坂」から




 
関東大震災体験ーー
山室まささん


      父の とっさの機転と行動力…


司会 山室さんは偶然にも藤田さんと同い年だそうですが、当時横浜でも賑やかな街だった東神奈川にお住まいになっていて、そちらの被害も酷かったでしょう?

山室 その時私は小学校5年生でしたが、ちょうど子安の一之宮神社のお祭で、地区内の浦島小学校はお休み、家にいました。一日(ついたち)はしきたりの小豆飯でお昼の食事のとき、飼っていたヒヨコがピーピー鳴くんです。ああいうとき、生き物は敏感ですね。不審に思って様子を見に行ったら、ガタガタと地震……。

 その瞬間、父が、赤飯の入った御櫃(おひつ)を「お膳の下に隠せ!」って言うんです。近くの神明神社に逃げましたの。
 それからは、同じように朝鮮人騒ぎでね、家には帰れないし、家の畳を何畳か神社の境内に持ち込み、そこで野宿しましたのよ。そのとき、食べ残した御櫃の中の赤飯を食べ、美味しかったこと!

 その後、火災が発生。鶴見の生麦から神奈川の子安まで燃え続け、横浜からは東神奈川の権現様あたりまで焼き尽くしたのです。わが家は焼けませんでしたが、柱時計が1158分で、止まっていましたの。

 そのとき、子供の私が感動したのは父の気転の良さでした。
 町内の糸屋さんから木綿糸、豆腐屋さんから菜種油などを集めてきて、即席で何本も明かり≠つくったのですね。それを町中の電信柱に付けて歩きましたの。
 お蔭で真っ暗闇の神明町内に、かすかながら明かりが燈ったのです。こういう不測のとき、「今夜は電気がつくまい」と、咄嵯に判断する父の気転の速さとその行動力に感心したものでした。


山室まさ著『雀のお宿』から
絵:石野英夫



    修羅場の人間模様


藤田 えらいお父様ですね。
 私どもが住む渋谷では避難する下町の人たちの行列、悲惨極まりなかったですね。
 焼けただれた足、ちりぢりになった髪の毛、死んだ子どもを背負った母親、どの人も弱い足どりで多摩川方面へ逃げるためにゾロゾロと道玄坂を登っていく。“極楽浄土の辻”というのは、こういう所かと子供心に想像してみたものです。

山室 私どもも東海道筋の神明町でしょう。関西方面から東京の親戚へ見舞に行く人、被害者の人、そういう方がどんどん通りましたよ。
 今でも目に焼きついて残っているのは、手足がダランとして紫色になった死んだ子を母親が捨てるわけにもいかず、抱いて避難する光景。
 家には井戸がありまして、井戸水をどんどん汲んでは一斗樽(ひとだる)に入れ、表の大通りに出しました。と、一升瓶を待っていた通行人がつぎつぎと「見舞に行くんだから、ください」と拝むように。

  こんな時すら、よその倉庫から材料を盗み出して“田舎饅頭”を作って売っている人もいたんですからねえ……。

藤田 私たちは子供ころから「水ほど大切なものはない」と聞いているんですね。母子5人が逃げるときも、水を入れた1升瓶2本と先祖のお位牌(いはい)を持ち、母が自分の腰に手ぬぐいをまいて、4人の子供がこれにつかまってゾロゾロあとに続くのですね。

 下町から避難したお友達の話ですと、「喉が乾いて、喉が乾いて」と。腰巻きをほどき、それに腰紐をつなげ、死体がたくさん浮いている川に垂れ下げる。そして、それを引き上げて絞って飲んだというんですもの……。


黒煙に包まれ、大混雑の2代目横浜駅(高島町)
デマが飛び交い、我先に貨車に飛び乗り、逃げ急ぐ人々
 提供:長谷川弘和さん(西区伊勢町)




  元町のトンネルの上から壊滅状態の元町、山下町、桟橋方面を望む

 震源地に近い横浜市内は東京以上の被害。死者2万3000人余。当時の人口の5.4%であった

  提供:常盤義和さん(港北区新吉田東)



 
横浜大空襲体験談ーー山室まささん


     非常時こそ人の本性が……


司会 山室さんは“横浜空襲”にも遭ったのでしたよね。

山室 529日の横浜空襲で町内の全部が焼けてしまいましたの。朝8時何分かに敵機がきたという知らせ……。またいつもの偵察機かと思っていたのに、数十機のB29がまず神奈川警察署の方向に焼夷弾を一発! それが36個に散らばって、バラバラと……。

  危険を感じた私は、3人の幼い女の子のうち1人を母がおぶい、私が1人を背に長女の手を引き、最初はお宮の境内、つぎに神奈川小学校の校庭へと。
  最後に海べりの横浜中央市場へ逃げようと第一国道を歩いていると、3〜4人の兵卒を連れた将校さんがこちらへ向かってくるではありませんか。てっきり、私たちを助けてくれると思ったんです。すれ違いざまに、「MM岸壁はどこだ?」と尋ねるから行き先を教えましたの。ところが、兵隊さんだけが海の方へさっと逃げ去ってしまったのです。
 あとで「あんな兵隊がいるから日本は負けたのよね〜」なんて笑い話にしたんですけど……。

 横浜中央市場に着いたら、ちょうど1隻の修繕船が浅野ドックに入港していて、「早くこれに乗りなさい!」と船員さん。船が沖の方へ進むと、海面に炎のついた油がべったりと浮いていて、それが船の周囲に流れてくるのです。それを船員さん達が「船が燃えちゃ困るから」と長い棒で何時間も追いはらっている。

  そんな最中、ゲートル巻いた大学生たちが、甲板でお弁当を食べ始めたのです。すると母が「もしもし学生さん、お弁当食べるのも結構ですが、ここに小さい子達がいるんですから、むこう向いて食べてください」。と、その学生は、くるっと向きを変えて平然と食べ続けるの。


  しばらくして船員さんが「すいません、これ船員のご飯をお握りにしました。お子さんだけでも食べてください」。感動いたしましたねえ、この親切心。

 陸上の静まりを待って、いよいよ下船という時のことです。だれも一刻も早く家族の安否や家の様子を知りたいと、われ先に急ぐのでした。

  そのとき戦闘帽をかぶった紳士が最後まで船上に残り、甲板で「皆さん!」と叫んだ。みんなが振り向くと、 
 「私は
3度焼け出されたんです。横浜空襲はたった1度。1度の空襲でそんなにめげず、元気を出してください! この船は芙蓉丸と言います。もし皆さんが命永らえたなら、この船にお礼状を出してください。さあ皆さん、元気で別れましょう。天皇陛下バンザイ!」
ってね。

 
今でも、この紳士の勇気ある劇的シーンは忘れられませんね。私たちはこの言葉に励まされ上陸しましたら、なんと町中が焼野原になっていました……。


山室まさ著『雀のお宿』から
絵:石野英夫









      忘れられない玉音放送


小林 関東大震災と空襲の戦災とをくらべれば、どちらも恐ろしかったけれども、私は震災のほうが怖かった。何が起こるかわからない天然現象だからね。片や人間のやることだから、そう長く続くとは思わなかったね。

 精神的打撃の大きかったのは、あの陛下の
815日のお言葉「おうみこころかしこきの」、あの玉音放送。あのときの印象は忘れませんねえ。


皇居前で


工場で従業員が


家族が

池谷 終戦の翌日、私は学徒動員で学校へ行くため綱島駅から渋谷駅まで東横線に乗ったのです。
 で、そのとき日本人が果たしてどういう態度を取るか、と観察してみたんですね。乗客のみんなが下を向いててね、ただ黙っている。全員だれ〜も喋らないんですね。
 イギリスが第一次大戦で日独の連合軍に破れ降伏したときも、国民が意気消沈していたという新聞記事を読んで知っていました。今度は、日本がその逆の立場に立ったんだなあ、とあの乗客の態度から実感した覚えがあります。

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