編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏 / ロゴ:配野美矢子
NO.328 2014.10.27  掲載

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 「第8回誌上座談会」
      
<わが東横沿線を語る>
   
  出席者:東横沿線7区の代表8名
  会場:「とうよこ沿線」編集室
 


    心に残るあの時(抜粋そのU)
         

   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和62年7月20日発行本誌No.39 創刊7周年記念号 号名「槿
(むくげ)」

   文:岩田忠利
(本誌編集長)    座談会撮影:本田芳治(菊名)
   

出席者の顔ぶれ(各区代表)

藤田佳世さん 渋谷区代表。渋谷区桜丘在住。鶴見区に生まれ、3歳から渋谷育ち、。最近まで陶器店・お好み焼店の経営者。著書『大正・渋谷道玄坂』ほか2冊。76
前川正男さん

目黒区代表。目黒区八雲在住。代官山に生まれ。陸軍中尉を経て中島飛行機へ。戦後日本IBM設立に参画。本誌連載「とうよこ沿線物語」執筆。71

小林英男さん 中原区代表。中原区小杉御殿町在住。旧中原町助役、元川崎市議、昭和59年度川崎文化賞、本年藍綬褒章受章。73年間書き続ける記録歴は日本一。85
鈴木 宗さん

世田谷区代表。世田谷区奥沢在住の奥沢っ子。戦時中は近衛連隊兵役。戦後は信用金庫に20年勤務。区文化財指導員。奥沢の縄文展等を主催。68

山口知明さん
大田区代表。大田区田園調布在住。東京生まれ、北海道で新聞記者を経て、昭和9年から社団法人の町会「田園調布会」に勤め、現在同会副会長。87
池谷光朗さん 港北区代表。港北区綱島東在住。武蔵工大卒。終戦直後の農地解放から500年の旧家を守るため農業に従事。現在はゴルフ練習場経営。61
照本 力さん

神奈川区代表。神奈川区東神奈川在住。東京外語大に進学後、終戦で中退。昭和23年から神奈川熊野神社ほか11社の宮司を務める。59

山室まささん

港北区・神奈川区代表。港北区新羽町在住。宿場町神奈川に生まれ、女学校出のタイピストの草分け。戦災後現在地に移り、今は明治生命現役。75

司会岩田忠利 「東横沿線を語る会」代表。本誌編集長 



     桃畑で映画ロケ


司会 池谷さん、子供の頃の印象強い思い出はどんなことでしょうか。

池谷 私は大正末期の生まれですから、綱島の昭和初期の話をしましょう。小林さんが言われたように、大正15年に東横線が敷かれてから綱島村は急速に発展いたしました。それまでの地場産業は明治30年以来の桃栽培。当時はもちろん、農家ばっかりでした。

  昭和の初めの頃、春ともなると、蒲田の松竹撮影所が桃畑での映画ロケをやるんです。私の家を宿にして女優の川崎弘子や清水宏監督が縁側で昼食を食べたりして……。桃の花一色の桃畑、その農道にレールを敷き、撮影機材を積んで移動する。そんな光景を子供心によく覚えていますよ。

司会 川崎弘子といえば、川崎出身で弘法大師の弘″を取って芸名にしたとか。彼女は福田蘭童氏と結婚して東白楽駅のそば、鳥越に住んでいたんですね。



池谷光朗さん
(港北区代表)




   花見客の空瓶で小遣い稼ぎする子供たち


池谷 春の綱島は、桃と桜が花盛り。そのときの賑わいといったら、今のマンションが建ち並ぶ綱島では想像もできないでしょう。
  鶴見川の川沿い、線路の両側にも桃の木がいっぱい。旅館も10軒ほど。東京や横浜からの花見客は、鉱泉の綱島温泉でひと風呂浴びてから帰るのですが、鶴見川の土手ではあちこちで酒盛りが始まって、酔っ払いが大騒ぎ……といった思い出があります。

司会 大人が花見で浮かれているとき、地元の子供たちはどうしているんでしょう?

池谷 その辺の畑にサイダー瓶がいっぱい落ちているんですよ。それを拾って子供同士でクズ屋に持って行く。それが、子供の唯一のお金儲けの手段であり、楽しみというわけ。でも、がっかりしちゃいますよ。花見の前と花見後では相場が10分の1くらいに落ちちゃうんですからね。



当時の川幅は子どもが飛び込んで一息で対岸に着けたほどでした。水は澄んだ清流で、飲料水として使っていました  提供:池谷光朗さん



   身近だった鶴見川


司会 池谷さんのお宅は鶴見川のすぐ近く、屋号が“河岸(かし)”でしたね。子供の頃の鶴見川は、どんなでしたか。

池谷 当時の鶴見川には、ウナギ・コイ・フナはもちろん、手長エビ・モクゾウガニがたくさんいましたよ。釣りや四手網、竹で編んだ“ド”なんかでよく魚捕りして遊びましたねえ。

 当時学校にはプールがなかったですから、先生が授業として鶴見川で水泳を教えたり…。また鶴見川の水でお茶を飲むと、非常にまろやかで美味しいというのでわが家の祖父母は、よく鶴見川まで水汲みに行きましたよ。昔の鶴見川はいろんな恵みがあり、とても身近でしたねえ。

司会 現在の綱島には桃の木は殆ど残っていませんが、桃栄会商店街・桃雲台という場所・ピーチゴルフセンターなど桃にちなんだ名前が往時を物語っています。綱島桃″の創始者は、池谷さんのおじいちゃま・道太郎さんでしたね。

池谷 そんな先祖の苦心を偲ぶという意味もあって、わが家ではまだ桃栽培をやっています。もう私の所くらいでしょう、綱島では。



      地名「かながわ」の由来は…


司会 神奈川県のかながわという地名のルーツは、江戸時代多くの旅籠屋(はたごや)が軒を並べていた東海道の“神奈川宿”あたりともいわれています。照本さんは、その由緒ある町で代々宮司さんをしていらっしゃる。地名の由来はどうお考えで?

照本 神奈川″の地名は、東海道の神奈川宿にあった旧町名の神明町に流れていた神無川″という小川があります。「かんながわ」がつまって「かながわ」と…。この説を他の地区の人が聞くと、問題ありと言いますが、われわれ地元ではそう信じています。



       憧れた東横線


司会 照本さんのお宅の周囲も鉄道が何本も通り、いくつも駅がありますね。

照本 早くから展(ひら)けた地ですからね。JRの東海道線と横浜線、京浜急行と東横線と…。今の横浜線は、むかし“原町田線”といって原町田まで行っていたんですね。あの辺の東横線の駅も戦災をうけて神奈川区内だけでも2駅がなくなっています。反町〜東白楽間の「新大田町」駅、それから横浜〜反町間のトンネルを抜けてすぐ脇にあった「神奈川」駅、どちらも駅間隔が短かかったのですが、空襲に遭って戦災後に廃駅になりました。東横線だけでもこれだけ駅があったということは、町が栄え、乗降客が多かったからかな。

司会 こんなに何本も鉄道が走っていて、照本さんの学生時代はどの線を使っていましたか。
照本 旧制中学が西区藤柵にあった横浜第一中学校(現希望が丘高校)でしたので、京浜急行を主に…。         



照本 力さん
(神奈川区代表)

で、東横線で通っている友達はみな頭の良いハイクラスの連中が多くてね、あの東横線を羨しいと思ったものですよ。その当時の京浜急行の車体はボロっちかったからねえ。わざわざ横浜駅で京浜急行から東横線に乗り換えて反町駅で降りたり東白楽駅で降りたりして遠回りしてねえ、東横線には憧れたものですよ。




   東神奈川〜綱島間の乗合馬車


司会 山室さんの幼少期、幼い目に映った、特に珍しいものといったら?

山室 一頭立ての乗合馬車、それに御者が真鍮(しんちゅう)のラッパを吹いてガタガタ進む情景は、今になると珍しく、懐かしいものでした。
 
それは大正67年頃のこと、乗合馬車の発着所は東神奈川駅東口にあり、二ッ谷〜六角橋〜菊名の待合所を通って終点綱島まで行きました。まず第1待合所は現在の神奈川区役所の斜め向かいにあり、広台太田町の足袋屋。つぎは現在の六角橋交差点の所。ここから今の旧綱島街道を曲がってホコリっぽい道をパカパカ走って現在の大綱橋を渡った所が終点でした。


乗合馬車
 これが東横線開通前の、のんびりした唯一の交通機関でしたね。その後、銀色の小さな“乗合自動車”に変わり、震災や東横線の開通であの懐かしい路線も消えてしまいましたねえ。

司会 自転車さえ珍重がられた時代、交通事故なんてありませんよね?

山室 それが、事実あったの。馬が引く馬力車″にさえ轢かれて亡くなった子供がいたんですよ。空車には、私たちお転姿娘があとを追いかけて飛び乗ったりしたものですから、そんな速さですよ。それほど当時は、人も車ものんびりしていたのね。



    “院線”ってどんな鉄道?


司会 日本の国有鉄道は、呼び名が変わっていますが、山室さんの娘時代は何と呼んでいましたか。

山室 娘の頃、伊勢佐木町の入り口の横浜館という活動館に映画を見に行くとき、友達のお母さんが「院線で行きな」と言ったのを聞いて、二人で大笑い……。
 
昭和に入って鉄道院の院線は、すでに鉄道省の管轄で「省線」に変わっていたのです。私が中華街のことを「南京街」と言っては、最近みんなに笑われるのと同じですねえ…。

司会 国有鉄道の呼び方も、いろいろ変わりましたねえ。院線から省線へ、そして“国電”が最近はJRに、と…。


山室まさん
(港北区・神奈川区代表)



大正11年乗合馬車綱島発着所入船旅館前
 手前の橋は水路の橋です。東横線開通前まで東神奈川駅東口〜二ツ谷町〜斎藤分町〜六角橋〜白幡〜仲手原〜菊名〜太尾〜大曽根〜綱島。約1時間かけて走り、運賃は15銭
でした
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