編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏 / ロゴ:配野美矢子
NO.327 2014.10.27  掲載 

        画像はクリックし拡大してご覧ください。

 
 
 「第8回誌上座談会」
        
<わが東横沿線を語る>
   
  出席者:東横沿線7区の代表8名
  会場:「とうよこ沿線」編集室
 

   心に残るあの時(抜粋そのⅠ)
         

   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和62年7月20日発行本誌No.39 創刊7周年記念号 号名「槿
(むくげ)

   文:岩田忠利
(本誌編集長)    座談会撮影:本田芳治(菊名)
   


 
日本が歩んできた過去100年――それは有史以来の激動と変革の1世紀だといわれています。

 ここにお集まりの皆さんは、明治や大正生まれ、社会構造の変化や数々の天災・人災をくぐり抜けてきた私たちの大先輩。沿線各地域の様子や出来事に詳しい人たちばかり。

 そこで創刊7周年を迎えた本号は、沿線の昔を知らない私たちに、その当時の情景や貴重な体験を腹蔵なく語っていただく特集といたしました。どんな話が飛び出すことやら――。



 沿線の土地っ子が昔を語る座談会  「とうよこ沿線」編集室で


出席者の顔ぶれ(各区代表)

藤田佳世さん 渋谷区代表。渋谷区桜丘在住。鶴見区に生まれ、3歳から渋谷育ち、。最近まで陶器店・お好み焼店の経営者。著書『大正・渋谷道玄坂』ほか2冊。76
前川正男さん

目黒区代表。目黒区八雲在住。代官山に生まれ。陸軍中尉を経て中島飛行機へ。戦後日本IBM設立に参画。本誌連載「とうよこ沿線物語」執筆。71

小林英男さん 中原区代表。中原区小杉御殿町在住。旧中原町助役、元川崎市議、昭和59年度川崎文化賞、本年藍綬褒章受章。73年間書き続ける記録歴は日本一。85
鈴木 宗さん

世田谷区代表。世田谷区奥沢在住の奥沢っ子。戦時中は近衛連隊兵役。戦後は信用金庫に20年勤務。区文化財指導員。奥沢の縄文展等を主催。68

山口知明さん
大田区代表。大田区田園調布在住。東京生まれ、北海道で新聞記者を経て、昭和9年から社団法人の町会「田園調布会」に勤め、現在同会副会長。87
池谷光朗さん 港北区代表。港北区綱島東在住。武蔵工大卒。終戦直後の農地解放から500年の旧家を守るため農業に従事。現在はゴルフ練習場経営。61
照本 力さん

神奈川区代表。神奈川区東神奈川在住。東京外語大に進学後、終戦で中退。昭和23年から神奈川熊野神社ほか11社の宮司を務める。59

山室まささん

港北区・神奈川区代表。港北区新羽町在住。宿場町神奈川に生まれ、女学校出のタイピストの草分け。戦災後現在地に移り、今は明治生命現役。75

司会岩田忠利 「東横沿線を語る会」代表。本誌編集長 




   道端に花が咲き、提灯持って歩く渋谷の70年前


司会 まず最初に渋谷の藤田さん、子供の頃の渋谷で思い出す風景といったら、どんな情景ですか。

藤田 私が子供の頃といえば約70年前、物心ついた78歳ですね。今の東急本店がある場所に、大向小学校がその頃建ちまして、それ以前は笹藪でした。

 渋谷川のほとりに群れ咲く小菊の色を覚えていることからして、盛り場・道玄坂の歴史はそんなに古いものではございません。
 今の目まぐるしい雑踏は大正
12年の関東大震災以後であり、さらに昭和20年の終戦後その頂点に達したといえましょう。

 50年ほど前、この辺りは東京府豊多摩都中渋谷と呼んで、表通りを一歩入れば、タンポポ・スミレの咲く道がありました。その道に続く代々木上原、富ヶ谷、深町あたりから買物にくるには畦道を踏んでくる人も多く、陽が暮れてからは提灯を持って歩くほどの夜道が暗かったのを覚えていますね。
 
 当時の道玄坂の道幅は今よりぐっと狭く、勾配は今の倍以上急でした。で、人も車も左書きの〝く″の字をたどってやっと登って行ったのですね。当然舗装などしてありませんので、ひと雨降れば雪駄(せった)を取られるほどのぬかるみに……。
 とくに夕立のときは、音をたてて流れ落ちる水で、坂下の街はたちまち水浸しになったものです。また5日も天気が続けば、土煙りが舞いあがり、坂下の十字路左角にあった大盛堂書店脇の木の下に手引きの撒水車がありましたが、一日に何回も水を撒いても焼け石に水といった状態でした。



    大正6年の大向小学校

校舎後方の2階建ての家は、忠犬ハチ公の飼い主・上野栄三郎東京農大教授の家。現在同校敷地は東急百貨店本店に  提供:富士屋酒店(道玄坂2丁目)


藤田佳世さん
(渋谷区代表)

 こんな日に外で遊んで家に飛んで帰ってくると、雑巾を持ったおっかさんが「まあ、その足は一体なんだねえ、ダメダメ拭かなくっちゃあ」と追いかけてきたものですよ。

司会 子供の頃の田舎での生活を思い出しますね。渋谷の昔の風景が絵のように浮かんできます。渋谷もそんなのどかな時代があったのですねえ。

藤田 昔あの辺が田圃であったことや駅前の蓮沼に白サギが舞いおりた話など、信じてもらえる人が少なくなりました。連日あの人混み、あの車の洪水、不夜城のようなネオンの広告塔……もはや渋谷は東京屈指の盛り場ですから無理もございませんが…。




     緑のお陰で人間は生きられる


司会 渋谷だけではなく、東横沿線全域に言えることですが、発展ゆえに〝失ったもの〟も大きいと思います。その代表が“緑”。
 植物が炭酸ガスを吸って酸素を出しているわけですが、人間が
1日に吸う酸素量は約075キログラムで、吐き出している炭酸ガス量が約1キログラムだそうです。
 百万都市川崎の昭和
50年を例にとると、酸素を人間に与えてくれる山林原野が必要量の10分の1と少ない……。それでも川崎市民が生存できるのは、隣接の東京や横浜の〝緑″から出る酸素が風で移動するからだそうですね。



     碁盤の目のように奥沢を開発した先祖


鈴木 奥沢の緑が少なくなったのも大正12年が境でしたね。両隣の調布村や洗足村は渋沢栄一さんが唱えた〝田園都市構想″によって開発が計画されて以来のことです。

 田園調布と洗足への交通の足として大正12年に目蒲線が奥沢を通って開通し、この奥沢にもいや応なしに画期的な変化が生まれたのですね。

 この開発のとき、玉川村全体が農民みずからの手で土地開発して将来に備えようということになった。それには「玉川全円耕地整理組合」というのをつくるから個人に土地を売却したら困る、と……。各地区にこれに猛反対する数々のトラブルがあったようですが、指導者たちは水路や道路を引いたりして耕作しやすい土地に整形化したのですね。
 おかげで奥沢は東玉川、尾山に続いて昭和
15年に今日の碁盤の目のような町の基礎ができたのです。緑は大分減りましたが、これが町の発展につながったと、私たちは先祖に感謝し、喜んでいるのですよ。



鈴木 宗さん
(世田谷区代表


昭和9年奥沢尋常小学校第1回運動会
提供:毛利隆詮さん(奥沢4丁目)



 移り住んだ17軒の先人たち


 司会 奥沢は古くから開発された町だからでしょうか、他の町にくらべ地元の方が多いようですね。

鈴木 わりと昔から住んでいる方が多い町ですね。今から320年前、最初に土地開発しにきた者が17軒ほどありましてね、私の先祖・鈴木は小田原、原姓は小杉の原さんの一族、毛利姓は厚木、富岡姓はやはり小杉周辺から、中山姓は長野県からきているんです。




    東京市編入で2区に分割された田園調布


司会 山口さんは、田園調布会のお仕事をもう50年以上も続けられているそうですが、着任当時の田園調布はどんなだったのですか。

山口 田園調布に家がボツボツ建ち始めた頃、母親の弟が田園調布に家を建てたのです。
 大正7年に東京府荏原郡調布村の一部と玉川村の一部を明治文化の先覚者といわれた渋沢栄一さんがこの街をつくったわけですが、開発分譲されたときすでに自治会が組織されたのですね。
  まだ町会なんていう制度がなかった大正15年に「田園調布会」と名づけられ、その後これが社団法人に……。


山口知明さん
(大田区代表)

ところが、昭和7年に東京市に編入されることになり、大森区と世田谷区に離れたんですよ。玉川の地域は世田谷区がどうしても欲しいというので、あちらに取られちゃったんですね。そうすると、同じ田園調布でも区役所・警察署・郵便局などの管轄が違うので、それぞれ用足しに行ったり通知を別個に分けたり出したり、また負担金が異なったりで事務が繁雑に…。で、そのとき私がブラブラしていたので叔父が「事務をやらないか」と……。

司会 それが昭和何年ですか

山口 昭和9年です。当時から田園調布には各界の一流人が住んでいましてね、役員会なんかで集まると、話を聞いでいるだけでも世間知らずの私には勉強になったんですよ。今では田園調布のことっていうと、私のところヘテレビ局や新聞・雑誌社がきますが、私自身の力でもなんでもありません。ただ長く勤め、皆さんからいろいろ教えてもらったからです。



前川正男さん
(目黒区代表



  60年前の代官山の遊び場


司会 前川さんの生まれは、代官山でしたね。当時の代官山で思い出すことは?

前川 戦前、東横線の渋谷駅と代官山駅との間に「並木橋」という駅がありましたね。自宅が恵比寿駅と代官山駅との中間にありましたので、昭和9年に横浜高等工業学校、今の横浜国大工学部に入学以来、毎日代官山駅から横浜まで通っていました。
 
私の家の裏には赤土で絶壁の山、〝代官山″があって、ここは昔の代官屋敷があった所らしく、要害の高台で山頂は平地。そこは雑木林と原っぱでした。
 子供の頃は不景気だったせいか、その雑木林が〝首吊りの名所″でね、年に何人も決行するんですよ。ヘコ帯に首をかけてブランとぶらさがった光景、よく見に行ったもんですよ。

また、原っぱの奥の草むらの中では、夕方になる10組くらいのアベックの〝濃厚シーン″が見られ、好奇心から偵察に行くのが楽しみでした。いま、あの高台には長谷戸小学校が建っていますよ。で、当時あの辺の子供たちは、割合にマセていたんですね。

司会 〝三つ子の魂百まで〟、当時のボス・前川さんは長じてますますマセてきたのでは? 当時の「同潤会アパート」はどんな風でしたか。

前川 あれが建ったことは、あの辺の画期的な出来事でしたね。きれいでしたよ。日本の建物とは思えない。もう外国へ行ったような感じでした。で、毎日のようにあの建物が映画のロケに使われたりしましてね。同潤会アパートができたおかげで、うちの親父は〝アパート気違い〟になりましてね。晩年自分でアパートばかり何軒も建てていましたよ。




  東横線の始まりは「神奈川線」から


司会 つぎに川崎の〝生き字引″、小林さんには武蔵小杉と新丸子の大正・昭和初期のお話を……。

小林 武蔵小杉駅近辺は大正12年の関東大震災まではあまり変化がなかったんです。被害が少なかったこの辺に横浜や東京の被害者が疎開してきて多少増えましたが、急激に人口が増えたのは、大正15年の東横線開通からですね。

  今の若い人は、渋谷から横浜まで開通したと思うかも知れませんが、そうじゃない。最初は目蒲線と同じ線路を使って別の会社、つまり「東京横浜電鉄」ができて、目蒲線の丸子多摩川駅(※現多摩川駅)を起点にしで神奈川駅(※現在の横浜駅の手前にあった)まで開通したのが大正15年2月、これを“神奈川線”と言って東横線の始まりでしたね。その1年後に丸子多摩川駅から渋谷駅まで延びたんですね。


小林英男さん
(川崎市中原区代表)

戦争中は、京浜急行・小田急までを合併し五島慶太さんが社長となり、〝東京急行″という名前にしていた。東急の力って大きかったんですねえ。




 先に開通した東横線が後発の南武線を跨ぐのは?


司会 
武蔵小杉駅は東横線と南武線のターミナル駅。先に開通した東横線がなぜ後発の南武線を跨ぐ高架化工事に着手したのでしょうか?
小林 南武線は昭和2年3月に川崎~登戸間が開通したのですから、東横線が大正15年で先でしたね。ただ南武線が東横線より先に営業許可を取ったからなのです。で、南武線ができると、東横線が交差点では線路を高くして立体交差にしたんですね。それ以前は東横線も平地を走っていた。その証拠に府中県道には踏切があったんですよ。

司会 戦前、新丸子~元住吉間には武蔵小杉駅ってなかったんですよねえ?

小林 実際、新丸子~武蔵小杉間の距離は600㍍しかない。これにはいろいろイキサツがありましてねえ。
 この武蔵小杉駅は昭和
206月の終戦前になって急遽新設された駅なんです。戦時中この近くには“軍需工場”が多かったので「工業都市」という新駅もできた。急に新駅が二つも建って、しかも駅間距離が442㍍と極端に短かいということで、二つを一つに統合して屋根なしの木造仮駅であった武蔵小杉駅を改造し、南武線と乗り換えできるように…。これが昭和284月のことです。


昭和27年、東横線の南武線をまたぐ工事
提供:青木作蔵さん(新丸子東)
 ちょっとここで南武線についてもひと言。
 大正9
年当時、多摩川の砂利を掘って新しい工場や建物が建つ京浜地区に運ぼうと、「多摩川砂利鉄道」という会社を地元川崎の資本家たちがつくったんですね。が、資金不足で続かず、さらに大資本家・浅野良三らがこれを引き継ぎ「南武鉄道」と社名変更したのです。これが関東大震災に遭って開通が遅れ、ついには国鉄に身売りということに…。

  開通当時第一生命や横浜正金のグラウンドがあったことから「グラウンド前」駅、今の中原区役所の近くに地元の要望でできた「武蔵小杉」駅と南武線にも二つも駅があったんですよ。

 地名である小杉になぜ「武蔵」が付いて「武蔵小杉」になるのかというと、北陸本線の富山~高岡間に「小杉駅」という駅があったからなんですよ。

「とうよこ沿線」TOPに戻る 次ページへ
「目次」に戻る