編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏 / ロゴ:配野美矢子
NO.326 2014.10.26  掲載 

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 「第2回誌上座談会」
        
<わが東横沿線を語る>
   
  出席者:東横沿線7区の土地っ子代表8名
  会場:丸子山王日枝神社社務所(川崎市中原区)
 

   心に残る沿線の暮らし(抜粋そのU)
         

  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和55年12月1日発行本誌No.3 号名「柊
(ひいらぎ)

   文:岩田忠利
(本誌編集長)    座談会撮影:川田英明(日吉)
   


 
明治、大正、昭和の時代、この東横沿線に住むひとびとは、あの時代にどのように暮らし、どのように生きてきたのだろうか――。

 たしかに昔の生活は、物質面では現代と比較にならないほど乏しかった。それで果たして精神面では満たされたのだろうか――。

 沿線の行政区分を越え、座談に加わった7名、あの頃あの時の暮らし向きを、そして隣近所とのふれあいを、大いに語ってもらうことにしよう。



  沿線の土地っ子が昔を語る座談会  丸子山王日枝神社社務所で


出席者の顔ぶれ(各区代表)
安藤金三郎さん 目黒区代表。徳川時代初期から先祖は自由が丘に。自由が丘商店街の前副理事長。いまは同街史編さん委員長。画家。63
川田 需さん 港北区代表。鎌倉時代から続く旧家の当主。川田歯科、歯科医。地元・日吉の風景などの撮影が趣味。70歳
小林英男さん 中原区代表。中原区小杉御殿町在住の7代目。小学校教諭、旧中原町助役、元川崎市議、川崎市文化協会長など歴任。78
斉藤秀夫さん 神奈川区代表。神奈川区旭ヶ丘在住。祖父の代、明治20年代後半から横浜に住む3代目。横浜市立大講師(地域政治論)。51
竹若勇二郎さん
芸名・杵屋勘次
大田区代表。昭和元年から30年まで田園調布に住み、今も仕事場は同地、自宅は中目黒。長唄家元。邦楽東明流家元の64
豊田眞佐男さん 世田谷区代表。江戸時代の家業は酒造業で、いまの屋号が“酒屋”。世田谷区歴史研究会理事、民生委員。俳人。56
和田由美さん 渋谷の資料を持参、オブザーバーで出席。両人はいとこ同士。先祖は元禄12年創業の酒問屋、宮益坂にあった「橋和屋」
渡辺昌枝さん
司会 岩田忠利 「東横沿線を語る会」代表。本誌編集長




     昔の人の健脚ぶりは……


司会 昔の人は日吉から羽田まで肥桶かついで通ったなんて話を聞きますが、本当なんですかねえ?

川田 だって、こんな実話があるんですよ。大正6、7年の頃、箕輪(港北区箕輪町)の小泉さんの茅ぶきの大きな家が燃えたんです。

  その時、ウチの親戚の人が青竹を切って来て屋根の上で火の粉を振りはらっていて落下したんです。そして大怪我しちゃった。

 すると、その怪我人を戸板の上に乗せ、若衆4人がそれぞれ戸板の角を持ってかついで、医者に連れてったんです。

  そのコースは日吉を出て、矢上〜鹿島田〜小向〜川崎まで行ったら名倉接骨医が休み……。「それじゃ、千住の名倉に行こう!」ということに…。さらに六郷橋を渡って行くんですよ。それから銀座の近くいまの昭和通りの旧道をどんどんのぼって、ついに千住の名倉接骨医のところへ駆け込んだというんですからねえ。

 当時の連中の一人が日吉本町の加藤小太郎さん(写真右)といって、88歳でまだピンピンしてますよ。



怪我人を戸板に乗せて日吉から千住までかついて行った加藤小太郎さん

司会 みなさん、スゴイ健脚ですねえ! また人を助けようの一心からの行動でしょうが、人間関係の絆が強いのですね。ほかにどなたか忘れれない出来事ってありますか。



    大震災の前日、75`も捕れたウナギ


川田 もう1件、忘れられないことがありますよ。ウチの近くに“四畝割り”といって小舟でないと田植えのできない沼地があってねえ。そこに村の連中が集まってかい捕り≠オたんだよ。
 すると、ウナギが20貫(約
75キロ)も捕れた! それを村中に分けたけど、まだドッサリあった。翌日の昼飯に「さァ、ウナギでも食おう」という時です。ガタガタガタ……。あれですよ、例の関東大震災、大正12年9月1日! 

 ふしぎなんですよねえ……、ふだん一匹も釣れないウナギがあの日に限ってこんな大漁で…。忘れもしない。あの日午前中は、かなりの雨が降ったと思ったらお天道様が照ったりして、そのあと大地震でした。

司会 うむ、地震とウナギ――、なにか関係でもあるんでしょうか。ところで、あのウナギのご馳走、どうしました?
川田 いやあ、食べるどころの話じゃないですよ。地震でびっくりし、余震も怖くて覚えていないねえ……。




    天皇の鶴のひと声で二子橋ができる


 

司会 ではここで、東京と神奈川を結ぶ交通の接点となった橋″のお話をうかがいたいと思います。

豊田 まず橋の話ですが、いまの天皇陛下(※昭和天皇)が大正12年に関東大演習視察にこられた。当時、大演習本部が世田谷の瀬田、行善寺にあったんですね。それでその時、陛下が「多摩川に橋がないと不便だなあ」とおっしゃった。その鶴のひと声で大正15年にできたのが“二子橋”でした。設計などいろいろご苦労されたのが、名前は忘れましたが、当時の陸軍工兵大佐の方でしたねえ。

小林 その大演習の時、臨時に架橋したのが“丸子橋”でしたね。でも翌年の大水で流れてしまったけど……。



大正14年完成の二子橋
提供:森 倫平さん



    東京側の非協力で難航した丸子橋架橋


司会 丸子橋が開通したのは、たしか昭和10年。あの当時のことを小杉地区のお年寄りに聞くと、沿線住民の生活の変化がよくわかりますね。渡しでしか東京へ行けなかった人たちが徒歩や荷車でどんどん行き来する。逆に東京側からも…。川崎側の住民は農業をやめて出稼ぎに出る者がふえたり、東京側住民は、地所の安いこちらに家を建てる者がふえたり……。ともかく、東横線と丸子橋の開通は、沿線住民の生活や文化の向上に大きな役割を果たしたことになりますね。

小林 橋の建設は当時、内務省が3分の1、両方の府県が3分の1ずつ負担するのが建前だったんです。丸子橋の場合、神奈川県側がいくら運動しても東京側がタメ……。中原街道の大崎(※品川区大崎)までの沿線の住民が非協力的だったんですね。
  ところが、二子橋が早くできたので、こちら神奈川側の住民がどんどん二子橋を渡って東京に出る。大崎あたりの商店は困っちゃって……。

司会 客の流れが変って、商店の売上げが減退したんですね。

小林 そうです。めし屋や衣料品店など軒並み……。それで東京側が目覚めたのと、神奈川側の建設推進の猛運動とあいまって、ようやく念願かなったわけです。

司会 丸子橋開通後の変化は……。

小林 橋ができてからは、小杉地区の農家はもっぱら肥い引き″といって下肥を取りに三田、二本榎、青山、渋谷、目黒の方にまで足をのばすようになった。また、二子橋ができてからはあっちの大山街道が賑やかになって、中原街道の人出は逆に少くなった。でも、丸子橋ができて、また復活したんです。



昭和10年5月11日、丸子橋の渡り初め式
提供:羽田 猛さん(矢向)



     子供の頃から花柳界へ


司会 家元さん(竹若)の子供の頃の思い出で、とくに印象的なことってありましたら……。
竹若 ハイ、私の母は芸人でして、ふつうの親とちがっていました。「子供を遊ばせなきゃあ」と私と兄を連れてってくれた場所が……。皆さん、どこだとお思いです? 田園調布から人力車で花柳界へ……。それが当時有名な“多摩川の丸子”でしたよ。

司会 ふ〜ん、そりゃあ、お話のわかる母上でしたこと……(笑い)。いまじゃ、考えられませんねえ。で、そこはどうでした?

竹若 とてもいい風情でしたねえ。でも、子供心に残念だった想いを覚えていまして……。いいお姐(ねえ)さんが来るかと思っていたら、おばあさんばっかり……。それにはビックリしましたよ。「これが芸者衆か…」と思ってねえ。


昭和23年、新丸子三業地の芸者衆が渡し船で遊覧    提供:榎本幹雄さん



    新丸子三業地の大料亭、丸子園


司会 粋なお話のついでに小林さん、お宅の近くにあった丸子園″の様子を知っておりましたら……。

小林 東京から丸子橋を渡ってくると、すぐのところ、現在の日本電気千草寮となっている場所に丸子園があった。京橋に三河屋というキャンデー屋の社長で大竹幾次郎という人がいたんですね。この人が従業員のレクレーションのために施設をつくろう、と田んぼを買い、そこに立派な建物を建てた。それが丸子園という多摩川べりの料亭。大竹氏はこれを建てるのに、大工、とび職、左官などの職人の手間賃のかわりに丸子園株式会社の株券を渡した。だから、そういう人たちにも利用され繁盛したんですね。
 周囲は田んぼばかりだったのに、東横線が開通したりして、東京からも川ひとつ渡ると丸子園、みんなハネをのばして遊べたんでしょうねえ。いつの間にか、新丸子三業地の中心となっちゃった。



    人出30万人、京浜最大の花火大会


司会 その頃、多摩川の花火大会″というのが賑わったそうですね。

小林 丸子の花火は、丸子園の社長が三河の国(※愛知県)の出身だから「三河花火」の花火師を呼んだ。それがはじまり……。東急や新聞社、地元の協力であの花火は多摩川名物となっていったんですね。
 

 私は昭和4、5年ごろ青年団の役員で、花火大会のたびごとに、警備やなにやらで召集されました。ま、おかげで弁当をもらって、いちばんいい席で花火見物ができましたけどねえ(笑い)。

司会 見物客はどの程度あったんですか。
小林 30万人くらいでしょう。
司会 花火見物の仕方は、小林さんみたいに桟敷で見物するのが最高ですか。
小林 最高はもっと上がありましたよ(笑い)。いちばん高級なのは、東京の人たちが多摩川べりの料亭にあがって、浴衣がけで女性と一緒に花火を見ながら一杯、そして花火が終わってゆっくり洒を…、というのでした。中程度は堤防桟敷。一般のだれでも見られるのが洪水敷という広場、ここは無料の席でした。ともかく、丸子の花火はとても大きくて3尺玉なんていうのも打ち上げて、京浜地区ではおそらく一番有名だったでしょう。

司会 それほどまでに有名な花火が、どうしてなくなったんでしょう?
小林 戦争で廃止になり、戦後また復活したのですが、車の交通量が急増し大渋滞になるという交通事情のためにできなくなったのですね。



昭和25年5月のポスター
提供:羽田 猛さん(矢向)



    学徒動員、空襲、米軍駐留、耐乏生活


司会 斉藤先生は昭和生まれ、あの世代の人たちは、とくに戦中戦後の激動の時代が青少年期でしたが……。

斉藤 そうだと思います。昭和10年頃、あの支那事変までの生活とその後の昭和19年までの空襲が繰り返される戦時中の生活、昭和20年から25年頃までの戦後の耐乏生活、そして今日の生活、大きな波がありましたねえ。
 私の場合、昭和1213年頃ですと、神奈川町のはずれに住んでいましたが、遠足にはキャラメル、チョコレート、パンを持っていきましたよ。それが1718年になると生活が急に厳しく…。私なんか中学校の頃、学徒動員に…‥。工場に行くと、中学生は子供扱いでお菓子の配給があったり、一方ではタバコやお酒がもらえたりしてね。もちろん私はまだ、お菓子を持って家に帰るほうでしたよ(笑い)。

 あの頃、神奈川区は主要部の20パ−セントが米軍に占領され、現在の瑞穂桟橋(みずほさんばし)は兵員と兵器輸送の重要な港でね、ここを中心として神奈川区を接収、東横線のガードまでは全部接収されましたよ。私の家はガードの少し山寄りですが、ガードを越すと米軍の自動車置場やキャンプ、それが海まで続いていました。

 そのために、旧家などの広い家はその土地から追い立てられた。そこでそういう人たちが住むために、従来住んでいたこちら側の人たちは、土地を分けてやらなければいけなくなった。だから、みんな30坪以下の狭い土地になったんですね。こうして戦後、生活はすっかり変わっちゃった。生活は狭苦しくなり、隣近所の付き合いも狂ってきました。

司会 まったく変化の激しい時代が青春期だったわけですね。それも、すべて戦争がエポックとなって…。
斉藤 全くそうでしたねえ。



    日本一、遺跡の多い東横沿線


司会 私は考古学にはまったく無知ですが、東横沿線はどこよりも古墳が多いんだそうですね、斉藤先生?

斉藤 そうなんです。考古学の遺跡が日本一多いのが、南関東。その中でいちばん多いのは、横浜市の港北区から川崎市の幸区にかけてですね。東横沿線の地名がついでいる有名な遺跡があるんですよ。

司会 そう…、そこは一体どこでしょう?

斉藤 縄文式時代ですと、菊名式≠ニいうのがあります。それは菊名・表谷から発掘されたものです。日本でいちばんよく知られている縄文式遺跡は三ツ沢貝塚=B東横線の反町駅と横浜駅を三角で結んだ頂点にあたる三ツ沢というところで発見された。
 日本でいちばん最初は大森貝塚ですが、つぎはここでしたねえ。これが日本の考古学の基礎をつくったんです。この地域は今でも貝塚だらけで、うっかりしていると、お庭まで……という感じ。考古学では貴重な地域なんです。


 古墳のなかには横穴古墳といって崖っぷちに穴を掘り、遺体を祭るんです。村落ができるようになると、そこに家族を葬った。そういうものが大倉山駅から梅林の下を奥に入ると、観音崎≠ェある。とくに横穴古墳が見られるのは、この地域ですね。



 昭和7年4月、外国にまで紹介された菊名貝塚
 
菊名西口・表谷の発掘現場でオランダの先史学者・カルレンフェルス博士を囲んで
 提供柴田哲彦さん



    綱島や丸子橋あたりは海の底だった


司会 私たちが日頃生活しながら気づかない場所に、こんなにも多くの古代文化が眠っているとは……。ところで私たちが、よく観音塚″といいますが、これはどういうものですか。

斉藤 人間の形をした埴輪(はにわ)が古墳から出てきた。しかしこの埴輪が何だかわからないで、観音さまを敬愛する人たちが「観音さまが出てきた」なんて言ったんですね。
 この東横沿線には、田園調布の亀甲山から大田区久が原の方面にかけては、弥生時代のものが多く発掘されました。だから弥生時代の形式の中に久が原式″というのがあるんですよ。

司会 綱島の北の方、港北区新吉田に“貝塚”という地名がありますね。あそこのある農家では貝があまり出てきて井戸が掘れなかったそうです。綱島あたりは、大昔どんな所だったんでしょうか。

斉藤 綱島は大昔、島″だった。あそこまで東京湾で、いまの綱島はほとんど海の底だったんですね。だからあの周辺にはかなり大きな貝塚がたくさんありますよ。
豊田 文献によれば、5、6千年前までは、丸子橋までは東京湾の海水でした。多摩川園駅の西側にある多摩川台公園や亀甲山古墳、あれも3、4世紀の古墳で豪族のものですね。世田谷の古墳よりも古いらしい。

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