編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏 / ロゴ:配野美矢子
NO.325 2014.10.25  掲載

        画像はクリックし拡大してご覧ください。

 
 
 「第2回誌上座談会」
       
<わが東横沿線を語る>
   
  出席者:東横沿線7区の土地っ子代表8名
  会場:丸子山王日枝神社社務所(川崎市中原区)
 

  心に残る沿線の暮らし(抜粋そのT)
         

  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”


   掲載記事:昭和55年12月1日発行本誌No.3 号名「柊
(ひいらぎ)

   文:岩田忠利
(本誌編集長)    座談会撮影:川田英明(日吉)
   


 
明治、大正、昭和の時代、この東横沿線に住むひとびとは、あの時代にどのように暮らし、どのように生きてきたのだろうか――。

 たしかに昔の生活は、物質面では現代と比較にならないほど乏しかった。それで果たして精神面では満たされたのだろうか――。

 沿線の行政区分を越え、座談に加わった7名、あの頃あの時の暮らし向きを、そして隣近所とのふれあいを、大いに語ってもらうことにしよう。



沿線の土地っ子が昔を語る座談会    丸子山王日枝神社社務所で
出席者の顔ぶれ(各区代表)
安藤金三郎さん 目黒区代表。徳川時代初期から先祖は自由が丘に。自由が丘商店街の前副理事長。いまは同街史編さん委員長。画家。63
川田 需さん 港北区代表。鎌倉時代から続く旧家の当主。川田歯科、歯科医。地元・日吉の風景などの撮影が趣味。70歳
小林英男さん 中原区代表。中原区小杉御殿町在住の7代目。小学校教諭、旧中原町助役、元川崎市議、川崎市文化協会長など歴任。78
斉藤秀夫さん 神奈川区代表。神奈川区旭ヶ丘在住。祖父の代、明治20年代後半から横浜に住む3代目。横浜市立大講師(地域政治論)。51
竹若勇二郎さん
芸名・杵屋勘次
大田区代表。昭和元年から30年まで田園調布に住み、今も仕事場は同地、自宅は中目黒。長唄家元。邦楽東明流家元の64
豊田眞佐男さん 世田谷区代表。江戸時代の家業は酒造業で、いまの屋号が“酒屋”。世田谷区歴史研究会理事、民生委員。俳人。56
和田由美さん 渋谷の資料を持参、オブザーバーで出席。両人はいとこ同士。先祖は元禄12年創業の酒問屋、宮益坂にあった「橋和屋」
渡辺昌枝さん
司会 岩田忠利 「東横沿線を語る会」代表。本誌編集長



     自給自足の食生活


司会 皆さんがまだ子供だった頃、どんな暮らし向きだったのか……。まず食生活面や衣料面から伺いましょう。豊田さんからお願いします。

豊田 そうですね、私の小学生の頃は大変貧しい時代でした。食べ物にしても、父の晩酌の一番のご馳走は豆腐、あとはイモの煮たのとかで……。肉なんて年に何回もなく、栄養価の低いものばかりでしたね。お小遣いも、子供はほとんど無かった。縁日はとても楽しみなものでしたが、せいぜい1銭玉ひとつ。良家の子弟が7銭ほどで…。

司会 それでどんなものを買えましたかねえ?

豊田 縁日では双六(すごろく)のような「ダッコ」っていうのとか……。アメや大福、そんなものですよ。(皆さん、懐かしそうにうなずく)。
当時、いまの世田谷区等々力のあたりは農村でしたから、小学生の通学着はほとんど着物。立派な家では羽織はかま姿でした。洋服は私のクラスでは私のほかに3人だけ。本当に貧しかったんですねえ。

司会 履物はどんなでしたか?
豊田 草履でした。ときには親が作ってくれた草履でねえ。



豊田眞佐男さん
(世田谷区代表)

小林 竹の皮のやつですか。竹の皮の草履なんていいほうでしたよ。

安藤 自由が丘あたりの農家は、今では“新年会”といいますが、昔はおせち″といって、ヌタ、イモの煮もの、ダイコンのなます、油揚の煮ものなど、農家のおかみさんたちが宿″という家に集まり、家中、子どもたちも一緒に行ってご馳走になるのが楽しかったんです。
 とくにあの辺の農家は、お米のちゃんとしたのは出荷しなきゃいけないので、クズものが一番の主食だった。私の友人なんか昭和の初め頃、かつお節を入れた味嗜汁が「生臭くて食えない」と言っていた。もちろん手造り味噌だったからねえ…‥。

小林 くず米をよく食べましたが、引き割り≠ニいう麦なんです。麦は皮が硬いから石臼 (いしうす)で引いたのでヒキワリと言ったのです。その後、精麦技術が進歩して押し麦″として食べました。

司会 川田さん日吉ではいかがでしたか

川田 当時、食糧はみんな家庭でつくったもんですよ。日吉には味噌屋はなかったし、醤油だって家で…。昔のこの辺ではほとんどのウチが食べ物は買わずに済みましたねえ。

  だって米や麦、穀類の大豆、小豆、野菜なんかはあるでしょう。季節ごとにくだものがカキ、クリ、イチジグ、モモ……。スイカ畑があったり……。生活は自給自足でやるもんだ、と思っていたんです。子供のお小遣いなんてもらっても買う物がなかったからねえ。
 毎年暮れにつく寒餅を加工して食べたり、団子を食べたり……。牛肉なんかは、親父が川崎の郡役所へ行ったとき、タケウチという牛肉屋で買ってくるときくらいしか、食べられなかったね。


川田 需
さん
(港北区代表)


竹若勇二郎さん
(大田区代表)
司会 家元さん(竹若)は田園調布にお住いになっていて、どんな食べ物を?

竹若 倹(つま)しゅうございました。父が東芝に勤めていて、安月給だったものですから……。肉だって月1回くらい、ひじき、煮豆などが多かったですね。その代わり、お新香だけは山のように出ていた記憶がありますけど……(笑い)。
 物売りがよく来ましたぬえ。豆売りなんかは、新聞紙を三角に折ってその中に入れてくれたりして……。え、え〜、魚や、豆腐や、煮豆や、豆腐売りなんかは、あのラッパの音や独特の売り声、懐かしい思い出となってしまいましたね。



      毎月あった「お正月」


司会 お隣近所とのお付き合いでまず、どんな呼び名でお付き合いが始まるのでしょうか?
 川田さんの日吉では、どんな風に呼ぶのですか。

川田 商売をやっいる家なんかは、職業で呼んでいましたね。車や(人力車乗)、篭や、桶や、傘や、油や、醤油や、紺や……なんて。農家は同じ苗字の家が多いので、その家のある位置や地形、「前や後、向かえ」」とか「坂下」や「寺前」とか…。うちは背戸んち″と呼ばれていたっけ。

司会 昔の人は、乗り物も農機具などもなく、身体を酷使したと思いますが、どんな風に休息したのでしょうか?

川田 昔の本正月は旧暦で2月だったんですね。もう一つの意味、身体を休めるためのお正月≠ェあった(笑い)。
 私の若い頃は屋号「赤門」という横山貞治さんが区長サンでしてねえ。この人が雨でも降ったりすると、「きょうは正月だ」と言ってふれ≠出す。それから区長の家の隣から隣へ言い
ぎ″をするんですねえ。「きょうは正月にしんベエよ」なんて……。これを「お湿り正月」っていって、午前中いっぱい一生懸命働いていた人も、午後から急にお正月になっちゃうからみんな働かなくなるんです。

司会 愉快な休暇の取り方ですねえ。その「お湿り正月」はどのくらいの頻繁で?

川田 ほとんど毎月だったでしょう。(笑って)。雨が降れば田畑のものが育つ、それへの感謝の意味もあったんでしょうねえ。雨がなくて田植えができない、なんていう干ばつの時もありましたから……。
 ほかにも、稲荷、えびす講、地神講の時は、みんな大手をふって休みました。また、「月並み念仏」「お時念仏」があって、法事やお墓を建てたとか、そんな時にはみんなで念仏をあげ、そのあとで飲食したりして親睦をはかったものです。
 昔はテレビやラジオがなかったけれども、こうした地域の人たち同士の交流を通した楽しい思い出がいっぱいありましたよ。



     新聞が違えば、まとまらない縁談


司会 隣近所のお付き合いで他に何かお気づきの点、ありますか?

豊田 明治の20年代から日本全国は板垣退助の自由党と大隈重信の改進党に分かれ、激しく対立してたんてす。だから購読新聞までも支持政党によって違っていた。たとえば、中央、朝日などの新聞が自由党、のちの立憲政友会、ほかの新聞はほとんど改進党だった。ただ読売新聞だけは政党色のない文芸本位の内容でした。
 玉川村では改進党が多かった。だから縁談は、同じ政党、同じ購読新聞でないと、まとまらなかったんです(笑い)。

斉藤 私たちの周辺では、某新聞は官報と同じつもりで読んでいた。地元は今の神奈川新聞の前身、横浜貿易新報。これは改進党、民政党系で、地元も民政党ですから、必ず読んでいました。



 客のもてなしは蓄音機で


司会 新聞の話が出ましたが、ラジオのほうはいかがですか?

小林 うちの辺りのラジオの普及は昭和初期ですね。私の家では、大正の初め頃、ラジオではなく蓄音機を縁側に置いておくと、近所のお年寄りが来て楽しんでいましたねえ。それからは、うちの両親は近所の人たちに蓄音機を聴かせてもてなすのが何よりの楽しみだったようです。

安藤 そういえば、私の兄はラジオが好きで、鉱石ラジオを自分でつくっては楽しんでいました。電波をキャッチするのがむずかしいようで、必死になってやってましたねえ。あの頃、組立てて約30円でした。



蓄音機



 電車が通ると電燈がつく


司会 豊田さんのお宅では、いつ頃電燈が初めて点火したんですか?

豊田 あれは、玉電が開通してから1、2年後でした。当時、東横線や玉電の沿線住民は電車が通ると、電気が配給してもらえると、喜んだものです。これ(一枚の紙をテーブルの上に出して)は、当時の電燈料の受け取り(写真右)≠ナ1カ月45銭也、と書いてあります。



大正7年村で一番早く自転車を買った、下馬の根岸さん



乗れるまで指導の自転車屋


司会 いま東横線の各駅前に氾濫している、自転車のはしりっていつ頃ですか、小林さん?

小林 自転車は明治の終わりの頃でした。最初に乗り始めたのは、小杉のような裕福な部落でも乗った人は4人ぐらいでしたね。あれは東京の調布村のほうからの出張販売でしたね。
 自転車は免許こそいらなかったが、乗れるまで自転車屋が購入者の家まで通って指導してくれたんですよねえ。あの頃の自転車は、みな舶来品だったから、サドルが高くてねえ、子供が乗るのは大変でした。




    懐かしい水車


司会 東京側の東横沿線にはいつ頃まで水車がありましたか。

安藤 昭和の初め頃まで、世田谷の深沢に水車小屋が残っていましたね。

小林 水車は土地によって違いますが、いちばん維持費がかからないものですから、この辺の中原地区にもありました。しかし立地条件の制約で増やすことができない。そこで石油発動機になった。それから電燈が引けると、それらがなくなり、電気の動力となった。おそらく電燈が引かれたのと、水車の廃止はだいたい同時代じゃないですか。



    ズロースはかない女生徒たち


司会 水車はいまでも昔の代表的な風物のひとつとして、私たちの心に残っています。ほかに風俗史のうえで興味深い話があれば……。

豊田 昭和2、3年頃の母校、玉川小学校では女生徒は着物姿で一人としてズロースをはいていなかったんです。それを渋谷の実践女学校の多胡小柱という女の先生が、「これじゃいけない」と言って全員にはかせたんだそうです。

司会 当時は東京府下の女生徒でさえそうだったのなら、地方ではおして知るべし、です。昭和7年12月の日本橋・白木屋百貨店の火災で転落死者14名のうち、13名がズロースをはいていない女性でした。結局、消防隊員の救助のロープに片手を恥じらいから着物の裾を押さえたために支えきれず、転落死したのでしたね。ノーパンが問題になったのは、あの白木屋火災後からでしたね

「とうよこ沿線」TOPに戻る 次ページへ
「目次」に戻る