編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏 / ロゴ:配野美矢子
NO.324 2014.10.24  掲載 

        画像はクリックし拡大してご覧ください。

 
 
 「第2回誌上座談会」
      
<わが東横沿線を語る>
   
  出席者:東横沿線7区の土地っ子代表8名
  会場:丸子山王日枝神社社務所(川崎市中原区)
 

  心に残る沿線のむかし(抜粋 そのU)
         

  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和55年9月30日発行本誌No.2 号名「秋」

   文:岩田忠利
(本誌編集長)    座談会撮影:川田英明(日吉)
   
 


            沿線の土地っ子の昔を語る座談会        丸子山王日枝神社社務所で
出席者の顔ぶれ(各区代表)
安藤金三郎さん 目黒区代表。徳川時代初期から先祖は自由が丘に。自由が丘商店街の前副理事長。いまは同街史編さん委員長。画家。63
板垣大助さん 港北区代表。日吉に16代つづく旧家の当主。民生委員。農協役員等で地域に貢献。造園業。58
小林英男さん 中原区代表。中原区小杉御殿町在住の7代目。小学校教諭、旧中原町助役、元川崎市議、川崎市文化協会長など歴任。78
斉藤秀夫さん 神奈川区代表。神奈川区旭ヶ丘在住。祖父の代、明治20年代後半から横浜に住む3代目。横浜市立大講師(地域政治論)。51
竹若勇二郎さん
芸名・杵屋勘次
大田区代表。昭和元年から30年まで田園調布に住み、今も仕事場は同地、自宅は中目黒。長唄家元。邦楽東明流家元の64
豊田眞佐男さん 世田谷区代表。江戸時代の家業は酒造業で、いまの屋号が“酒屋”。世田谷区歴史研究会理事、民生委員。俳人。56
和田由美さん 渋谷の資料を持参、オブザーバーで出席。両人はいとこ同士。先祖は元禄12年創業の酒問屋、宮益坂にあった「橋和屋」
渡辺昌枝さん
司会 岩田忠利 「東横沿線を語る会」代表。本誌編集長
  

                   戦前の東横沿線の各駅と主な施設


この路線図から「消えた駅」、駅名が「変わった駅」、沿線の今は「無い施設」などをご覧ください




     消えた駅と駅名の変更


司会 では、つぎに斉藤先生、先生は反町駅近くにお住まいでしたね。

斉藤 はい、「反町駅」とおっしゃいましたが、昔は駅が東白楽駅〜反町間に新大田町≠ニいう駅、また反町〜横浜間に神奈川≠ニいう駅がありましたね。それが空襲で焼けてから、戦後なくなりました。私の生まれは反町駅の真下、小学枚にあがるちょと前に新大田駅の前に引っ越したんです。
 そうした廃駅以外にも東横線の駅名の変化が時代の変動とともに変わりましたね。今でも時々、「横浜に行くよ」って言ってしまうんですが、私の子供時分、それは伊勢佐木町や関内に行くことを意味するんですね。この界隈が横浜最大、最高の繁華街でしたからねえ。
 東横線は桜木町へ行くときには乗り、伊勢佐木町へは歩いて行きましたよ。当時、往復の電車賃を節約すると、有隣堂の2階で古本が3冊ほど買えたんですよ。
 いまの港北区のほうへ行く場合は、ほとんど綱島、そ、そう、駅名は「綱島温泉駅」でしたね。親たちに連れられ温泉に入り、桃の花見に行きました。



斉藤秀夫さん(神奈川区代表)




 大倉山駅前に奈良時代「条里制」の名残が…


司会 当時の大倉山駅辺りはどうでしたか。

斉藤 大倉山の梅林のところには大倉精神文化研究所ができ、私たちは戦時中、あそこへいろんな講義を聴きに行きました。
 当時、大倉山の駅前には奈良時代の池が残っていましたよ。
 名前のない池でしたが、道路に沿ってありました。池の前に小学校と、そのすぐそばに消防署があり、その火の見やぐらに昇ると、本当に奈良時代の条里制=i※いわゆる班田収受の制度)の名残がちゃんとわかったんです。あのあたりの地名を「市之坪」と言ってその条里制を裏付ける地名なのです。東横線に沿って田んぼが、奈良時代の区画どおり、きれいに残っていましたね。

 菊名や妙蓮寺は静かなところでしたよ。



昭和38年1月、大倉山駅東口駅前。条里制の面影を残す市之坪地区
 撮影:畑野昭一さん(太尾町)






    小学校から遊郭が丸見え…


司会 それから先、白楽から反町方面にかけての様子はどうだったんですか、斉藤先生……。

斉藤 東白楽には商店らしいものはなく、白楽に少し商店街がありましたね。
 この辺から続く街道、白楽−六角橋−−二谷〜反町〜横浜に抜ける道を「肥し街道」といわれていました。当時は、汲み取り≠フ時代でしたから、小机や篠原方面の農家の方々が大八車や荷車を引いてここを通ったわけです。

 ボクが住むのは下町でしたから、汲み取りに来ると、逆にむこうから野菜なんかを貰ったんですよ。暮れにはくそ餅≠ニいってお餅をくれたり、節句にはまた他のものを…‥。港北区はとくに農家が多く、そのうえ早くから養鶏や養豚が盛んだった地域でしたから。

 そ、そ、東白楽の駅のそばに、銀幕のスターの川崎弘子という女優(福田蘭童氏の妻)の別荘があり、その真下が牧場で、よく牛乳を貰いに行きましたよ。今でも乳牛が2〜3頭いるようですけど……。そんな静かな所でした。

 ちょっと変わった話では、今の反町公園の一角に遊郭があったことです。それで、「ハマの学習院」と呼ばれていた青木小学校という学校の窓から、昼間遊郭の女郎さんたちの生活が丸見えだ、というので大騒ぎになになったこともありましたよ(笑い)。

司会 なるほど、教育上好ましくないと社会問題に発展したんですか。

斉藤 そうです。あの辺から横浜市街にかけては、なかなか住民運動が盛んな地域なんですよ。



イラスト:大和功一(向河原)



    住民の命を救った住民運動


斉藤 そうです。あの辺から横浜市街にかけては、なかなか住民運動が盛んな地域なんですよ。

 たとえば、東横線と住民との間に、こんな出来事も……。いまの東横線は白楽の駅から東白楽への途中までが土手の上を走っているが、東白楽駅の手前から桜木町駅まで急にガードとなりますね。このガードは、住民運動の結果、造られたものなんですよ。


 関東大震災の後、あの辺に町内会ができ、16の連合町内会が生まれました。それが東横の会社(※東急)と交渉して、「高架線にしなきぁ、引かせない」…。会社はそれまで土手の上を通す予定だった。ところが、住民側は大震災の経験から避難するのがむずかしいことを知っていたんですね。で、住民は会社に対し、「高架式にし、ガードの下はもちろん、両側の道路も東横の会社が買い上げ、横浜市に寄付すること。それができないならば、ガード下は一切の建物も認めない」と。

 そういう市民運動は、当時としては珍しかった。2千人ほどがデモをし、東横の会社・市・県に対し覚え書まで取り交わしたんですよ。<今後、東横線の営業上、路線変更の工事をすることがあっても、地域に迷惑を掛けることがないよう、連合町内会の認承を得ること>というんですね。これが住民運動のはしり≠セったと思いますよ。

 お陰で私なんか、空襲のとき、助かった。やはり、あのガード下があったからでしょうねえ。空襲が山の方からあっても、海の方からあっても、あのガード下をくぐり抜ければ逃げることができたんです。

司会 その住民運動は、先見の明があったんですね。

斉藤 はい。亡くなられた佐伯藤之助さんなど、昔から田園都市構想を持っていたんですね。明治40年に『田園都市』という本が内務省から出て、この本をもとにできたのが、田園調布なんです。
 その同じ考え方を持っていた三宅磐さん(神奈川新聞の前身だった横浜貿易新報社社長)などがいたから、そういう住民運動ができたんですね。私は、あのガードの下を歩くたびに、当時の先輩たちのご苦労に頭が下がります。

司会 いいお話を聞かせていただきました。いまじゃ、そういう歴史的事実を知ってる人も少くなってるんでしょうね?
斉藤 お年寄りの方で当時のデモに参加した町内会長さんなんか、まだいらっしゃいますよ。




    綱島温泉駅だけがボックスベンチ


小林 さっき、斉藤先生から遊郭のお話がございましたが、私の若い頃綱島についての印象は、もっと艶っぽいものですよ。

 綱島温泉の発祥はラジュウム鉱泉だった。ラジュウムが出るというので、いちやく有名となり繁盛するように……。それが昭和
1415年の頃には、駅のホームまでがよその駅とは違っていましたね。デートのの便宜のためにホームの待合室のベンチがボックス式になっていたんですよねえ。戦争が激しくなって、取りこわされてしまったけど……。

 綱島街道ができるずーっと以前の話だが、小杉御殿町の私の家の前は中原街道で、昔はあの道を通って東京から綱島へ行ったんです。夜遅く家の前へ出ると、乗り合い自動車に乗った重役風とOL風が夜な夜な、何十台も街道を通るのを見かけたものでしたよ(笑い)。



小林英男さん(中原区代表)




    忠犬ハチ公は私の恩師の犬


司会 渋谷といえば忠犬ハチ公……。どなたかハチ公にまつわるお話ございませんか。

小林 はい、ありますよ。忠犬ハチ公の飼い主は、私の農大時代の恩師ですよ。上野英三郎という農学博士です。私はあの犬を渋谷駅でたびたび見ましたが、銅像ができてはじめて、「あー、あの犬か」って知ったのです。

 先生のお屋敷は元は駒場、その後、松濤町の現在東急百貨店本店がある所は大戸小学校でその上手に引っ越されたから、いつも渋谷駅まで歩いてこられた。その時、ハチ公が朝晩一緒だったんでしょう。先生が亡くなっても、ハチ公だけは毎朝きちんと家を出て、夕方は先生の帰る時間に迎えに来ていた。そんなハチ公の忠誠心をたたえ、商店街の人たちが「忠犬ハチ公」という名で像を建てたんでしょう。



国立科学博物館で剥製となって展示されているハチ公     撮影:一色隆徳



  日本初の自動電話は日吉局(?)


司会 日吉は横浜市。なのになぜ日吉電話局の局番だけが横浜局番045ではなく、川崎局番044なのでしょかねえ? これには日吉住民は何かと不便を感じていると思うのですが……。
板垣 そうですねえ、直接の原因は市町村合併ですよ。というのは、日吉電話局ができたのは、まだ日吉村当時。あの頃、私はまだ子供でしたが、おじいさんが村会議員だったので、いろんな話を聞いたりして……。当時の日吉村は川崎市の管轄だったんですよね。警察も川崎警察署、電話も川崎局。


司会・岩田忠利
(本誌編集長)
 ですから、川崎へ一緒に合併してしまえば問題なかったんですけど、分割合併でしたから、こういう結果になっちゃった。それが半分が川崎、半分が横浜に合併。
  でも、日本で初めて自動電話の試験が行われたのは、日吉電話局だったんです。ウチの裏の橋のところにテント張って長いこと試験やっていました。まだ東京では、ダイヤルを手でグルグル回してた頃……。ま、日吉がこの東横沿線で自慢できるのは、日吉電話局だともいえるのでしょうねえ。
司会 なるほどねえ、日吉電話局にそんな歴史があったとは……!? でも、現在の住民にとっては局そのものの過去よりは、やはり今の便利さのほうを望む。日吉局だけが横浜局番でも川崎局番でもなく、なぜ独自の局番にしておくのだろうか。
 それはともかく、川崎市の管轄だった日吉村を、なぜ一部だけ横浜市に合併させたのでしょうかねえ?

板垣 それは、日吉村に慶応大学があったからですよ。あの頃、横浜市には大学がなかったんです。どうしても天下の慶応義塾大学が欲しかったんですね。それで遮二無二、分割合併ということになっちゃった。




 矢上川で分割した両市。その珍現象


司会 では、どこを境界にして日吉村を分割?

板垣 はい、いまの矢上川″です。当時あの川はもっと曲がりくねってたわけですよ。それを私のおじいさんが中心になって河川改修をやったわけです。そこで、矢上川の向こう側の土地は川崎市、こちら側が横浜市に……。
 それが、こっち側の横浜市の地域に川崎市が細くなが−くあるんですよ。戸数にして7〜8軒が川崎市としてこっち側に残っています。水は川崎市、ガスは横浜市のこっちから引いている家が……。ウチの数軒先の大井証券の寮、あれは玄関が横浜市で
部屋が川崎市。橋本さんのお宅も玄関が横浜市だから、横浜市民ということに‥‥‥。



板垣大助さん
(港北区代表)
「とうよこ沿線」TOPに戻る 次ページへ
「目次」に戻る