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編集:岩田忠利     NO.284 2014.10.11  掲載 

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日本のシルクロード―菊名の今昔


    文・鈴木次郎 (東横学園大倉か高校元校長・港北区錦が丘)


  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”


   掲載記事:平成元年10月10日発行本誌No.48 号名「楮(こうぞ)」
   



     日本のシルクロードはどこに?


  シルクロード。絹の道――。今、しきりと脚光を浴びている道である。それは古代において、中国とヨーロッパをつないでいた重要な道路であった。そのシルクロード、絹の道が、じつは日本にもあった。
 「八王子」を発し、武蔵野平野を南下して、東横線の「菊名」を通って「東神奈川」にいたる、426キロがその日本のシルクロードである。

 「八王子」は、江戸後期から生糸・絹織物の産地として有名になり、昭和初期には最も繁栄して、中・小800軒以上の織物工場が軒を並べていた。
 日露戦争後、日米間に生糸貿易が盛んになり、その輸出が増加した。そこで、「八王子」から「ミナト横浜」への絹の道、シルクロードの開発が急務となった。鉄道開通前は、山梨・長野地方で生産された生糸、絹織物、農産物は人馬によって大菩薩峠を越えて青梅や八王子に運ばれた。八王子に集積された物資はまた人馬で町田〜恩田〜川和を経由して横浜へ、鑓水〜保土谷〜横浜へといくつかの絹の道を通って港へ運ばれたもので、それに要した費用・日数は容易なものではなかった。

 ハマの豪商、原 善三郎など12名は何度も政府に鉄道建設の請願書を出すが、そのたびに却下された。
 その理由は、鉄道はすべて人口の多い首都東京に向かって敷設されなければならないというものであった。当時の政府には地域振興や地域産業の育成などという考えはなかったからである。

 ところが明治35年(1902)、渡辺福三郎ほか39名の出願に対し政府はようやく仮免許をおろした。2年余の総建設費は235万円余、ついに明治41923日、私鉄の横浜鉄道株式会社線が営業を開始したのである。

 開通当時には、一等車にハイカラな列車ボーイ″が乗っていて乗客に飲食物のサービスまでしたという。これが現代ならぬ明治末期のことである。
 当時は単線で1日5往復(2時間に1本)の運転であった。東横線・菊名駅は、大正15214日に開通した。横浜線の菊名駅は、それより少し遅れて、大正151220日に開設されたのであった。


大正初期、横浜線の前身、私鉄・横浜鉄道の中山駅

提供:鈴木 交さん(青葉区恩田町)



        面影わずかに残る菊名


 
今、昔日の、そのシルクロードの面影は、どこに残っているのであろうか。
 戦後、横浜線は待望久しい複線化を実現し、各駅舎はすべて近代建築に改築されてしまった。その沿線の山河も急激に開発されて、大きく変貌をとげてしまった。昔日のシルクロードの面影は、全く消失してしまったのである。
 しかし、よく見ると、なお当時のシルクロードを偲ぶ面影を、わずかながら発見することができる。

 菊名駅東口のすぐ近くに、旧綱島街道が、横浜線をくぐりぬけるガードがある。そのガードを支える花崗岩の石垣は、明治41年の開通当時そのままの姿を今に残している。また、菊名駅前の菊名郵便局の隣には、小川の上に架かった横浜線の鉄橋を支えた赤レンガの壁が、今もはっきりと残っている。新しい鉄橋の下に、今は無用の残骸をさびしく風雨にさらしている。

 横浜線の菊名駅のホームの南側には、ホームに並走して引き込み線があった。東横線と、その線路を連絡していた。そして、貨車が相互に乗り入れていたが、今はその線路もすっかり取りはずされて、「有料自転車置場」になってしまった。

 さて、すでに遠い昔の、それは少年の日の懐古談……。石炭をたいて黒煙をあげながら、まっ黒い長い貨車を引っぱって、ゆっくりと走ってゆくシルクロード、横浜線の機関車。田圃の中の畦道に並んで、みんなで手をふりながら見送ったもの。菊名のトンネルをくぐる前には、いつも汽笛をならした。曇った日や雨の日には、その汽笛は4キロも遠くまで響いた。
 その汽笛、なぜか少年の胸に、何とも淋しい哀調を帯びたしらべであったか。切々として、嫋々として、悲しい泣き声のようなその汽笛のしらべ。それは、なぜか今も忘れることができない。シルクロードへのノスタルジアか。それとも、八王子の工場で働く、可憐な乙女たちの哀歌であったのかも知れない。



昭和36年、横浜線新横浜駅篠原口

開通当時の花こう岩の石垣が残ってい





シルクロードの面影をとどめる昭和31年、菊名駅西口の風景

まだ農村だった“表谷(おもてや)”地区と横浜線。線路の手前が現在の篠原北1丁目、向こう側が同2丁目。左方向が菊名駅、右方向が新横浜駅。手前に表谷踏切が見える
  提供:本田芳治さん(篠原北)




         菊名の変遷


 
今、菊名駅の1日の乗降客は、東横線は54065人、横浜線は36586人、合計9万人を超えるという。開通当時は、おそらく千人前後ではなかったろうか。昭和初期、単線、2時間1本の頃の乗降客は、数十人位であったように記憶しているから。

 「菊名」は古い町である。菊名小学校の南寄りには、縄文時代の貝塚が残っている。中世、鎌倉幕府崩壊後、その落武者たちがこの地に逃れてきて、菊名村が開発されたという。菊名駅前の「菊名山」蓮勝寺は、正和
4年(1315年)の開山という。だから700年の歴史を秘めたお寺である。古くは、武蔵国久良岐郡菊名といった。

 明治
22(1889)、武蔵国楠樹郡大綱村菊名となった。当時は戸数39戸、人口247人の小さなさびしい寒村であった。
 その後、昭和
2(1927)、横浜市神奈川区に編入された。さらに、昭和14年から現在の横浜市港北区菊名町となったのである。平成元年21日現在の菊名は、世帯数4933戸、人口11560人。

 シルクロードの往時を顧みて、まさに激動、隔世の感、ひとしおである。



昭和39年元旦、横浜線表谷踏切をSLが通る

 右へ菊名駅、左へ新横浜駅です。
 提供:本田芳治さん(篠原北
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