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最近私は、見慣れた自然の地形が歳月の流れとともに大きく変わっていることを、古老の話や昔の文献で知りました。
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沼部側に寄ってくる多摩川
丸子橋は私の家から歩いて10分足らずですので、歩いて渡りよく東京側へ行きます。この橋の途中に東京都と神奈川県との境界があるのですが、読者の皆さんはそれがどこなのか、ご存じですか。
そう、橋のちょうど中間地点ではなく、流れの一番深い所を境界とみなしているのですね。
ところが、その流れが徐々に変わっているということを本誌28号32頁「土地っ子 昔ばなし」に当時沼部駅前近くに住んでいた内田栄治さん(明治43年生まれ。当時田園調布本町在住)が登場、こう話しています。
「東横線鉄橋のちょっと上流の方から、多摩川は大きく曲がってるでしょ。そのため、大水のたびに水が砂を新丸子側に持って行ってしまってね、その分、川の流れはだんだん沼部のこっち側に寄って来ちゃった。私ら子供時分にくらべりゃ、川が10尺くらい、こつち側に寄って来ていますよ。だって、今の土手の中に家が5軒も6軒もあったんだからねぇ。若松屋という料理屋、船大工、それから農家が3軒ばかし。みんな、大水で流されちゃった。今みんなが凧上げしたりして遊んでいる場所、あそこは全部畑でしたよ」
江戸期から昭和初期の下沼部村
明治13年(1880年)測量、同20年発行の地図には荏原郡下沼部村を囲んだ「旧多摩川の蛇行跡」が東京と神奈川の境界として表示されています。下沼部村が現在のどの地域を指すのかを『新編武蔵風土記稿』で調べると以下のとおりです。
「下沼部村は郡の西南にて多摩川に臨めり、東西七八はかり、東西凡十二三町、東は雪ケ谷村、西は上沼部村又川を隔て橘樹郡丸子村に界ひ、南は六郷領峯村、及び下丸子鵜の木の三村に接し、北は奥沢本村に及ぶ。村内は東の方高く西の方卑し、畑多く田少し、民家百六十軒あまり、その内多摩川を隔てて民戸十五軒あり、此所を向河原と云、橘樹郡中下の丸子村の二村に接せり」。
つまり、旧下丸子村は現在の最寄り駅でいえば東横線・目蒲線の田園調布・多摩川園の両駅、目蒲線の沼部駅、そして川崎市中原区の南武線向河原駅の周辺。村の中心地は現在の沼部駅前周辺でそこには往還道の中原街道が走り、丸子の渡しの渡船場があり、現存の東光院や密蔵院もありました。
大正末期から昭和初期の沼部界隈は、近在の町の中では門前町の池上に次ぐ賑やかさだったようです。
本誌28号に掲載の「昔の町並」復元マップを見ても、多摩川に関連した業種が目につきます。渡しの船頭、砂利運搬の荷馬車用の馬小屋や馬蹄の金具屋、砂利掘り専門業者の元締め、上流から材木などを運ぶ筏師の宿などで、現代ではほとんどお目にかかれない職業ばかり、非常に興味深いものです。

大正末期〜昭和初期の旧中原街道と丸子の渡し(沼部地区) 「とうよこ沿線」第28号から
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多摩川を臨むこの下沼部村は川の恩恵も多かったが、逆に洪水の被害も大きかったようです。新編武蔵風土記稿の編纂中の20年間、文化7年(1810年)から天保1年(1830)までの20年間に多摩川誌を見ると14回の洪水被害の記録。また、明治13年から39年の26年間ですら同数の14回の洪水があったと記されています。そのため、明治39年(1906年)の地図を見ると、東京側の下沼部村の人家はほとんど多摩川から離れた武蔵野丘陵沿いにしか見当たらないのです。
砂利の乱掘で河口より低くなった水位
下沼部村の中心地が交通の要塞にあったとはいえ、なぜこんな短期間に店や人家が増え、前記のような賑わう町になったかを考察してみましょう。
多摩川は玉川上水、二ケ領用水、六郷用水などの分水のためと、人口増加、上流における新田開発などで水量は極端に減り始めました。さらに明治以降のコンクリートによる道路整備や洋式建築物などの増加で砂利需要は跳ね上がる一方。それに応えるには東京と横浜の都心に近い多摩川での砂利供給は絶対的に有利でした。かくして砂利掘りラッシュ、乱掘が続いたのでした。
砂利採掘は浚渫と同じことで多摩川の川床(川底のこと)は上流の河川改修とあいまって低下の一途をたどったのです。例えば丸子橋付近の水位は大正12年から10年間で2.7bから1.3bと約1.4bも下がり、川床は河口から13・4キロも離れているのに、満潮時の河口水位よりも低く、海水が押し寄せることになったのです。
後年、東京側は水道水確保のために東横線鉄橋のすぐ上流に海水遡上を防ぐ調布取水堰を造ったほどでした。つまり、平常時の多摩川の水面が0bに近づけば近づくほど相対的に下丸子村の標高は高くなったと同様で、村は洪水の危機から遠のき、平地にも人家が建つようになったのでした。
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昭和5年、品鶴線の下を通過した砂利舟
江戸時代から明治・大正・昭和と掘り続けた多摩川の砂利。この砂利は東京・都心のコンクリートのビル建築用材と使われ、その需要は年々増加の一途を辿ってきました。その乱掘の結果、多摩川の川床の低下で、水位が下がり、橋梁や堤防の危険防止のため、昭和10年に採掘禁止になりました。
提供:菊地金治郎さん(川崎市中原区等々力)
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渡しで通学した村の飛び地、向河原
江戸期の「下沼部村」という村名が今も地名として残る地域は、川崎市中原区内の町名「下沼部」だけです。
ここは先の新編武蔵風土記稿に「多摩川を隔てて民戸十五軒あり、此所を向河原と云」とある地域。
明治45年3月まで荏原郡調布村下沼部で、東京・下沼部の“飛び地”だった所です。東京側から見れば、川向こうの下沼部であることから「向河原」と呼ばれていましたが、同年4月から東京府と神奈川県との境界を多摩川と定められ、この下沼部は分村として神奈川県に編入したのでした。
ところが、僅かな戸数の分村のこと、子供たちが通う小学校とてない。そこで隣接の中原町に編入を申し出るが断られ、子供たちはまた、丸子の渡しの渡舟に乗って東京の調布尋常小学校へ通学したのでした。しかし、夏や秋の洪水の時には渡しの運行も止まり、帰宅できない子供が出る事態も。これを見兼ねた川崎側の御幸村が編入を受け入れ、子供たちは晴れて大正3年4月から同村立玉川小学校へ通えることになったのです。
その後、下沼部の分村に朗報が続く。昭和2年南武線が開通して「向河原駅」ができ、その6年後念願の多摩川堤防が完成、さらに昭和11年には田んぼとサツマイモ畑の中に日本電気玉川工場が建設され操業開始と……。
今では丸子の渡しで通った子らの子孫は近くの下沼部小学校へ通学、下沼部は「NECの城下町」と呼ばれ、様相は一変しました。
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