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 編集:岩田忠利        NO.279 2014.10.08  掲載 

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          私的沿線風土記――目黒のシンデレラ同窓生

                     文・前川正男 (郷土史家・目黒区八雲)


  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”


   掲載記事:平成6年9月20日発行本誌No.61 号名「桷
(ずみ)
   


   皇太子妃に小和田雅子さんが決まったというので、家内中が大騒ぎ……。
 地図を見ると、先日ふたりで行った洗足駅手前、影絵画家の藤城清治さんのあたりらしい。



      雅子妃殿下、誕生前夜


  翌日『野重一だより』第59号を持って出かけた。この『野重一だより』というのは、私が13年前から編集している『野戦重砲兵第一連隊』の機関誌で、ちょうど表紙に、靖国神社創立百年大祭に昭和天皇の行幸の写真が載っているので、雅子さんの義理のお祖父さんとなるのだから、一部ポストに入れてこようと、万歩計を腰につけて出かけた。

 藤城さんの家の手前で雅子さんの家を訊くと、店の人が嬉しそうに出てきて、
 「あの人が立っているところを右に曲がればすぐわかりますよ」と親切に教えてくれた。

 その角を曲がると大勢の人垣が見えた。万歩計を見ると7200歩であった。いつもの散歩と同じくらいの距離だが、私の家からは平らではない平町と大岡山を抜ける道がすべて登り坂なので、疲れた。

 テレビで見なれた小和田邸は、そこから路地になっていた。しかしそこには碑文谷署の巡査がいて門前までは行けない。そこで、「私はこの機関誌の発行者ですが、本号に偶然雅子さまのおじいさまの写真が載っていましたので、ポストに入れに来ました」
 と言うとその巡査は私服の刑事をつれてきた。また同じことを言うと、「雅子様のおじいさまが昭和天皇」という意味がなかなか分からないらしい。それでも、「お預かりしましょう」ということになって、帰った。

 少し前の山形国体の開会式のときにも、変な青年が発煙筒を持って、グラウンドに飛び出した。そのときに名の警官が処罰されたらしい。こういう前例があるから、碑文谷署長は大変な心配をする。おそらく署長はいま祈るような気持ちで、いるのだろう。
 その気持ちが下々にも伝わっているから、何とか雅子さんが東宮御所にお入りになるまでと、笑顔を忘れているようだ。

 いよいよ明日結婚式という前の晩に、友人の先崎さんが提灯行列の音頭をとっているテレビが映った。声高らかに「バンザイ」と叫んでいるシーンを見て、涙が出てきた。日頃は無口な彼が、満身の力をしぼり出して叫んでいる。しかも雅子さまのすぐ前で…。
  彼は民謡の名人だからテレビからもよく声がきこえた。彼はサイパンにいたが、玉砕直前に引揚げてきた幸運児で、いま雅子さまの家の近くの「ニコニコ通り商店街」の会長をしている。そのうえ、碑文谷警察署の防犯協会の副会長をしているから、夜の提灯行列というもっとも危険な行事の署との難しい交渉も、彼だから出来たのだと思う。あの「バンザーイ」三唱こそは、サイパン以来、最高のよろこびであったろう。

  目黒区から未来の皇后陛下がでた。こんな喜ばしい日に出合えたよろこびは、われわれ目黒に住む者にとっては、おそらく一生に二度とないことであろう。
 それに対し、目黒区のお祝いの行事はさみしかった。広報にも大喜びの興奮がうかがえないようだった。これは区の職員が目黒区に住んでいない人が多いからだろうと思う。郷土愛の精神が沸かないのでは…。

 以前ある日曜日に豪雨があって中根小学校のあたりで呑川が大氾濫して大騒ぎになったときに、係の人の家が遠くて駆けつけられなくて大変な被害が出たことがあった。緊急事態、関係の人は区役所に近い人でなければ急場は間にあわない。




 目蒲線洗足駅から7分ほど歩くと、静かな住宅地の中に小和田邸(写真右)があった

  左側向かいの家の門前、マスコミのたくさんのカメラが待機中



           娘のクラスメート


  雅子さまは、田園調布雙葉学園出身である。私の娘もデンフタ≠セった。
 雅子さまは動物が大好きで、獣医学校に行きたいと思っていたが、父上の転勤で果たせなかった。しかし私の娘は動物好きの同級生とふたり、雙葉学園始まって以来初めて獣医学校へ入った。しかも一人は日大の獣医学部、もう一人は武蔵境の日本獣医畜産大学に入った。娘は現在獣医を開業しており、もう一人は不幸にも人工透析をしている。

 人間の運命はまったくわからないもので、クラスメートの
Kは日航のスチュワーデスをしていて、世界中を飛んでいたが、よく娘の部屋に遊びにきていた。
 私もときどき会うと、「ヒコーキは必ず落ちるものだから、おやめなさい。中島ヒコーキの技師が言うんだから、間違いないから…」
 (筆者は戦時中、富士重工の前身の中島飛行機(株)に勤務)と、必ず言っていた。
Kはひとり娘だから、ことさらである。

 やがて縁談もまとまって、喜色満面の彼女は最後のフライトに出発した。最後にモスクワの空港を飛び立った。次の着陸地は日本である。ところが、なんとしたことか、離陸直後失速して墜落した。低空だったので生存者の方が多かったのに、彼女は病院で絶命した。

 ただ一人の娘を亡くしたご両親はやがて、東京の家をたたんで、千葉の老人マンションに入った。そのとき彼女が可愛がっていたスピッツが飼えないというので、私の家で引き取った。 スピッツも年寄りだったが元気にしていたが、ある朝、心臓麻痺でコトンと死んだ。老夫妻は千葉からお通夜にかけつけて来た。


        デンフタの同窓会



田園調布雙葉学園


 
デンフタの同窓会は毎年、駒沢オリンピック公園の前の「三越迎賓館」で行われていた。今年もそのつもりでいたら、雅子様がお忍びで出席したいという連絡があった。
 それが漏れたら定員
200人の会場に何名くるかわからないので、出席者は200名で締め切ることにした。結局これが漏れて、当日はテレビ局スタッフが2組正門前に現れた。それを見てパトカーが2台も現れた。

 テレビとヤジウマは、もうすぐお帰りだというので、緊張した。ところが、これが陽動作戦で、娘の話では、このときに裏門からお帰りになられたらしい。雅子様は大変楽しそうに先生や同級生と歓談されて、一同窓生としてよくお話しておられたという。そして1時間余りで、さっとお帰りになられたという。

  フタバでの獣医は娘だけなので、有名になったらしく、ある日曜の朝早く、四谷の雙葉学園から電話があった。娘の受持ちの先生、シスターからだった。
「前川さん、困ったことが出来ちゃったのよ。ノラ猫が祭壇の下に入ってしまって、みんなで出そうとしたら、怖がってしまって、なお奥へ入っちゃって大きな声で唸るの、これではおミサが出来ないの、すぐ来てくれない?」

 そこで娘はタクシーで飛んで行った。あとで聞いたら、猫の好きなマタタビと長い棒を用意して行って、難なく捕まえた由。後日お礼のマフラーが贈られてきたが、これは女房と共用になったらしい。

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