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駅前から放射状に延びる3本のイチョウ並木を4つの同心円で区切った整然たる街区、緑に包まれた瀟洒な住宅が連なっている。田園調布はしっとりと落ち着いた、しかも気品のある街だ。
人々は一日の勤めを終えて駅前に降りるとほっとすると言い、休日には散歩を楽しむ人で賑わう。
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中流サラリーマンでも買えた分譲地
むかし、ここは雑木林の中に畑が点在する武蔵野の一角だった。今世紀はじめ、欧米に都市と田園の長所を兼ねた田園都市の構想が生まれた。明治期の実業界の大立者・渋沢栄一翁はこれに着目、晩年の事業として理想の住宅地建設を思いついて、子息秀雄氏を欧米に派遣して各地を視察させた。そして候補地に多摩川左岸の丘陵地を選び、同志と語らって田園都市株式会社を設立、用地を買収し、大正7年(1918年)9月造成に取りかかった。それ以来、今年が満73年に当たる。
足の便を確保しなくてはと大正11年(1922年)年秋、目蒲電鉄(東急電鉄の前身)を創立した。翌年10月からいよいよ分譲を始めたが、この1カ月前に関東大震災が起こった。各地の大災害にもかかわらず多摩川台分譲地(田園調布)はほとんど被害をこうむらなかった。これが評判となって分譲は順調に進んだ。価格は3・3平方b当たり20〜55円で、中流サラリーマンでも割賦なら十分手の届く額だ。駅の東側を商店街、西側を住宅街にしたのもこの街の特徴だが、同会社は宅地購入者との間に次のような契約を交わした。
▽土地は住宅、付属建物及び庭園のためだけに使う。
▽近所に煤煙、悪臭、騒音、振動などを出さない。
▽町中を一つの公園のように美しく明るいものにしてゆく。
細則としては下記のとおり定める。
▽他人の迷惑となるような建物を建てない。
▽障壁を作るにしても酒落たものにする。
▽建物は3階建以下とし、建蔽率は5割以内。
▽建物と道路の間は道幅の2分の1以上。
▽建築費は坪単価120円以上。
人々はさらに道路との境は塀でなく生け垣や花垣にすることを申し合わせ、庭に競って樹木を植えた。こうして紳士の街″がつくられた。はじめは中流家庭向けの郊外住宅地だったが、環境が長く住民同士が親しくて暮らし良い所だと、次第に高級住宅が増えるようになった。
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大正12年(1923年)10月、分譲地発売当時の宝来公園付近
提供・撮影:渋沢秀雄さん
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まともに受ける地価高騰のあおり
豪邸の主も2代目、3代目と変わった。人も羨む土地柄だけに固定資産税の負担が重く、まして相続税となると深刻だ。地価高騰のあおりで何億円もの相続税を支払えず、生まれ育ったこの地を捨てて、都落ち″する人、宅地を切売りする人が出ている。
代わりに隣との対話を拒むかのように、いかめしい塀をめぐらして「自分の土地にどんな家を建てようが勝手だ」とうそぶく俄分限者(にわかぶげんしゃ)″も現れる始末。土地や建物の法人所有者も目立ち始めている。
時代の流れと言ってしまえばそれまでかもしれないが、町並は住民の共有財産と考えた、かつての美風はどこへ行ってしまったのだろうか。
また、最近はバブル経済の破綻で、売りに出された土地に買い手がつかず、あちこちに雑草の生い茂る空地がぶざまな姿をさらしている。
社団法人田園調布会は明るく住み良い田園調布を、と昭和57年に《田園調布憲章》と《環境保全の申し合わせ》を制定した。だが、こうした土地の細分化、乱開発に歯止めをかけ、良好な住環境を守るには自主規制だけで足りるだろうか、と大田区は10年前から地区計画≠フ導入を慎重に検討してきた。
平成元年5月、本会独自のアンケート調査で8割以上の賛成が得られたので実施に踏み切り、去る8月21日都知事の認可を得て実施された。
田園調布のようにすでに成熟した街に地区計画による規制のアミをかぶせることは極めて難しく、画期的なことだといえる。同時に、東京23区内では最も厳しかった建蔽率と容積率が若干緩められた。環境を保全しながら、あわせて土地の有効利用をはかり、町の調和ある発展をめざすためだ。
21世紀に向け変貌する駅周辺
3年前から東横線の混雑緩和と輸送力増強をはかるための工事が行われている。これは日吉〜多摩川園間を複々線にするとともに、田園調布〜多摩川園間の複々線区間を改良して、神奈川県方でふやした線路を目蒲線に乗入れ、大型8両編成電車が目黒で都心側地下鉄と相互直通運転できるようにするものだ。
平成7年秋の完成時には、田園調布駅は地下化され、乗り換えに便利な同一方向同ホームとなり、駅上部には人工地盤を設け、自由通路によって東西の街が一体化される。多摩川園駅も改良され、地下には多摩川園〜蒲田間折返し用のホームが新設される。
複々線化の工事に伴って、67年間も街の玄関番を務めてきた旧駅舎が、昨秋解体された。赤い二重勾配の腰折れ屋根をのせた、童話ふうの駅舎はスイスの山小屋のようで、周りの景観とよく溶けあい、街のランドマークになっていた。田園調布は大正ロマンが漂う街といわれるが、その中心的存在はこの駅舎だった。昨年8月、駅前広場で《田園調布フェスタ》が催され、延べ2500人が名残を惜しんだ。
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“開町”以来のランドマーク、昭和52年の駅舎と西口駅前
提供:社団法人田園調布会
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新駅完成後、元の場所に同じスタイルのものが復元される予定だ。新しい駅ができると駅前付近の様相はかなり変わるだろうが、この街の典雅な風趣は失いたくないものだ。
建設省の都市景観大賞で、今年から『都市景観百選』の制度が発足し、「都市景観の日」の10月4日、全国でまず田園調布、横浜市関内周辺など計10か所が選ばれた。
私たちはこのことを名誉に思い、誇りに思う。美しい街とは、人々が愛着と誇りをもち、生きがいを感じていつまでも住み続けたいと願う所でなければならない。
だが、田園調布に住むことが必ずしもステータス・シンボルとはならない。地位や財力に関係なく、理想の街を、と志を同じくする人たちが力を合わせて街づくりされたことを忘れず、この街がいつまでも栄えてゆくよう願っている。
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