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 編集:岩田忠利   NO.276 2014.10.08  掲載 

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 “都筑郡”物語


  文・鈴木次郎 (東横学園大倉山高校・元校長 港北区錦が丘)


  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”


   掲載記事:平成2年12月15日発行本誌No.52 号名「楡(にれ)」
   


        古代の都筑郡


 昭和14年、港北区が誕生した。そして横浜市に編入された。それまでは、武蔵国都筑郡(現在の鶴見川と帷子川の上流地域で横浜市緑区・旭区および港北区・保土ヶ谷区と川崎市麻生区の一部)と橘樹郡(川崎市のほぼ全域と横浜市鶴見区および神奈川区・保土ヶ谷区・港北区の各一部地域)と呼んでいた。

 とくに私の生まれ育った都筑郡は、ゆるやかな丘の続く、純朴な農村地帯であった。明治22年(1889年)の市制町村制施行当時には、新田・中川・都岡・二俣川・西谷・新治・山内・田奈・都田(現在川和地区)・中里・柿生・岡上の12か村からなっていた。

 この都筑郡が、日本の歴史に登場したのは、遠い古代からである。『万葉集』巻第20、天平勝宝7年(755)の「筑紫に遣はさる諸国の防人(さきもり)等の歌」として多くの防人歌の中から、

 
わが行きの息衝(いきつ)くしかば足柄の峰延(は)ほ雲を見とと偲(しの)はね

 都筑郡に上丁服部於田の(はとりべのうえへだ)の一首である。そしてその妻、服部砦女(はとりべのあさめ)の歌に、

 
わが背(せ)なを筑紫へ遣(や)りて愛(うつく)しみ帯は解かななあやにかも寝(ね)も


 ふるさと都筑郡の丘を離れて、出征兵士、ひとたび足柄の峰を越えれば再会期しがたく、惜別の情切々として、いまに胸うつ。じつに、1235年前の昔のことである。

 『続日本後記』、承和5年(836年)には、武蔵国都筑郡茅ヶ崎(現都筑区茅ヶ崎町)の杉山神社のことが出ている。これも、1154年前の昔のことだ。また武蔵国の国分寺瓦(かわら)(東京・国分寺蔵)の中には「都筑」の文字が彫られているものが残されている。

 このようにして、都筑″の地名は、遠く古代から日本の歴史上、れっきとしたものである。この歴史的な地名が、横浜市や川崎市の区名、例えば「港北区」などと改称されてしまったことは、誠に残念なことである。横浜市「都筑区」(※本号発行後、港北区から分区し横浜市都筑区となる)として、後世まで残しておきたかったものである。



 昭和10年、都筑郡役所のある川和の通り  提供:高橋 弘さん(川和町)

 田んぼと畑に面した通りは、自転車と歩行者だけの、のどかな光景ですが、右側に近代的な洋風の建物が並んでいます。
 手前から農工銀行、都筑郡役所、関東配電川和出張所、川和警察、その向かい側に警察署の武道館



      「田」のつく地名は“条里制”の名残


  港北区や緑区内には、なぜか「田」のつく地名がたくさん在るのに驚く。
 「田」とは、言うまでもなく、稲作の稲田 田圃(たんぼ)のことである。大化の改新により、班田収按が行われた時の「口分田(くぶんでん)」の「田」である。その「田」のつく地名を両区から挙げてみると、

  高田・下田・新吉田・新田・山田・勝田・都田・荏田・恩田・田奈・長津田・黒須田・鴨志田など。
 もちろん、すべて1200年前の大化の改新の頃からの地名であるとは思わないが……。細かく調べればさらにいくつかの「田」のつく小字がみつかるかも知れない。

 このことは、何を物語るのか……。それは、鶴見川流域が昔から米の生産地として盛んであったことを示すのではなかろうか。
 港北区太尾町、東横線大倉山駅東口を少し行くと、東横学園大倉山高校があるが、この坂下あたりの地名を「市之坪」と呼ぶ。これと同じ地名は、横浜や川崎の各地にもある。これは、大化の改新の条里制(田制)の名残であるという。
 「条里制」とは、国家財政の基盤が農業であったその時代、最も重要な土地制度だった。条里制の地割りは6町(1町は約108b)四方の区画を、里≠ニ呼んだ。田圃を、タテを1条から6条、ヨコを1里から6里とし、その中を「坪」に区切ったものであるという。そして、貴賎男女の別なく、区分田として給与したものである。この条里制の遺構をいまに伝えるものが、この大倉山の「市之坪」や川崎市中原区の「市ノ坪」の地名であるという。

 このようにして都筑郡は、遠く古代、大化の改新の頃から、ここ東国、関東に栄えた所であると思う。そして、大和朝廷の米所(こめどころ)として重要な地域であったと思うのである。



     かつて橘樹郡であった綱島を流れる鶴見川

 500b上流は現新吉田町で都筑郡区域。たび重なる洪水のため流域の各村は稲作の中心を谷戸におき、背後の斜面や台地で畑作を行った  撮影:岩田忠利


    都筑の地名と自然の荒廃


 
それにつけても、都筑(つづき)の名称、都(みやこ)を筑(築=きずく)とは、一体何を意味して付けられた地名であったろう? 

 いま港北ニュータウンからは、その往昔の、都筑の面影を物語る数多くの埋蔵文化財が発掘されつづけている。現在、港北区は人口
30万人、緑区40万人(※本号発行後、緑区は「青葉区」が誕生し分区)、あわせて70万人の大都市である。しかし、このようにして遠く古代日本の歴史を秘める宝庫である。防人たちの故郷であることに思いをいたし、遠い父母たちの眠るこの土地、都筑を、大切にしてゆきたいと思うものである。

 繁栄とは、文字のごとく、樹木が生い茂ることである。緑豊かに繁茂して、はじめて繁栄である。無残な赤肌の丘が横たわって、それが果たして繁栄であろうか。「国破れて山河あり」というけれども、我らには、すでにその山河すらも、まことに乏しい。

 自然の荒廃は、人心の荒廃に直結する。緑につつまれた繁栄の丘、「都筑の丘」。せめて、わずかながらでも残された緑を大切にして、温存して、港北区や緑区、昔の都筑郡をいとおしもう。


 千年の歴史も、かけがえない自然も、容赦なく押しつぶす港北ニュータウン建設現場。
 
 計画面積2530万平米(東京ドーム約550個分)、計画人口30万人という大プロジェクが進行中…。完成は平成13年頃とか

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