古代の都筑郡
昭和14年、港北区が誕生した。そして横浜市に編入された。それまでは、武蔵国都筑郡(現在の鶴見川と帷子川の上流地域で横浜市緑区・旭区および港北区・保土ヶ谷区と川崎市麻生区の一部)と橘樹郡(川崎市のほぼ全域と横浜市鶴見区および神奈川区・保土ヶ谷区・港北区の各一部地域)と呼んでいた。
とくに私の生まれ育った都筑郡は、ゆるやかな丘の続く、純朴な農村地帯であった。明治22年(1889年)の市制町村制施行当時には、新田・中川・都岡・二俣川・西谷・新治・山内・田奈・都田(現在川和地区)・中里・柿生・岡上の12か村からなっていた。
この都筑郡が、日本の歴史に登場したのは、遠い古代からである。『万葉集』巻第20、天平勝宝7年(755)の「筑紫に遣はさる諸国の防人(さきもり)等の歌」として多くの防人歌の中から、
わが行きの息衝(いきつ)くしかば足柄の峰延(は)ほ雲を見とと偲(しの)はね
都筑郡に上丁服部於田の(はとりべのうえへだ)の一首である。そしてその妻、服部砦女(はとりべのあさめ)の歌に、
わが背(せ)なを筑紫へ遣(や)りて愛(うつく)しみ帯は解かななあやにかも寝(ね)も
ふるさと都筑郡の丘を離れて、出征兵士、ひとたび足柄の峰を越えれば再会期しがたく、惜別の情切々として、いまに胸うつ。じつに、1235年前の昔のことである。
『続日本後記』、承和5年(836年)には、武蔵国都筑郡茅ヶ崎(現都筑区茅ヶ崎町)の杉山神社のことが出ている。これも、1154年前の昔のことだ。また武蔵国の国分寺瓦(かわら)(東京・国分寺蔵)の中には「都筑」の文字が彫られているものが残されている。
このようにして、都筑″の地名は、遠く古代から日本の歴史上、れっきとしたものである。この歴史的な地名が、横浜市や川崎市の区名、例えば「港北区」などと改称されてしまったことは、誠に残念なことである。横浜市「都筑区」(※本号発行後、港北区から分区し横浜市都筑区となる)として、後世まで残しておきたかったものである。
|

昭和10年、都筑郡役所のある川和の通り 提供:高橋 弘さん(川和町)
田んぼと畑に面した通りは、自転車と歩行者だけの、のどかな光景ですが、右側に近代的な洋風の建物が並んでいます。
手前から農工銀行、都筑郡役所、関東配電川和出張所、川和警察、その向かい側に警察署の武道館
|
|
|
|