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 編集:岩田忠利     NO.275 2014.10.07  掲載  

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   市ノ坪物語

  文・鈴木次郎(東横学園大倉山高校・元校長 港北区錦が丘)


  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”


   掲載記事:平成元年7月10日発行本誌No.47 号名「橅
(ぶな)
   


        綱島街道に二つの市ノ坪


  ラジオの道路交通情報が「いま綱島街道の市ノ坪交差点付近は、2キロの渋滞です」と流れた。

 さて、市ノ坪とは、あまり聞き慣れない地名であるが……。
 しかし綱島街道をよく車で通る人なら忘れられない所だ。ここは東横線の武蔵小杉駅の西側を走る府中街道が綱島街道と交わる地点である。朝晩、綱島街道を車で出勤する人たちにとっては、この市ノ坪交差点から丸子橋を抜けるまでの僅か1~2キロが交通の難所で、都心までの通勤時間の半分も取られてしまうことがよくあるものだ。丸子橋の複線化と道路拡張でもしないかぎり市ノ坪という地名は忘れられまい。


 タクシーの運転手も嫌う綱島街道、そのもう一つの難所は綱島~大倉山間である。
 東綱島の松下通信前から大倉山の太尾町交差点まで。ここをやっと抜け切れるかと思ったら、この信号機が赤……。左方向をキョロキョロしていると、交番わきの二階家に「市之坪町会事務所」の看板がかかっているではないか。またもや「市ノ坪」……、目の錯覚ではないかと疑ってしまう。

 このあたりを、横浜市港北区太尾町字市之坪と呼ぶらしい。東横線大倉山駅から新幹線のガードをくぐってくるとここに出るが、この道中一帯が市之坪という。本誌第45号の「昔の町並」を読むと、この町会事務所が建っている場所はかつては潅漑用の池だったという。この辺も鶴見川に近いのに水不足に苦しんだのであろう。交差点近くには、妙義神社の小さい祠(ほこら)がある。住民たちが300年の昔、氏神として奉祀した神社であるという。境内の一隅には、お愛嬌の〝玉門石〟がひとりひそかに微笑んでいる。

 あのラジオの市ノ坪は、川崎市中原区市ノ坪町で江戸期から明治22年まで続いた村名。ここも昔は水不足に悩んだようで町内の西側に沿って二ケ領用水が流れている。これを造った小泉次太夫のおかげで、この地域は農家の副業に用水を利用した草花の栽培が盛んであった。アヤメ・カキツバタ・夏菊・キキョウなどが市ノ坪の田畑一面に咲き揃う光景は見事なものだったという。また冬場には正月用のしめ縄作りでも有名な所だった(本誌33号アルバム拝借、参照)。武蔵小杉駅近くには最近改築された市ノ坪神社があり、美しいたたずまいが電車からも見える。



府中街道と綱島街道が交差する、中原区の市ノ坪交差点
。不二サッシ㈱屋上か


「市之坪」と呼ぶ大倉山駅東口一帯
綱島街道の太尾町交差点の上から望む



     “大化の改新”以来の地名「市ノ坪」


  さて、この 「市ノ坪」という地名は、横浜市港南区の日野町、大久保町にもあるという。さらに磯子区の杉田町にも、南区の蒔田町にもあると聞く。その昔、いずれも鶴見川・多摩川・大岡川などの河川流域の稲作地帯であったらしい。いまではどこも殆ど埋め立てられて住宅地に変貌し、農耕地の面影はまったく見ることができない。往昔は稲作の本場であるから、そこから取れる藁を利用して、正月のしめ縄作りが特産となったのであろう。

 この地名「市ノ坪」は、じつは千年の昔にさかのぼって、〝大化の改新″という史実を秘めていまに息づく地名なのである。
 「大化の改新」それは、中大兄皇子と藤原鎌足の名コンビにより、蘇我氏を中心とした氏族制度をつぶして公地公民の中央集権制度を確立し、〝班田収授の法″の制度に及んだ一大改革であった。その田制は、条里制といって、タテを1条から6条、ヨコを1里から6里とし、その中を〝坪″に区切ったのである。そして貴賎、男女の別なく、口分田(くぶんでん)を給与したのである。この条里制の遺構をいまに伝えるのが、この「市ノ坪」の地名であるという。

 この改新こそは、神代以来の、前代未聞の、まさに画期的な一大改新であった。このことは、すでに歴史に明らかなところである。



     中国に今でもある“班田収授の法”


 日本の歴史上、そのときから一千年、今日に至るまでこの大化の改新に匹敵する改新が、ただ一つだけあった。それは、〝マッカーサー改新″である。
 終戦直後、占領軍総司令長官マッカーサーの指令にもとづく〝農地改革″が、それである。それは、日本全土の小作人が、一夜にして総地主に転換するという、まさに千年たった一度の、しかも世界中でただ一人、マッカーサーのみがなし得た、これまた前代未聞の一大改新であった。

 さていまここで、この二大改新の功罪を論ずることはやめることにして、中国旅行談に転じよう。
 数
年前、華南の名勝、桂林の町を訪れた。桂林は神秘と幻想の世界、水墨画の世界であった。その桂林を悠々として流れる「漓江(りこう)下り」を楽しんだときの話である。
 遊覧船の中で、中国人の青年ガイドが、上手な日本語で説明を始めた。この漓江沿岸の農村には、いまでも「班田収授の法」が実施されているとのことである。
 家族が死亡すると、分与された農地が回収されてしまうので死亡届は提出しないのだそうだ。しかし、子供が生れるとすぐに、出生届を提出して、その子供の農地の分与を受けるのだそうだ。だから中国では、正確な人口がわかりにくいとの説明であった。

  遊覧船に乗り合わせたのは、昭和生まれのごく若い世代が多くて、この説明にはあまり深い興味を示さなかったが、私は全く予期しないこのガイドの説明にびっくりしてしまった。
 我が国の千年むかしの「班田収授の法」が、いまも現実に中国の大地には生き続けているのであったから……。そしてこれは、我が国が千年の昔に、中国から学んだ制度であるに違いないと、一層その感を深くしたのであった。

  「市ノ坪物語」はラジオの「道路交通情報⊥から始まって「漓江下り」にまで及んでしまった。私は「歴史はいつも身の回りに生き続けている」そんな感慨を一層強くする次第である。



夏の漓江りこう)


夕焼けの漓江
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