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編集:岩田忠利    NO.273 2014.10.07  掲載 

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 終戦秘話―その日の大倉山

  
文・鈴木次郎 (東横学園大倉山高校・校長 港北区錦が丘)


  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”


   掲載記事:昭和61年2月20日発行本誌No.32 号名「樫」

   


        終戦10日前の“赤紙”


  昭和20年8月4日、おそらく最後の赤紙であったろう。31歳の陸軍伍長の私は、一教壇から東部62部隊(川崎市宮前区宮崎台、現宮崎中学校敷地)に召集された。小学校教師に赤紙がくれば、日本の最期であると聞かされていたが、その時がついに来た。

 3歳の長男を背負った妻がただ一人、汗を流しながら私の出陣を見送ってついてきた。その前夜は隣組の数人が集まり、馬鈴薯の塩ゆでをかじりながらの送別の宴であった。

 炎天下の営庭で私服と軍服を着替える。その私服を風呂敷に包み妻にわたす。長男は無心に眠っている。「気をつけて」ひとこと妻に告げる。炎天下のもと、来た道を、トボトボ帰る二人の後姿を見送った。

 兵舎内で、全員丸裸の身体検査が始まる。背中に赤チンキで×印が鮮烈についた男がいた。性病だそうだ。さわってわかるのだから、重症らしい。

 夕食になる。孟宗竹の竹筒が茶椀である。大豆にほんの少しの米粒か夕食である。
 翌朝、みんな下痢をして、いよいよ栄養失調に。入隊したが、する仕事がない。銃も剣も武器らしいものは目につかない。竹槍一本もない。空襲警報が鳴ると、あたふたと、防空壕に逃げこむのが仕事。すでに戦闘能力は全くない軍隊であった。これが九十九里浜に上陸の米軍を迎え討つ精鋭部隊だと聞かされ、びっくり仰天。


 8月6日 広島に原爆が投下さる。

 8月
15日 天皇陛下の「終戦放送」がラジオから流れる。

 やがて復員命令が出た。配給されていた毛布や天幕や靴下や玄米など、栄養失調の体には重い荷物ながら、それを背負ってわが家にやっとたどり着いた――。
 この時の印象は、今も鮮明に残っている。



     終戦時の海軍大臣と連合艦隊司令長官


  さて、わが家に近い東横線大倉山駅の西側の坂道をのぼると、「横浜市立大倉山記念館」がある。プレ・ヘレニック式、ギリシャ前期の神殿風の建物である。

 私は数年前ギリシャ各地を旅行したが、古代ギリシャ時代の建物はすべて崩壊していて、見ることができなかった。しかし今ここ大倉山に、遠くギリシャの昔を偲ぶ、世界的にもまことに貴重な建物があるのである。これは昭和6年、大倉洋紙の大倉社長が、東急の五島慶太社長の協力を得て、日本精神文化の殿堂として建設されたものである。設計者は当時日本建築界にときめく長野工学博士であった。

 さてこの由緒深い記念館には、終戦時には海軍省が秘かに疎開していたのである。
 すでにわが無敵を誇った、くろがねの浮城は大方海底に永眠し、海軍大臣も連合艦隊司令長官も、ついに居る所なく、秘かにここ大倉山にのぼり、終戦を迎えたのであった。



   当編集室前を通ったA級戦犯7名の遺体


  マッカーサー本土上陸。直ちに米兵は大倉山に進駐して、わが海軍省をその管理下に掌握したのである。驚くべき情報網ではあった。

 昭和231223日午前2時。この大倉山のすぐ下を猛スピードで走りぬける2台の米軍の軍用自動車があった。つい1時間前処刑されたばかりの、A級戦犯7名――東條英機・広田弘毅・松井石根・土肥原賢二・板垣征四郎・木村兵太郎・武藤 章、かれらの遺体を乗せて、巣鴨プリズンを発した車である。都内から丸子橋を渡り、綱島街道を疾走、日吉のいまの編集室前を通り、大倉山の下を過ぎ、菊名のわが家の直前を経て、一路横浜の久保山火葬所に向かったのである。万一の不慮の事態発生を考慮して、最短距離ではあるが、京浜第一国道を避けて火葬所入りをしたのであった。



戦時下の内閣総理大臣・東条英機(A級戦犯)を裁く東京裁判


 さて、この米軍の進駐した大倉山の芝生には、夜ともなればいわゆる夜の蝶≠ェどこからともなく舞いのぼって来た。そしてここに立哨中の米兵と戯れたのである。使用済の白いサックの残骸が緑の芝生のあちこちに散乱して、それを物語っていた。
 大倉山、かつては日本精神文化の殿堂、そしてわが海軍省。この光景に、感慨やそもいかに。




     海軍省の重要書類と一つの椅子


 大倉山駅東方
500メートル、港北区師岡町(現在地344番地周辺)の丘に、海軍省が重要書類を疎開させていた。
 当時麦畑の丘のまわりに鉄筋コンクリートで固めた、教室大もある横穴倉庫が、十数個つくられた。その中には世界に誇る巨大戦艦、大和・武蔵の設計図をはじめ、海軍の重要書類が秘匿、保管されていた。

 8月
15日終戦とともに、ボロトラックがここに殺到し、見る見るうちにこの中の膨大な書類は運び出された。どこかに埋められたのか、焼却されたのか、それはわからない。取り残された書類が散乱し、雨に打たれている姿は、まさに惨状そのものであった。この空っぽになった倉庫にも、米軍はいち早く進駐し、交替で立哨をしばらく続けていた。

  ある日私は、立哨中の黒人米兵を脇目にしながらこの廃墟の中に立って、ひとり感慨にふけっていた。
 と、そのあたりに大きな椅子が一つ、泥だらけになってころがっているではないか。近寄ってよく見ると、牛皮張りである。ケヤキか樫の木の、堅い頑丈な大きな椅子である。見ただけでも、そこらにあるものとは貫禄が大分ちがっている。その脚を見ると、何か焼印が押してある。「旅順口海軍司令部」「旅順鎮守府軍法会議」の二つの焼印があるではないか。びっくりした。これぞ旧海軍の将官級が使用したものにちがいない。まさに歴史的な遺物である。



今なお、終戦当時の面影を残す横穴倉庫の一部と大倉山記念館


 その椅子をどうしてわが家に運んだのか、さだかな記憶はないが、いま、わが家の「宝物」として大切に保管している。

 現在、あの横穴倉庫群は大部分取り壊され、この師岡の地には文化住宅が立ち並び、のどかな風景である。
40年前の終戦当時の面影を知る人は、殆ど居なくなってしまった。
 いま、この昭和の40年昔、その余りにも巨大な激動の世相を、狭い大倉山の変貌の中にそっとのぞき見て、感概無量である。

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