終戦時の海軍大臣と連合艦隊司令長官
さて、わが家に近い東横線大倉山駅の西側の坂道をのぼると、「横浜市立大倉山記念館」がある。プレ・ヘレニック式、ギリシャ前期の神殿風の建物である。
私は数年前ギリシャ各地を旅行したが、古代ギリシャ時代の建物はすべて崩壊していて、見ることができなかった。しかし今ここ大倉山に、遠くギリシャの昔を偲ぶ、世界的にもまことに貴重な建物があるのである。これは昭和6年、大倉洋紙の大倉社長が、東急の五島慶太社長の協力を得て、日本精神文化の殿堂として建設されたものである。設計者は当時日本建築界にときめく長野工学博士であった。
さてこの由緒深い記念館には、終戦時には海軍省が秘かに疎開していたのである。
すでにわが無敵を誇った、くろがねの浮城は大方海底に永眠し、海軍大臣も連合艦隊司令長官も、ついに居る所なく、秘かにここ大倉山にのぼり、終戦を迎えたのであった。
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当編集室前を通ったA級戦犯7名の遺体
マッカーサー本土上陸。直ちに米兵は大倉山に進駐して、わが海軍省をその管理下に掌握したのである。驚くべき情報網ではあった。
昭和23年12月23日午前2時。この大倉山のすぐ下を猛スピードで走りぬける2台の米軍の軍用自動車があった。つい1時間前処刑されたばかりの、A級戦犯7名――東條英機・広田弘毅・松井石根・土肥原賢二・板垣征四郎・木村兵太郎・武藤 章、かれらの遺体を乗せて、巣鴨プリズンを発した車である。都内から丸子橋を渡り、綱島街道を疾走、日吉のいまの編集室前を通り、大倉山の下を過ぎ、菊名のわが家の直前を経て、一路横浜の久保山火葬所に向かったのである。万一の不慮の事態発生を考慮して、最短距離ではあるが、京浜第一国道を避けて火葬所入りをしたのであった。
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戦時下の内閣総理大臣・東条英機(A級戦犯)を裁く東京裁判
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さて、この米軍の進駐した大倉山の芝生には、夜ともなればいわゆる夜の蝶≠ェどこからともなく舞いのぼって来た。そしてここに立哨中の米兵と戯れたのである。使用済の白いサックの残骸が緑の芝生のあちこちに散乱して、それを物語っていた。
大倉山、かつては日本精神文化の殿堂、そしてわが海軍省。この光景に、感慨やそもいかに。
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海軍省の重要書類と一つの椅子
大倉山駅東方500メートル、港北区師岡町(現在地344番地周辺)の丘に、海軍省が重要書類を疎開させていた。
当時麦畑の丘のまわりに鉄筋コンクリートで固めた、教室大もある横穴倉庫が、十数個つくられた。その中には世界に誇る巨大戦艦、大和・武蔵の設計図をはじめ、海軍の重要書類が秘匿、保管されていた。
8月15日終戦とともに、ボロトラックがここに殺到し、見る見るうちにこの中の膨大な書類は運び出された。どこかに埋められたのか、焼却されたのか、それはわからない。取り残された書類が散乱し、雨に打たれている姿は、まさに惨状そのものであった。この空っぽになった倉庫にも、米軍はいち早く進駐し、交替で立哨をしばらく続けていた。
ある日私は、立哨中の黒人米兵を脇目にしながらこの廃墟の中に立って、ひとり感慨にふけっていた。
と、そのあたりに大きな椅子が一つ、泥だらけになってころがっているではないか。近寄ってよく見ると、牛皮張りである。ケヤキか樫の木の、堅い頑丈な大きな椅子である。見ただけでも、そこらにあるものとは貫禄が大分ちがっている。その脚を見ると、何か焼印が押してある。「旅順口海軍司令部」「旅順鎮守府軍法会議」の二つの焼印があるではないか。びっくりした。これぞ旧海軍の将官級が使用したものにちがいない。まさに歴史的な遺物である。
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今なお、終戦当時の面影を残す横穴倉庫の一部と大倉山記念館
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その椅子をどうしてわが家に運んだのか、さだかな記憶はないが、いま、わが家の「宝物」として大切に保管している。
現在、あの横穴倉庫群は大部分取り壊され、この師岡の地には文化住宅が立ち並び、のどかな風景である。40年前の終戦当時の面影を知る人は、殆ど居なくなってしまった。
いま、この昭和の40年昔、その余りにも巨大な激動の世相を、狭い大倉山の変貌の中にそっとのぞき見て、感概無量である。
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