わが国オペラ界の先駆者・伊庭孝
剣士・伊庭想太郎の養子息子は、孝といった。孝は、明治20年(1887年)東京で生まれたが、両親を早くに亡くし、ふた従弟の伊庭想太郎の養子として育った。その父が刺殺事件を起こしたことから通学していた府立第一中学を中退し、兄のいる大阪に移り住んだ。
幼いころから西洋音楽に親しみ、数種の楽器を弾きこなし、英語とドイツ語に秀でていてキリスト教への関心から同志社神学校まで進んだ。しかし、機をみて同志社を中退し上京する。そして父親とは違って芸術の道を選んだ。
はじめ創成期の新劇運動に身を投じたが、新劇社の主宰などをへて、アメリカ帰りの舞踊家・高木徳子らと歌舞劇協会を設立して浅草オペラ″を興し、その作家・訳詩家・主演俳優・演出家及び支配人として八面六臂の大活躍をした。
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浅草オペラがつぶれると、昭和2年に近衛秀麿・堀内敬三とラジオで歌劇を放送するなど、わが国のオペラ界の先駆者だった。また昭和5年に日本楽劇協会をつくり、イタリア帰りのソプラノ歌手・関屋敏子とテノール歌手・藤原義江を主演させ歌舞伎座で「椿姫」を上演するなど、音楽・演劇・舞踊を総合的にコントロールできた人物は、かれ一人しかいなかった。かれは、黎明期にあった日本の楽劇界の創始者であり権威者でもあった。
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伊庭 孝(1887−1937)
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洗足池畔の伊庭邸で説く楽劇理論
孝は、壮士の息子だけあって太っ腹で若い人たちの面倒見がよかった。あまり人付き合いがいい方ではなかったが、かれの音楽・演劇・舞踊全般にわたる楽劇理論は、他者の追随を許さない独創理論であった。
音楽は音楽だけではない。演劇も関係するし、ダンスも関係する。ダンスにしても、演劇的表現がないと相手に伝えることができない。歌にしてもダンス的なリズム感が必要だと、“伊庭楽劇学校”の門をたたく若者たちにその関連性をがんがん教え込むのであった。
伊庭孝の家は、満々と水をたたえた洗足池の端、小高い丘の上にあった。今の南千束2丁目、洗足池公園あたり。
そこへ大田区鵜の木に住んでいた慶応大出の藤浦 洸(こう)という人間が、電車で通ってきてはここで書生をしていた。作詩家を志す藤浦は、音楽部門全般を学ぶために伊庭孝のもとで働いていた。今でいうマネージャー、彼の身の回りすべてのことを切り盛りするのだ。側近の藤浦洸の目にかなわぬ者は、伊庭孝の門下生にはなれなかった。
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「カルメン」出演者と伊庭孝(左端)
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まだテレビの無い時代、NHKラジオの看板番組「二十の扉」のレギュラー解答者だった作詞家・藤浦洸
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関西にダンスの天才少年、出現
当時「チャールストン」というダンスが、日本で大流行、その大会まで開かれるほどだった。関西の「チャールストン大会」で大阪の15歳の少年が優勝、ダンスの天才少年と騒がれた。今日の中川三郎である。
中川は、上京しでダンスの奥義を極めたいと親兄弟に切望したのだった。たまたま中川の姉は、天野喜久代という松竹歌劇団(SKD)の歌唱の一等教師と交流があった。
天野といえば、あの、「♪砂漠に日は落ちて 夜となるころ」という日本最初の流行歌を歌った人。彼女も伊庭門下生であったことから、中川は藤浦 洸に認められ、晴れて上京、洗足池の伊庭邸の門をたたくことができたのである。
漠・耕筰・義江ら、きらめく星たち
中川三郎が入門した昭和5年、すでに石井漠は入門していて、将来バレエひと筋に生きると決心していた。伊庭がロシアのローシーを紹介して漠は修行の旅へ。
ベルリン高等音楽学校を出て大正3年にわが国最初の交響楽団である東京フィルハーモニーを組織した山田耕筰も、よく伊庭邸に立ち寄った。漠と耕筰は明治19年生まれの同い年、伊庭より1歳年上であったが、耕筰とは日本楽劇協会を発足させてオペラ運動を興した仲間である。
かれらよりもひと回り若い藤原義江は、ローシー歌劇団の公演をきいて感動、さっそくオペラ入りして伊庭のもとで浅草オペラにデビュー。藤原はイタリア留学で発声法は習得していたが、オペラをどのように構成するかを学ぶために門下生となっていた。
中川よりも遅く入門したのが、邦正美。のち彼は、モダンダンスの発祥地ドイツに留学、帰国後は渡米してカルフォルニア大学のダンス理論教授に。
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貨物船45日間の旅でニューヨークへ
中川三郎が横浜港から台湾バナナの冷凍船に乗って単身45日間の船旅に発ったのは、慶応大2年を中退した昭和5年の時。
1000円あれば100坪の家が買えた時代だ。「いつ帰れるかわからない。葬式代のつもりで1000円だけくれ」と留学費を親や親戚にセビる。
マンハッタンに着くや、伊庭の文通仲間であるダンス専門雑誌の編集長のもとヘタクシーで。かれの紹介でジョー・マチソンというミュージカルの振付師を師と仰ぐこととなった。
それからは未知との遭遇、驚くことばかり。各部門のスタッフが激論を交わしてテーマの検討、ミュージカルや歌の制作過程、芸術評価論など、日本とは天と地ほどの差があった。なかでもショーマンは、みんなから愛されなければならない。それにはどうするべきか、という大衆心理学をダンス技法よりも熱心に勉強させられた。ニューヨーク市立大学へその勉強で1年間通学したのだ。
かれに言わせると、これが処世術を身に付けるうえで今でも大変役立っているという。
すでに72歳となった中川は、多感な青春時代、貴重な海外体験の機会を与えでくれた恩師・伊庭孝その在りし日の姿が脳裏から離れない。
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昭和8年、ニューヨーク・ブロードウェイの劇場でシンフォニック・タップを演じた中川三郎
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演劇人が設立した日本初の実演劇場
中川三郎は、伊庭孝を偲び、洗足池に近い大岡山駅南口に演劇場を建てることを決心した。昭和26年のことだ。
まず4人の仲間に相談する。喜劇王とまで呼ばれたエノケンこと、榎本健一。かれも洗足池の南、雪谷に住んでいた。エノケンと並び喜劇界の大スター、ロッパこと古川緑波。かれもまた、池の東南の端、長原の住人。
歌謡曲『誰か故郷を想わざる』を大ヒットさせた霧島昇も中原街道沿いに近い田園調布。『鈴懸の径』『ジャワのマンゴ売り』で一世を風靡したハワイ生まれの歌手・灰田勝彦。みな喜んで賛成し、発起人となった。
劇場名は「大岡山コーパ」と決まる。出演者の仲間は、金のわらじをはいて探しても集まらない超人気スター5人。観客の行列は延々と続き、大岡山駅前からひと駅先の奥沢駅あたりまで続く長蛇の列。
それも27年がピーク、30年代のテレビ普及につれ、興行は徐々に下火に。追い打ちをかけるようにロッパの死、エノケンの右足首切断という不幸が重なり、ついに46年演劇の火は消えた。
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昭和25年、日劇で中川三郎ワンマンショー
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洗足池周辺に群居する音楽家
日蓮上人が足を洗ったという伝説のある洗足池。広さ約30万平方メートル、緑に囲まれた池の近くに近衛秀麿率いるNHK交響楽団の練習場があったことから多くの音楽家が周囲に居を構えていた。
女優・鰐淵晴子の父・鰐淵賢舟、黒柳徹子の父・黒柳守網、日本交響楽団を共同設立した上述の近衛秀麿と山田耕筰。
今は歌謡界の大御所・淡谷のり子、作曲家の服部良一と猪俣公章、ジャズ歌手・しばたはつみ、音楽評論家・野口久光、もちろん洋舞界のドン・中川三郎も。
大正・昭和初期、池のほとりの伊庭邸の居間には連夜音楽や演劇、ダンス談義にふける楽劇界の若き獅子たちが群がっていた。
その池畔には、鎖国の扉をひらいた勝海舟が、生前この池の風光をこよなく愛し、墓石の下で眠っている。わが日本の音楽・演劇・洋舞の夜明けも、洗足池畔から始まろうとする時代であった。
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