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編集支援:阿部匡宏 / ロゴ:配野美矢子 |
編集:岩田忠利 NO.271 2014.10.05 掲載 |
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玉川村の遊郭
文・豊田眞佐男(郷土史家・世田谷区等々力)
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沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”
掲載記事:昭和63年2月15日発行本誌No.41 号名「榧(かや)」
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男性の夜の遊び場だった遊郭は、かつて東京・川崎・横浜のあちこちに存在していたことは事実です。
しかしこの実態については、郷土の歴史を数千ページにわたって詳細に取りあげたどの市町村史を読んでみても、殆ど触れていません。それはなぜか――。
遊里というテーマが小中学校の社会科教材としては非教育的で好ましくないという理由からタブー視されているからです。
が今回、本誌の岩田編集長は「臭いものにはフタではなく、厳然たる事実はどんなことでも庶民史だ。事実を忠実に記し、後世に残そう!」という堅い信念の持ち主で、この言葉に動かされ私は蛮勇をふるってペンを執りました。
江戸時代には旅人たちの性のはけ口″として東海道五十三次のすべての宿に遊女たちが春をひさいで生活していました。
玉川村の農家の若い衆も多摩川を越えて川崎宿の郭へ行くか、あるいは品川や渋谷の青物市場の帰り道、品川の遊女屋や渋谷道玄坂の荒木山二業地(現渋谷区円山町)で遊女を抱いてくるのが遊びのコースだったのです。
それが明治時代に入ると、ごく近くの場所で郭遊(くるわあそ)び≠ェできるようになりました。この玉川村にも小規模な郭をつくる人たちが現われ始めたのです。
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村内第1号の滝本楼
玉川村の遊里第1号となったこの店は、明治20年代に等々力不動尊の滝つぼの東側に建った瀟洒(しょうしゃ)な2階建てで、某大手新聞の広告欄にまで登場したほどその名は轟く有名店でした。
滝つぼに通ずる石段は明治22年竣工ですが、それ以前は鵯(ひよどり)越えのような崖っぶちで羽黒山の荒修験者たちが道場としていた霊場でした。文化、文政の頃(1804〜1829)は等々力の名家・戸井田重左衛門を中心とする羽黒講が組織され、玉川村全域のほか現在の大田区鵜の木、沼部、衾村(現目黒区の一部)に至る広範囲な羽黒講がこの懸崖や滝つぼで荒行を積んでいたのです。
滝本楼の経営者は玉川村第一の侠客・木村米吉でした。石段竣工後は、楼に通う遊冶郎(ゆうやろう)はひきもきらず、遠くは北区王子や横浜市内あたりまで常連客を抱える遊女が10余名に及ぶほど。その繁盛ぶりは今もなお古老の語り草となっています。
本来、神聖な滝つぼに遊里という組み合わせは、倫理的に許されないところ。しかし渓谷の土地所有者が時の東京府議会議員・豊田周作でしたから、両者の癒着のほどは読者諸賢の容易に想像できるところでありましょう。
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玉川村の遊郭
マップ:石野英夫 |
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砂利人夫にモテた金盛亭
明治30年代の後半、この店は等々力不動尊坂の中腹あたり、現在の豊田産婦人科の真東にありました。玉川村消防団第4部等々力の小頭(こがしら)であった豊田金太郎が2階建て10余室の郭を建て、昭和初年まで全盛を誇っていたのです。
来客の主役は、多摩川の砂利採掘に従事する人たちでした。当時農家の人たちが半年がかりで育てた野菜も牛車に山ほどの出荷をしても10円の紙幣1枚を手にするのは容易でなかったのですが、砂利掘り人足の日給として2、3円を稼ぐ者は珍しくなかったという時代です。
小学校低学年の頃の私は、父の膳部をよく記憶しています。里イモ、ゴボウ、野菜類のほか、イワシか湯豆腐ぐらいのものでした。それが砂利っぽり″たちの家へ遊びにゆくと、牛肉・豚肉のほかに酒徳利・ビールびんが林立しているではありませんか。
不況の農村の悲しみが子供心にもよくわかった日記です。
農家の旦那衆が常連、すみのや
玉川小学校正門を東に向かって等々力に行く細道があります。この通学路の半ばあたりに大正10年の頃、すみのや≠ニいう郭ができました。
店のオーナーは、なんと今の世では考えられない地方公務員の経営、玉川村役場の吏員であった早川米作という人でした。生来ひょうきん者のおじさんで、話の中に必ずユーモアが混じる風流人。学校の近くにあったために砂利掘り、馬方のような荒くれの客は稀で、農家の旦那衆が常連だったようです。
茅葺き農家、高砂
近年、等々力という地名を一層有名にさせている施設の一つにラブホテル大和があります。このあたりは昔からそのような地相があったのかも知れません。
大正時代中期、古くからの農家で村消防手の一人であった宇田川平五郎は、茅葺き農家をそのまま改造して高砂という遊里を開業したのです。場所は現代版遊里大和″から東へ約60メートルの地。当時から奥沢道に面していたために目黒や奥沢からの客が多かったと伝えられています。郭の主、平五郎は駒沢の火事現場へ自転車で走行中、トラックにはねられて殉職してしまいました。
金鵄勲章(きんしくんしょう)に輝く人の店、鈴木屋
現在の目黒通りに面したスーパー紀伊国屋手前にバス停等々力七丁目″があり、さらにその手前三差路に旧家の一つ、鈴木家があります。
当家の祖・鈴木米吉は日露戦役で金鵄勲章を授けられましたが、大正4、5年頃、遊里の「鈴木屋」を創業したのです。そのうえ、農業と植木職も兼業するという働き者でした。
中町の高山と東条英機邸近くの遊郭
上野毛駅にほど近い中町五丁目の台地で旧地名、高山という所の一画に同名の郭がありました。このことは70歳以上の老人ならばよく記憶しております。
なおまた、現在の用賀二丁目となっている桜町小学校の近くに第2次世界大戦のA級戦犯で絞首刑となった東条英機首相の私邸があったのです。しかし、この近くにも「遊郭」という名の看板を堂々と出していたダルマ茶屋があったのです。
上野毛にも稲毛屋
今では高級住宅地の町というイメージがすっかり定着した上野毛にも、じつは“稲毛屋”という妓楼が昭和初期まで稲荷坂の上にあったことは史実です。
三業地、二業地、一業地
いわゆる遊郭街を俗に三業地″といいますが、三業地とは芸妓屋、待合茶屋、料理屋からなる三業組合が組織きれている地区のこと。芸妓屋と待合茶屋は風紀上、指定許可区域外では営業が認められず、またその区域では芸妓の風俗、技芸の交流のために取引先の割烹や料亭を含めて三業地を形成していたのです。そして主に芸妓屋か料理屋を欠いている地域を二業地″と呼びます。
柳橋や浜町は吉原通いの舟宿から花街へと発展したれっきとした三業地でした。道玄坂の円山町は明らかに二業地であり、二子玉川花街も途中分裂して一部は三業地となり一部は二業地にという歴史をもった街でした。
待合茶屋というのは、あまり粋でない連中がセックスのみを期待して女遊び一筋にかけた一業地″ です。
玉川村の個人経営の郭はすべて待合のみの一業地でした。明治時代の玉川村は、品川警察署管内の郊外にあり「お上(かみ)のお目こぼし」もあって郭の営業がしやすい時代であったのでしょう。
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イラストマップ・絵:石野英夫(元住吉)
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