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                              編集:岩田忠利     NO.269 2014.10.04  掲載    


 多摩川の渡し

    文・
豊田眞佐男(郷土史家・世田谷区等々力

  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”


   掲載記事:昭和62年7月20日発行本誌No.39 号名「槿
(むくげ)
   


 本誌前号、37号の表紙絵は、東京と神奈川の境界線である多摩川を若い学生男女が丸子橋の上からながめているという楽しいイラストと写真でした。
  そこで本号は、創刊7周年にちなみ本誌創刊のポリシーの象徴でもある多摩川を取りあげ、古人がこの川をどのように渡っていたか――をさぐってみたいと思います。




         家康は橋をなぜ架けさせなかったか


 江戸時代、幕府は軍事上、大きな川に橋を架けることを禁止しました。その最も良い例が静岡県の大井川でした。このために庶民は、交通上どんなに迷惑をうけたか想像を超えるものがあります。

 日本歴史上、橋についての作戦思想が最も対照的な人物は源頼朝と徳川家康でした。
 治承
4年(1180年)頼朝は江戸太郎重長を武蔵の国の大福長者と敬称し、武蔵の国総検校(ぎょう)職(6万町歩)に任命、平家追討のため多摩川に橋を架けることと兵員渡河の軍船を数多く集めるように命じました。その名残りが鎌倉道(上・中・下の3道)で、うち中道は世田谷〜二子玉川を通る道であり、今も鎌倉橋などその名が残っています。つまり鎌倉武士は、戦えば必ず勝つという自信があったので故に攻められた場合に橋が無い方が良いというような憶病を武士の恥としていました。
 いっぽう家康は、橋というものを常に敵に攻撃された時のことだけを考えて橋を架けさせなかった川もあるのです。橋を戦略的に考えたとき、家康は決して名将ではなかったといえましょう。

 その家康が慶長5年(
1600年)6月、酒井左衛門尉を普請奉行として六郷大橋の架橋を命じました。長さ250メートル、幅約10メートルという大工事で千住大橋、両国橋と並んで江戸三大橋″の一つとなります。
 その後幕府の手で再三修理や架け替えが行われましたが、貞享
5年(1688年)7月、洪水でこの橋は流されてしまったのです。




            多摩川の渡船場16カ所


 
流失の六郷大橋に代わって登場したのが渡し舟″、いわゆる「六郷の渡し」。
 明治7年(
1874年)1月、六郷八幡塚村の名主・鈴木左内が左内橋″という木橋を架けるまでの間、じつに186年間も、六郷の渡しは庶民に利用されてきたのです。この左内橋こそ現在の六郷橋の前身といえましょう。

 世田谷区内の渡し舟は、元禄時代に入って許可になります。区内でいちばん古い記録をもつ野毛の文献によると、以下の記録があります。
 「元禄9年(
1696年)、飯田弥五衛門、野添市右衛門は下野毛村の舟代金5両を5ケ年賦にて拝借」享保5年(1720年)、下野毛村舟新造に付き、金15両無利息10年賦にて拝借」。

 安政7年(
1860年)2月、幕府は横浜開港にともない河川の渡船場及び海岸見張番所の警戒を厳重にする方針をとり、村の役人に触れを出しています。
  そのとき多摩川の船場として、つぎの16か所を挙げています。

  @ 六郷 A小向 B古市場 C上平間 D上丸子 E小杉 F等々力 G下野毛 H二子 

 I宇奈根 J宿河原 K菅 L矢之口 M押立 N一之宮 O日野

  これらのうち「公ヨリ命ゼラレシ」渡し、すなわち官許の渡船場だったのは、最下流の六郷の渡し″と最上流の日野の渡し″のか所だけで、他はすべて村営の渡しでした。

  多摩川はたびたびの洪水によりその流路を変えました。そのたびに田畑は両側に分断され、農民たちは耕作のために対岸の神奈川県側、現川崎市へ行かなければなりません。耕作地へ通うために生まれた「作場(さくば)渡し」が、つまり村営の渡船場の始まりだったのです。

 等々力の百姓・豊田紋兵衛は明治の前半期、克明な村の出納日記をつけていましたが、渡船についてつぎの記録が見えています。

 「明治8年11月1日 金四拾壱銭六厘三毛 向河原舟人給料。明治9年5月28日 金三拾八銭四産九毛 向河原舟人給料」

 上の向河原という地名は、川崎市にも等々力の飛地があったために世田谷区等々力の農民が対岸を向河原≠ニ呼んだ別称でした。そして舟人たちの勤務時間は明六ツ(午前6時)から暮六ツ(午後6時)までが決まりで、ただ丸子の渡しのように船頭が交代で船頭小屋に寝泊まりしていて一晩中渡れる所もありました。



多摩川の渡船場16カ所  イラスト:石野英夫(元住吉)


大正10年、丸子の渡し。川崎側の現・上丸子八幡町
提供:山本五郎さん
(山王日枝神社宮司)



             舟賃と舟大工


 
当時村営の渡船場の舟賃がいくらであったか――これについては明治13年(1880年)の丸子の渡しの記録を見ましょう。

 「男女共一人 金五厘。牛馬一疋 八厘(但し口取を除く)。人力車一輪 七厘(但し空車)。大車一銭五厘(但し挽夫を除く)。小車 八厘(但し挽夫を除く)。馬車 六銭。諸荷物二人持 六銭」

 掛けソバが一杯8厘、銭湯が12厘、大工の手間賃が150銭の時代のことです。大正時代の丸子の渡しの相場は、1人片道2銭、自転車3銭、人力車15銭でした。

 渡し舟を造るためには当然、舟大工という特殊な技術者が必要です。世田谷区内ではなぜか宇奈根という地域が舟大工の発祥地でありメッカでありました。その宇奈根出身の舟大工たちが各地に転在して渡し舟を造っていたのです。吉沢の川辺滝次郎さんは世田谷区最後の舟大工です。

 多摩川の渡しが完全に消滅したのは、それほど昔のことではありません。丸子の渡しは、大正元年(
1912年)に東京と神奈川との境界が決まり、改めて東京府より野村次郎左衛門・大貫重次郎・山本要次郎ら3氏に営業許可証が与えられました。昭和10年丸子橋の開通で砂利掘りとともに村の収入源の主力でした。
 川崎市の稲田堤と調布市の京王閣を結ぶ地点にあった菅の渡し″は多摩川最後の渡しで、廃止されたのは昭和
48年(1959年)6月のことです。

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