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編集:岩田忠利     NO.267 2014.10.04  掲載 

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      米1俵(60`)価額   205年の歩み

                 話・西村 寿
(中原区小杉陣屋町 / 取材・文岩田忠利


  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”


   掲載記事:昭和62年3月10日発行本誌No.37 号名「柚」
   



           俵はとても重宝な袋


 今年の大相撲初場所でも横綱千代の富士が20回目の優勝を飾った。千秋楽のテレビ観戦で興味があるのは、優勝者のゆくえもさることながら、その表彰式である。土俵の上で千代の富士が数数の賞品を手にする。ラーメンやシイタケの1年分……そして米俵。力持ちの千代の富士が米俵を軽々と抱きかかえ、土俵を降りていく。観客がどっと沸く。

 いまの若い人は、この米俵1俵にどれほどの玄米が入っているか、それがどれほどの重さかすらわからないという。
 昔の度量衡で
4斗、60キロ(16貫)の玄米が1俵の俵に詰まっている。昭和30年代の頃まで穀類などの容積計量は、升(ます)で量っていた。その基準は1合、1升(1合の10倍)、1斗(1升の10倍)の3段階で、1斗の10倍が1石。もちろん、昔の大名の石高(こくだか)≠ヘここからきているのだが、米の重さは1斗で15キロ、1俵は4斗で60キロという、覚えやすい数値になる。

 俵は、藁(わら)で編む。藁の長さが俵を編むのにちょうどいい長さ。そのうえ米を入れてもピタリ60キロになる。さらに、俵は稲の茎を乾燥した藁そのものだから、湿度の高い日本で外気を吸湿したり乾燥したりの調節作用もしてくれる。持ち運びにも、紙袋などと違って破れる心配もない。たいへん重宝な袋なのである。だからわが国では、米は俵に入れて運搬し、貯蔵していたのである。

 ところが最近、その俵に滅多にお目にかかれなくなってしまった。見るのは、先の大相撲の土俵くらいのもの。それに代わってお米屋さんに登場したのが、1俵の半分、30キロ詰めの紙袋。これが大半で、ほかに麻袋や樹脂袋。手づくりでしか生産できない俵とちがって、大量生産可能な産物だからであろう。



大相撲の賞品、米T俵




            米価の安定は治安の安定


 
毎年夏になると、生産者米価が新聞紙上を賑わす。このときばかりは、俵が珍しく顔を出す。農林水産省の米の買入れ価格の発表は、1俵いくらの数値で表すからである。

 左記の「米1俵の価格年表」は、天明元年(1781年)から昭和61年(1986年)まで、205年間の米価推移を要約して列記したものである。が、私は毎年米価が決まると、額に入った米価年表を取りはずして、その年の価格を書き入れることにしている。なぜ、そんな物好きなことをするか? といえば、それなりの理由がある。

 ひとつには、昭和20年代までは米の相場が日本経済の基礎となり、あらゆる相場のモノサシとして用いられてきたからである。
 
 下記の年表でもわかるとおり、主食である米価の安定は、治安の安定でもある。ひとたび凶作に遭うと、世は乱れた。また、一国の宰相が政治につまづくと、米価は暴騰し、世は騒然となった。いかなる時代にあっても、米を軽視してはならない。歴史は、そんな警告を私たちに発しているような気がする。



         米作りと食事の思い出


 米価年表をつくる理由は、もうひとつ。どんなに飽食の時代になったとはいえ、私は米づくりの労苦を思い出し、米という食糧の大切さを一時も忘れたくないからである。

 戦前と終戦直後の武蔵小杉地区の食生活は、比較的恵まれた地域でありながらも、白米に押し麦を2、3割混ぜた麦飯に、味噌づけ・梅干し・タクアンなどのお新香がつく程度。こんな粗末な食事を常とした。

  小学生時代の食事の楽しみは、正月になると、この麦飯に塩鮭がつくことであった。それでも、お祝いや祭りのときは、餅米で赤飯を炊いてくれた。これを頬張る喜びは、今でも忘れられない。

 餅米は、中原区の今井から小杉にかけてのものが大変品質が良かった。代表的品種の白玉や末広は、東京市場でも非常に評判がいい。そのため、東京へ人糞肥料を取りに行ったついでに、賃餅≠フ注文を受けてきて、家の杵でつき、届けたものだ。殆どの農家が牛車やリヤカーを引いては、遠く神田あたりまで肥料としての人糞を取りに通っていたのである。

 小杉地区の農家の田圃の耕作面積は、2反歩(600坪)から5反歩(1500坪)ほど。戦後、割当ての供出米は、中原区全体で約3000俵。下小田中で1000俵、井田で1000俵弱、あと10部落ほどで1000俵であった。1反歩の収量は成績の良い家で4、5俵、悪い家で2、3俵。豊作時には、2割程度の増収があったが、小作農は毎年年貢を地主に何俵かは納めなければならないので、生活はいつも苦しかった。

 八十八夜の5月1日の種蒔き、6月の代かきと田植え、真夏の田の草取り……どの農作業も、筆舌では語りつくせない過酷な肉体労働である。それだけに、籾殻(もみがら)をはいだ一粒一粒は、水晶のように見えたものだ。



★上記年表の米価資料は、「日本農業基準統計」による。
 明治元年(
1868年)からは深川米相場の平均価格、昭和18年(1929年)以降は政府買入れ価格。
 出来事などの記述は「朝日年鑑」と「神奈川県百科辞典」を参考にしました。

 

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