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編集支援:阿部匡宏 / ロゴ:配野美矢子 |
編集:岩田忠利 NO.266 2014.10.03 掲載 |
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戦時下の少女時代
文・ 宮原三智 (主婦・港北区下田町)
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沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”
掲載記事:昭和61年12月1日発行本誌No.36 号名「栃」
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懐かしい大岡山・奥沢
昭和6年、大岡山に生まれ育ち、結婚して奥沢に7年間暮らし、現在は日吉駅からバスで終点の下田住宅のあたりに住んでいます。
大岡山は北本通りのはずれ、平町に近い所でした。幼い頃の思い出に、洗足池のお花見に行く時、なぜ電車に乗らないで長い長い道のりを歩かさられるのか、不思議で不満でした。
大岡山と平町の境の十字路には、「キケン」と書かれた赤い四角のカンバン(?)が高く吊るされていて、子供たちはこの四ツ辻のことを「キケン」と呼んでいました。「キケンまで駆けっこだよ」というふうに目印。その角には大きなケヤキの木があり、煙草屋さんがありましたっけ。
高木神社があって、火の見やぐらが立ち、長田耳鼻咽喉科がありました。遊びの時は、「ミミハナノドのカンバン」という言い方をして、そのあたりに集まりました。
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34号「特集奥沢」、楽しく見させていただきました。が、一つ不満を言わせてください。寺、神社、お地蔵さままで載っているマップに教会が載っていないのはなぜ? どこかへ移転したのかな?
昭和37年の2月未、予定日近いお腹をかかえてやっと探した借家、いえ借間が自由通りミツルヤ酒店の物置の奥の四畳半。ツナヤ洋服店、失礼、テーラー土屋さんのお隣りです。今は竹亭とかいう立派なお店になっています。
2月27日に引越して3月6日に生まれた女の子は奥沢神社の境内を庭にして、スクスクと育ちました。その頃の境内はもっと広かったのです。あ、「奥沢落語会」で立川談志が若手として落語をやっていたのを知っています。
話がそれましたが、その女の子が4歳になって入った幼稚園が近くの奥沢教会幼稚園だったのです。だから教会が載っていないのは淋しいマップなのです。
3年後に生まれた男の子と2人を連れて、九品仏へも歩いてよく遊びに行きました。九品仏まで行かない時は自由が丘の「トップ」でオムレツケーキを食べました。私は大好きなコーヒーです。
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「キケン」の看板があった大岡山
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小学校高等科時代の学徒動員
『とうよこ沿線樺号』は8月初めに下田町のコーヒー店「キャリオカ」で買いました。当然のように若い頃の8月を思い出します。
12歳、小学校高等科1年生の夏休みは学徒動員で海軍医療品廠で働くことになりました。休みは日曜日だけで、家から都立大学駅を通り越して大学の角を左へ曲がり、片道40分くらいかかる道を夏休み中通いました。その工場は現在の国立第二病院の産院のあたりではなかったかと思います。毎日毎日ただ暑かったことを記憶しています。ごくまれに都立大学駅から田園調布乗り換えで大岡山駅まで電車に乗ると、その時の車窓から入る風の気持ちよかったこと。今のように冷房車の時代がくるなんて思いもしませんでした。
翌年、高等科2年生の夏休みは目黒の薬品会社へ動員されました。引き続き大井町駅、これは国鉄のほうでしたが、3月の卒業まで働きました。ですから2年生の時、学校で勉強したのはわずか1学期だけです。
小学校高等科というのは現在の中学校と同じですから、学科には英語もありました。でも、敵性国語≠ニいうことで全然教えてくれません。で、英語の先生は何をしたかというと、中里介山の『大菩薩峠』なんて本を読んでくれたのです。1学期はすぐに終わり、動員されましたから、この長い小説は途中で、残念ながらいまだに読んでいません。
昭和19年の国鉄の駅はどこの駅でも、若い男性がどんどん出征してしまったので、年輩の人の指導で女と子供、つまり私たちが駅で働いていました。3つある出改札とホーム、小荷物場とを、1週間ごとに回りました。
勉強の好きでなかった私は、大人と一緒に働くのは楽しく、誇りでもありました。わずかながら退職時にはお給料もいただきました。
お弁当盗難事件(?)
食べ物の乏しい時代で、毎日のお弁当を工面する母は大変だったと思います。
幸い、母の里が横浜の高田町(現港北区高田町)で農家をしていましたから、お正月のお餅は毎年食べることができました。その代わり、お餅があればそれが無くなるまで毎日3食お餅です。他に主食となる物が無いのですから。
動員で働いていた国鉄の駅で忘れられない出来事があります。
昭和20年のお正月休みが終わって初出勤の日……。母がお餅の焼いたのをお弁当箱に入れて持たせてくれました。やっとお昼になって休憩室に行くと、私のお弁当箱が空になって、包んであった新聞紙が散らばっています。
10人ほどの生徒がそこにお弁当の入った手提げ袋を置いてあるのに、誰も盗られていません。どうしてお餅とおイモの区別がついたのでしょうか……。大騒ぎになりましたが、犯人捜しはしませんでした。みんないつも空腹の時代だったから仕方ありません。
その代わり、私は白米のご飯が食べられました。職員の小泉さんという人が夜勤のために2食分持っていたので、1食くださったのです。
翌日、母がお米を炊いてそのお弁当箱に詰めてくれたのを返しました。当然のことなのに、その方は人情の厚い人で、翌日こんどはサツマ芋を持ってきてくださいました。災い転じて福となる″、みんなで大喜び、ストーブで焼いて食べました。その美味しかったこと、今でも焼きイモ屋さんを見かけると、あの一件とホッカホッカ〜の味が甦ってきます。
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昭和20年3月、碑衾高等小学校(現目黒八中)卒業写真
2列目の左端が筆者、旧姓・小林(現・宮原)三智さん。制服のように見える服装は、動員先の国鉄作業服です
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逃げまどう空襲
昭和20年4月、14歳。高等科を卒業して綱島郵便局に就職しました。現在の本局はまだなくて、駅前の協和銀行のところに「横浜綱島郵便局」がありました。この年3月に東京大空襲があり、毎晩のように空襲警報のサイレンで怖い思いをしていました。5月末には城南一帯にも大空襲――。横浜空襲もこの頃ではないかと思います。
いつもと違う空襲の酷さに、まず子供たちだけ逃げなさいと言われ、近所の数人の子供たちと都立大学駅近くの平町のテッピ坂のほうへ逃げました。坂下はずっと畑でさえぎるもののない恐しさから、中根町のほうまで逃げ、こんもりとした木の下にうずくまっていました。
翌朝、わが家は焼けずにありましたが、大岡山駅の方は一面の焼け野原で、北本通りの星美堂薬局の隣まで焼けていました。北側は平町の大岡山小学校が全焼し、都立大学駅のあたりも焼けて電車の架線がたれ下がり、電車は全線不通でした。
その日、綱島の郵便局のほうはどうなっているか確かめたくて、都立大学駅から東横線の線路伝いに歩きました。多摩川の鉄橋を下駄履きで渡ったのです。いま思うとウソみたいです。綱島周辺は無事でした。郵便局の人たちは、鼻緒の跡だけ残してまっ黒になった私の足を見て、あきれた顔をしていました。
8月15日の終戦の玉音放送は郵便局のラジオで聴きました。
温泉街の綱島は、それから間もなく米兵の進駐軍の姿であふれるのです。
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