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編集:岩田忠利       NO.256 2014.9.29  掲載 

 隆盛さんよりエラい
(?)弟・従道

        
文・ 前川正男(郷土史家。目黒区八雲


  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”


   掲載記事:昭和60年4月1日発行本誌No.27 号名「梓」

   
 
  

       27歳の西郷従道

明治3年、欧州の軍事視察を終え、米国経由で帰国するときニューヨークのブロードウエイの写真館で初めて撮った写真

 転載:角川学芸出版刊 石黒敬章著「幕末明治の肖像写真」から


       兄・隆盛そっくりの容貌


 西郷隆盛は上野公園の銅像で有名、伝記もたくさん出ているが、弟の従道のことは余り知られていないので、この機会に時系列的に少し記してみる。

 西郷従道は、眉毛もギョロ目も隆盛そっくり、大西郷を少し痩せさせたような顔立ちであったため、小西郷≠ニいわれていた。

 天保
14年(1843)鹿児島藩勘定方小頭、西郷吉兵衛の3男として、鹿児島城下、下加治屋町に生まれた。はじめ隆興(たかおき)と呼び、通称は信吾であった。19歳のとき、1年のうちに続けて両親と死別した。










          「海賊になってやる」


 
明治7年、31歳で陸軍少将の従道は、台湾征討軍都督として、参軍谷干城、兵3千6百50人、軍艦5隻、輸送船13隻で台湾へ向かう途中、長崎に着いた時、政府から出兵をやめるように命令がきた。

 「いまさら、やめることが、どうして出来る。もし、どうしてもやめるというなら、これからは海賊になってもやる。……」
 と言って決行した。いかにも、小西郷の面目躍如たるものがある。

 明治8年、陸軍中将。
 明治10年、陸軍卿代理の時、西南の役が起こり、兄隆盛と弟小兵衛と、兄弟3人のうち2人が敵中にあり(次兄は維新の役で戦死)、大変苦慮した。
 その頃のある夜、陸軍省に、村田新八(薩摩藩武士・政治家)戦死の電報が入ったとき、

 「ああ、新八はいいことをしました。こんなことをしでかして、どうせ死なねばならぬ命ですからなあ! しかし、敵の中の人物と言ったら、舎兄の次は新八でしたよ。残念なことをしました。私の兄も、一度ヨーロッパに行って世界の大勢を見ていたら、こんな奇怪なことをするようなことはなかったでしょう……」
 とハラハラと落涙したという。

 明治11年、特命全権公使としてイタリアに駐剳(ちゅうさつ。滞在すること)。
  明治18年に内閣制が創設されると、伊藤博文内閣で海軍大臣になった(この時彼は陸軍中将であった)。そして、欧米諸強国の海軍の軍事と軍政視察の旅に出た。帰国するや直ちに、樺山資紀海軍次官と、山本権兵衛、ついで、英仏両国から海軍顧問を傭聘(ようへい)した。

 明治22年4月27日、上野公園に於ける日本赤十字社総会に皇后陛下(後の照憲皇太后)が御臨席になった時、アトラクション会場(いまの国立博物館)で、松旭齋天一の西洋大手品を見られた。よほど面白かったらしく、明治天皇にお話しになられたときいた小西郷は、5月27日自邸の園遊会に両陛下が御臨席になられた時、天一一座の水芸、西洋手品を天覧に供した。



現在の代官山・旧山手通り端にあった西郷邸で明治天皇皇后両陛下ご臨席の園遊会の情景 
   
イラスト:石野英夫(元住吉)


           「名前なんて何でもいい」


 
明治23年洋行中、陸軍の書記が「隆興」を「りゅうこう」と読み、その音をまた誤って「じゅうどう」と聞き「従道」と書いた。あとでそれを聞いて、「ハハハ……従道か、これでもかまわぬ、よしよし…‥」
 と、以来「従道」に改名してしまうという、無頓着なところがあった。

 同年5月、海軍大臣の椅子を次官の樺山中将に譲った。明治24年6月には、第1次松方内閣の内務大臣になったが、露国皇太子遭難事件が起こり、辞職。
 しかし、再び
26年の第2次伊藤博文内閣の海軍大臣になり、日清戦争に軍艦の松島・三笠を竣工して間に合わせ、後継者に山本権兵衛を擬し、日露戦争に備えさせた。

 このように、前後22年5カ月の間に、閣外にあったのは僅か1年8カ月というのだから、その偉大さがわかる。

 明治35年、60歳で亡くなったときは、元帥海軍大将、従一位大勲位侯爵となっていた。兄弟は以下の4人であった。

  父・西郷吉兵術・・・長兄・隆盛(西南の役戦死)

   次兄(戊甲戦争戦死)

   従道・・・長男・従徳 / 次男・道親

     弟・小兵衝(西南の役戦死)



昭和38年まで青葉台2丁目にあった西郷従道邸

 
侯爵・西郷従道邸は昭和383月まで代官山のヒルサイドテラスの前を走る旧山手通りに面した青葉台2丁目にありました。が、重要文化財の指定をうけ翌39年7月10日岐阜県にある財団法人明治村に移築されました。



明治天皇が天覧相撲をご覧になられたベランダ

 
明治天皇は明治22年5月24日、この西洋館の大ベランダから前庭で行なわれた天覧相撲をご覧になられました。皇后と皇太后は翌25日、当時西郷従道が後援していた養蚕技術の改良成果の展示を熱心にご覧になられました。

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