編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
編集:岩田忠利      NO.250 2014.9.25  掲載

        画像はクリックし拡大してご覧ください。

  多摩川に育まれて

       詩人赤石信久

  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”


   掲載記事:昭和57年10月1日発行本誌No.13 号名「櫟」

   



     
丸子城を中心にした8町


 東京からの新幹線が多摩川を渡って、すぐ左側にこんもりとした森がある。その森の中に、ここ丸子地区でも由緒ある日枝神社という神社がある。そのあたりに丸子城があったといわれている。

 丸子という地名はその丸子城を中心として、八町を数える。中丸子、上丸子、上丸子山王町、上丸子八幡町、上丸子天神町、丸子通、新丸子町、新丸子東である。面白いことに、上丸子と中丸子が川崎側にあるのに、下丸子は対岸の東京側にある。ということは、丸子城のあたりに対岸に渡る渡船場があり、対岸の下丸子とは地続きのようなものであったらしい。


 日枝神社に伝わる古文書によれば、対岸は昔、世田谷領沼目(現在の沼部)で、そこと領地争いが絶えなかった。それは、当時の多摩川の度々の洪水による流路の変更により、境界が分明でなくなることが度々であったためである。そこで天正18年(1590年)北条氏直によって裁定されたという印判状がのこされている由である。

 そのように争われたというのも、丸子地区が当時交通の要衝として、軍事的にも重要地点であったことを示している。



      小杉御殿と道路のつくり


 徳川氏の時代になり、東海道の整備がすすみ、現在の六郷橋のあたりが要所となるが、それまでは戦国時代このかた、丸子の渡しを通る中原街道は相州街道ともよばれ、東西を結ぶ交通の
最要路であった。

 それで徳川2代将軍・秀忠の命により、新丸子駅の東北約1キロのあたりに、4万平方メートルにも及ぶ広大な小杉御殿と称するお城のようなものが築かれた。(現・小杉
御殿町)

 それが城であったことを示す証左が、このあたりの道路構成に残されている。新丸子駅から筆者の私宅の上丸子天神町に至る道筋にも、道路が中原街道でぶっつり切れて、またカギの手に曲ってゆかねばならないところがある。つまり完全な四つ辻になっていないのである。
 それで、初めて私宅を訪ねてくる人に道順を教えるのにひと苦労するわけである。これは古い城下町を歩くと必ず経験することで、道路が一目で見通せないようにするという軍事的配慮による構造なのである。いわば、迷路のような道路になっているところがこのあたりに多い。



     多摩川と鮎とカラスと…


 
丸子橋を歩いてわたり、多摩川園駅に向う両側には、みやげもの店、食堂などが立ちならぶが、その中に何軒か鮎の姿焼きの看板をかけている店がある。鮎の姿焼きといっても、あんこの
入ったタイ焼き風のお菓子である。かつては多摩川が鮎の名所であり、ほんものの名物鮎の姿焼きであっただろうに、今は、あんこ入りのタイ焼き風におちぶれてしまったのは、悲しい哉である。

  江戸時代から、大正のなかごろまで多摩川で鵜飼いがさかんであったと聞いて、おどろいた。『閑話雑記』(川崎市市民局広報課編集)には、次のように記されている。
 「当時、鵜を使う漁師は鵜の数を役所に届け、代官所から許可の鑑札をもらい、それを腰にぶらさげて多摩川の清流を上下し、名産の鮎をとっていました。(略)現在でも小杉(武蔵小杉)の旧家に当時の鑑札が残っています」
 と、当時の多摩川の風物詩を思わせるような記録である。

 
25年ほど昔、丸子橋の上流5キロにある二子橋のあたりで釣りをしていると、ハヤなどに混って小さな鮎がかかってくることもあった。ゴム長の専門の鮎釣人の姿もよくみかけたものである。その頃書いた詩を次にあげてみよう。

 タマガワのカラス

   その川はタマガワで

  その川原でカラスが三羽

  カラスは墨よりくろく

  くろくて くろくて

  この世でもっともくろく

   くろすぎて透明になる

  それでカラスは

  どこにいるかわからない

  だからカラスはカアとないて

  タマガワの上を宙がえり

  それをみていた釣人も

   ゴム長ぐつをはいたまま

  タマガワの上を宙がえり

  空っぽのびくが流れて

  カラスが追ってゆく

  カラスが3回

  ないたのてす

   ――詩集『凍夜』(昭和52年刊)より




丸子の“母なる川”多摩川を背にした筆者

撮影:佐立良広(菊名)




    失われた趣と鮭の放流


 
丸子に新をつけて新丸子は、昔、花柳界として賑わったところである。その丸子花柳界の音頭で大正の末頃、丸子の花火大会がそれこそ花々しくうちあげられ、毎年もの凄い人気となった。
 それが交通事情の悪化で中止されてから久しい。これは多摩川丸子の抒情喪失として残念なことである。

 もう一つ残念なことがある。丸子橋の周辺に、ゴルフ練習所、遊び場公園、プロ野球練習所などが整然としてつくられた。このため、ススキやアシや、その他のつる草などで覆われていた河原の野趣が消え、野鳥も棲み家を失ったことである。

 だが一つ、今年は良いことも行われた。それは北海道札幌にならって、鮭の稚魚放流が丸子橋のすぐ上流で行われたことである。3年か4年先には、見事に成長して戻ってくる鮭の勇姿を丸子橋の上から見ようと、多くの都人士が、わが新丸子駅から降りてこられるのを待望しよう。

「とうよこ沿線」TOPに戻る 次ページへ
「目次」に戻る