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編集:
岩田忠利
NO.242
2014.9.22 掲載
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わが町、柿の木坂
松島トモ子
(女優)
沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”
掲載記事:昭和56年7月1日発行本誌No.6 号名「榎」
「柿の木坂」には、その名のとおり起伏に富んだ坂道が多く、全域がゆるやかな傾斜地になっている。どれがほんらいの柿の木坂なのか私はしらない。
以前は家の庭にも数本の大きな柿の木があり、秋には柿好きの祖母を喜ばせたものだった。
そんなことから、地名の由来は柿の木の多い坂、と単純に思っていたが、最近になって「柿抜け坂」とか「駆け抜け坂」などといろいろの説もあることを知った。
柿の木坂とわが家
柿の木坂と我が家のお付き合いはだいぶ古いことらしい。海外生活の長かった祖父が、そろそろ日本に落ち着きたくなった時に、私の祖母と母は、ゴルフ好きの父のために、ゴルフ場に近くて都心にも便利な所を、と懸命に探して、ここに住まいをきめたと聞いている。
現在は駒沢公園や競技場になっているが、小じんまりとなかなか良いコースだったようだ。晩年病気がちだった祖父は、それでも主治医をパートナーに、短い余生を楽しんだとのこと。やがて戦況も厳しくなり、ゴルフ場はイモ畑と化してしまった。
母が結婚したのは昭和
19
年、戦争のまっただなか、父はお見合いをしたその晩に、ひとり娘を手離し難い祖父母の気持ちを察し、駆けつけて来て、「お嬢さんを下さい」と直談判したとのこと。その出来事もやはり、ここ、この場所だったわけで、父はさらうようにして母を連れ、満州に渡り、半年めには現地召集で帰らぬ人となってしまった。
その後に生まれた私はカンガルーのように母の考案した袋に入れられ、生きているのが奇跡のような状態でこの柿の木坂の家に辿りついたとのことである。今でも母は、栄養失調でやせ細り、汗もだらけの私を畳の上にソッと置い
た時の話をする。眼ばかりでカエルのような子だったと。もしあの時、この家が戦災にあい、焼けていたら、私たちは別の人生をたどっていたかも知れない。
以来、私はここにドッと居ついてしまい住所を変えたことはない。引っ越しにあこがれ、横浜に住んでみたい、広尾もいいナーと夢はそれからそれへと広がるのですが、柿の木坂から私を連れ出してくれる王子様は現われそうにもない。
愛犬とわが町、柿の木坂をお散歩、松島トモ子さん
撮影:川田英明(日吉)
柿の木坂とわたし
アメリカ留学のとき、2年間ほど、一度だけこの土地を離れたことがあった。
寄宿舎はニューヨーク郊外の深い森の中にあり古いお城のような建物で、私はそこでのびのびと幸せな学生生活を送ることができた。卒業後に唄と踊りの勉強のため、マンハッタンに住んだ時は、「世界で一番大きな街の一番小さな部屋をあなたに貸します」と、管理人さんに言われたとおり、それはそれは小さな部屋だった。息苦しくて窓を開けても、空はビルの谷間にひっかかり、きれぎれにしか見えない。その時初めて、緑と土の家が持つ幸せをつくづく感じることができた。
私がまだ小さかった頃、私の家は駒沢通りに面しており、通りに出ると突き当たりに富士山がくっきりと見え、その向こうにまっ赤な太陽がコトンと山陰に落ちるのを見ることができた。
呑川には水が流れ、四季折々に木々が色彩を変え、庭木のあちこちでは小鳥たちが、キーン、チュンチュンと飛び回っていた。そんなのびやかな自然の風景が遠い思い出に押し込められそうになるきょうこの頃。
今では近くに環七が走り、富士山も消えてしまい、「きんぎょー、エー きんぎょ」の声もチリ紙交換と変わってしまった。
それでも、目黒通り、環七、駒沢通りに包みこまれた一画は、一歩奥に入ると、閑静なたたずまいの柿の木坂がある。お隣の桐村さんのお庭には武蔵野の面影が残り、虫や木の実をついばみにくる鳥の種類も季節ごとに変わっている。目黒区の天然記念樹に指定されたみごとな〃しだれ梅〃には毎年サギが訪れて美しい声を聞かせてくれる。
犬の散歩で歩く道で行きあう方たちは、昔と同じお顔のままに歳を重ねられ、ここでは私も昔のままの 〃トモ子ちゃん〃なのです。「お元気?」と聞いてくださるお言葉にも情がにじみでていて懐かしい。
長い間には嬉しかったことも悲しい出来事もあり、それがそのまますっぽり包みこまれたようなやすらぎをおぼえる。この角を曲がるとセントバーナードがいて……お花が沢山咲いているお庭にはコリーがいたっけ、チャウチャウたちは引越したようだし、うちの紀州犬のボーイフレンドもこの頃は見えないようだなどと、顔を見なくなった犬達のことも心配しながら、バラやあじさいの咲きこぼれている私好みのコースをたどる。
お引っ越しをしてみたいという願望は、まだ消えてはいないけれど、きっとこのまち、この場所で悪戦苦闘しながら想い出をつづってゆくことでしょう。
イラスト:山本美奈子
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