編集支援:阿部匡宏
投稿:益田 勲(横浜市神奈川区神之木町)   編集:岩田忠利    NO.223 2014.9.16  掲載 

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樹木  駅名の由来@ 

      遺構
“電探”=電波探知機



 はじめに


 電探(でんたん)とは昔の軍隊の用語で、レーダーのことです。正式には電波探知機(帝国海軍では電波探信儀と言います)です。

 電探の記述が残っている太東崎、夏島(?)を探ってみました。
 
 レーダーの歴史はかなり古く、ドイツのハインリヒ・ヘルツが電磁波を当てると、反射波に干渉が生じ物体を捉えることが出来ることに気が付きました。今では自家用車にも搭載され、衝突回避に役立っています。

  ヘルツの名前を知ったのは、今から40年位前です。それまで周波数や振動数をサイクルと言っていましたが、1972年にSI単位に移行した時にヘルツ(Hz)に変わり、ヘルツの名前が単位として用いられ、ヘルツと言う人を知りました。(自分が知らなかっただけですが)





 
電探の研究所がここに

   太東崎 (千葉県いすみ市岬町和泉 太東埼灯台)


 
千葉県夷隅郡に住む軍事おたくのK君のお勧めで、電波探知機の研究所跡を見に行きました。太東埼灯台の敷地内に研究所があったと言います。太平洋を見渡すとても景色の良いところです。

 電探の遺構は礎石として残っていました。礎石は直径7.8bの円形の地下操作室につながっていましたが、何時の時か、崩壊して海中に没したようです。

  千葉の太平洋側の台地は、侵食が進んでいると聞いたことがあります。そのせいで崩壊したのか、米軍によって爆破されたか、そのどちらかです。この岬には「機関銃座の跡」と書かれた看板がありましたが、痕跡はまったくありませんでした。

 ここの展望台には、当時の研究所の資料が貼られています。電探機器は、ここで実験、開発されていました。当時の電探の性能は、「この程度の索敵じゃ戦争に勝てないなあ」と思われる程度の技術ですが、軍事的には画期的なものだったらしく、航空機早期警戒用2式1号2型電波探信儀は、戦艦大和にも搭載されていました。

 他にも、3式1号3型電波探信儀は対艦船用です。終戦直前には3式2号1型が、60台ほど製造され、日本各地に設置されました。岬の下の海岸にも実験装置があったらしく、その写真が残っています。今は影も形もありませんが…。
 電探制御室は、地下の密閉された部屋で、照明も落として操作しないと、ブラウン管が暗く、インジケーターの解像度も悪かったため、探知できなかったようです。



       太東埼灯台

2007
年8月12日撮影:地名の太東崎と字が異なります



       太東崎電探礎石

2007年8月12日撮影:この下にあった制御室は崩落しています



      太東崎電探図

2007年8月16日撮影:資料は展望台の壁に展示してあります





       太東崎制御室図
2007年8月16日撮影:これは有名な図で、良く参照されています



    夏島 (横須賀市夏島町


 
ぜひ見ておきたかったものの一つが、夏島の山頂にある監視塔の鉄塔です。電探のための塔かと思いましたが、やはり索敵と航空隊の管制塔の役割を持っていたらしい。

  夏島は海軍航空隊の滑走路を守るために造られた要塞です。当時の最新兵器、「電探」も備えていたとは思いますが、記録が残っていません。

  鉄塔の近くに、観測所付属室(主観測室)の地下壕がありますが、ほとんどは埋没しています。しかし、内部は崩壊せずに綺麗に残っています。ここが電探の操作室であっても、おかしくありません。

 戦時中は、光波や電波で人を殺すことも考えていたらしいので、それなりに電磁波の危険性も知られていたと思います。地上部にあった通信室の基礎が、山頂に残っています。これがそうかもしれませんが、よく判りませんでした。



         夏島地下壕

20121020日撮影:観測所付属室(主観測室)の跡です










夏島監視塔 20121020日撮影:鋼材が腐食しているので危ない!
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