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編集支援:阿部匡宏 |
編集:岩田忠利 NO.193 2014.9.02 掲載 |
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題字:青山杉雨(書家。文化勲章受章者)
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今に生きる書道界の巨匠 青山杉雨さん
(最寄駅・尾山台)
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沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”
掲載記事:昭和63年12月20日発行本誌No.45 号名「柑」
企画・編集:岩田忠利 取材・文 :佐藤由美子 (日吉)
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青山杉雨(さんう)先生は、若年から書道の天才といわれ、書の最高峰を極めた達人。今秋、書家にとって最高名誉の文化功労者に推挙される。
独自のスタイルとざん新な書法は、世田谷区等々力に住み、今や日本の書道界では“等々力天皇”と称される神格的存在。
先生の人間像を深く掘りさげるべく、書の粋も極みも理解出来ぬ若輩が、自己流の象形文字(?)をひっさげて、怖れと不安とおののきの中、自らを好奇心の鬼と化して、いざ……。
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親戚中、全員が書家
明治45年、愛知県の現在の江南市生まれ。幼い頃、青山の本家へ養子にもらわれる。その後、生家へ養子入りした大池晴嵐(義兄にあたる)と親しくなり、書家をめざす彼の影響をうける。親類じゅうが、全員書家という、特殊な環境に育つ。
上京し、芝中学校に入学。西川春洞の流れをくむ林祖洞先生の薫陶を受ける。書家としての道は、おのずと開けた。
東急電鉄の専務・松浦さん
「22歳の頃は、東横百貨店の宣伝部にいたよ。店にさがってる、ビラや看板をよく書いたもんだ」 今の店内装飾係。字書きは年中、字を書いていればよく、気楽そのもの。しかし、習字塾を開く27歳の時、ここを辞めた。
「お前みたいな若僧が人を集められるか? 第一、飯も食えまい」。同僚に冷笑されても「わからないが、やれるだけやってみたい」と答える。
その中で、五島慶太さん(東急電鉄創始者。五島昇さんの父)を支える専務の松浦さんが、唯一励ましてくれた。
「よしわかった。ここを辞めてもいつでも遊びに来い! パスは5年間タダだ。百貨店では割引き。塾の生徒も、知り合いに声をかけよう。がんばり給え!」。
そのことばに励まされ、辞めても、ひんぱんに遊びに行ったため、退職したことを知らなかった人も多かった。
松浦さんは、その後まもなく肝臓癌で亡くなったが、今でも心に強く残る恩人だ。
部屋の隅から隅まで墨だらけ
不安な気持ちで始めた塾も、尾山台小学校の開校と重なったことや、当時この辺りに書道塾が珍しかったため、驚くほどの大盛況。なんと、尾山台小学校の学童700人のうち、450人までが青山先生のの塾に通っていた。
「昔、この辺は原っぱだったから、学校が終わって鐘がなるってえと、ワァーワァーってわが家へ向かって来る子供たちの声が聞こえたほどだよ」
大勢の子供たちに囲まれ、家は寺小屋さながら。とにかく部屋じゅう墨だらけ。その中で印象に残っている子が、現在女優の池内淳子さん。
「中沢さん(本名)は、可愛い綺麗な子でね、いつも小さい妹を連れて来て、横に座らせていたよ。大人しくてお人形さんみたいだった。今はどうしているかねえ」と当時を懐かしむ。
生涯の伴侶と29歳で得た無鑑査の資格
28歳の時、同じく書を志す8つ年下のトク子さんと縁あって結婚。以来、先生を影になり日向になり支えている。
「いつも隣にいて、紙を引っぱったり墨を注いだりしてくれて、良くやってくれる。本当に心から感謝しているよ」 病気の時も明るく励まし、今回の受賞も一番喜んだ奥様、まさに妻族の鑑。再来年は金婚式と、さらにめでたい。
この頃、泰東書道院の展覧会に出品。3回目で最高賞の、総裁東久邇宮賞をとる。
巨匠・豊道春海に認められ無鑑査の資格を与えられたが、若いため人にねたまれ、立場を辞す決心をし、豊道先生宅を訪れた。が、先生はとりあわず、奥様は「あなたは若い」と辞表を仕舞う。
1年後、少年部の審査員になり、この話はこれっきりに。今ではこの奥様に、お札が言いたい気持ちだという。当時を振り返り、
「この時の作品は、カエルをつぶしたようだった」と照れ笑い。審査員は、よほど先見の明があったのだろう。
「師寧堂」とする書斎
30歳で、西川寧氏に弟子入り。師は清朝の金石書法を進め、歯切れ良い木簡法で、隷書が漢代にどう書かせていたかを復元。師事当初、ケ完自の詩を読み、書の話にふけった師とは、戦後、共に苦労をわけ合い、現在も親しい。
文筆活動の部屋を自ら『師寧堂』と名付け、師と仰ぐ。
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作品「感妙」
青山先生はご自身の作品について、こう語る。
「芸術なんて口で説明するもんじゃないと思うよ。人それぞれ、見て神経を揺さぶるものが、その人にとって縁があるというものだ」と青山先生 |
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戦争、そして終戦
そのうち太平洋戦争が激しくなり、先生も海軍に召集。だが、すぐに終戦。ポツリと言った一言「戦争はイヤだねぇ」に心境がしみじみと。
戦後、家族は新潟へ疎開中、書道塾も休み。再び、東横百貨店へ復職。
「その頃入社したのが、今の東急の社長三浦 守くんだよ。頭が良くて偉くなるだろうって冗談まじりに言ってたら……まさか社長になるなんて」
人間、先のことはわからないものである。
ニイハオ、中国! 昭和33年から40回訪中
「初めて中国へ行った時のことは、よく覚えているよ。憧れの地だったからね」。
初の訪中は、1958年(昭和33年)の第1回訪中書道代表団。中華人民共和国成立10周年を記念して、招待された時である。初夏、1か月あまりの汽車の旅は文字文化に触れ、感無量の連続だった。
一番印象深いのが、豊道先生が紫禁城の大広間で「和平友好」と大書きしたこと。帯のような大筆を、墨汁を入れた金だらいを持って追いかける、それが青山先生の役目。帯の根元に墨を補い、足は墨でまっ黒。豊道流の立派な草書ができた。
その後、40回近く訪中。特に江南は愛着が強く、自ら『江南遊 中国文人風土記』を出版しその神髄を語る。
私の作品は、広い視野から見れば絵かも…
「最近は、中国の古い文字をよく書くよ。性格からいうと目に直接訴えるものだね。隷書(れいしょ)・篆書(てんしょ)といった古典文字、少字数、大字だ。私の作品は、大きな視野からみれば絵かもしれないよ」
現代的なスタイルは、青山先生独特のもの。我々の感性に直に飛び込む感じがする。
現在お弟子さんは60人と言うが、世間では2000人と言われている。そのひとり、女優の黒柳徹子さんは5年前「現代書道20人展」を見てこの人に習いたい″と師事。頭の回転が早く素質充分。よく手紙をくれて、うれしいと青山先生は言う。
昨年、前立腺癌の大手術後、放射線治療を続け目下療養中の身。目にみえて体力も落ち、制作が困難な状態に。
「そんな時、文化功労賞をもらって、正直、うれしかった。もう少し、がんばれよ″と肩をたたかれた感じだ」とおっしゃる。
先生は、寡作家。作品は少なく、未だ個展を開いたことがない。
最後に一言。
「僕の晩年の仕事をひとまとめにしたものを残して死にたい。そういうことが出来たら幸せだなあと思っている」と語った。
力のこもった先生のことばに思わず胸が熱くなるのを覚えたのだった。
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書の可能性を探求し発展させた
「巨星・青山杉雨、生誕100年展覧会」から |
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青山杉雨先生の横顔
明治45年、愛知県江南市に生まれる。大東文化大学教授。号は杉雨(さんう)。
昭和16年泰東書道展で総裁東久邇宮賞、17年から西川寧に師事。58年芸術院会員。60年勲3等旭日中綬章受章、63年文化功労者、平成4年文化勲章受章
著書:『江南遊 中国文人風土記』、『明清書道図説』、『書の実相 中国書道史話』など。世田谷区等々力5丁目在住。
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